第7話 高杉晋作入筑始末並びに大坂屋の会見
高杉晋作の倒幕を企図するや筑前・肥前(鍋島)大村の諸藩と連合してこれに当たらんとの意見を持したりき、あたかも好みし我藩同志は書を飛ばし来筑を促したりしをもって高杉は中村円太(我藩)大庭傳七(長府)渕上郁太郎(久留米)と共に海路来って博多(現今の商会いわゆる波止場)に着し二口屋に投ず。
対馬小路に帯屋と称するあり、主人治平はことに勤王の志を抱き任侠なる快男児にして中村と相知ること深きをもって、これを相探りてただちに再び中村を長州に赴かしむ、これ中村は藩府の嫌疑あるをもってなり。高杉は予等と大体の協議をなしたるの後、多田荘造(対州)が慫慂に従い平田大江に謀るところあらんと欲し、田代に赴かんとせしかば予等はこの行あるいは徒甬に帰せんと止めしも、強いてこれに赴きたり。
果然(かぜん・はたせるかな)平田は対州(宗藩)の要件多忙の故をもって要領を得ず空しく帰博せり。これにおいて予は高杉を伴い太宰府松屋孫兵衛方に赴き、月形、伊丹、安田、西島、筑紫等を会し、まず高杉が肥前に赴かんとするのを止め、早川等と長州藩に遣し説くに三太夫および四参謀幽閉赦免の事をもってし、在長府の五卿を他に移しなお本藩より使いを薩藩に遣わし薩長の連合を説き、然る後に諸藩を説いて天下の大事を決せんことをもってせしかば高杉大いにこの説を賛し、その方策につき熟議をこらして博多に帰る。
ある日、高杉酒を仰ぎ佯狂(ようきょう・常軌を逸したふりをする)して石堂橋の欄干を斬る。俗論党おおいにその暴行を咎め誹謗至らざるなきも、高杉は豪放不羈(ごうほうふき・思いのまま自由に振舞う)区々たる毀誉褒貶、意とするところにあらず。今中、筑紫、予等これを弁解してようやく事なきをえたり。
柳町某楼に少年あり、年十二三容顔秀麗なり、高杉これを愛し旅館石蔵屋へ携へ来る。予等同志は高杉を牛町、千田方に伴い協議の末、野村望東尼に謀り同氏の山荘に移す。当時山荘には瀬口三兵衛ありを留守しおりけり。
一日高杉予に語って曰く、「貴国にて百名の兵を出さば吾は共に郷国に赴き、萩の俗論党を滅し国論を一定して、もって天下に尊王倒幕を呼応すべし」と。予高杉を伴い行いて矢野梅庵に諮る。梅庵大いに驚き、「しかのごとき暴挙はいたずらに事を破るものなり、いかに神謀奇策の存するあるも百余の寡兵をもって三十二万石の強藩に当たるをえんや」と、これを賛せず。早川聞いてこの挙は言うべくして行うべからずとなし、月形等もまた不可となしたりき。
予、高杉と月形を訪い早川を呼び来たらしめこれに言って曰く、「われら機宜(きぎ・都合が良い折)を計り必成を期して断行せんとす。汝がごとき庸医(ようい・藪医者)の知る所にあらず。しかる無礼の言を今一たびせば身首所を異にすべし」と、佩刀まさにその室を脱せんとす。早川叫んで曰く「洗蔵君早く来たれ高杉、林、予を斬らんとす」と、救けを求めければ、月形馳せ来たりて早川は殺すべからずと予を抑制しぬ。高杉憤然として予に謂いえらく「彼等に諮るも益なし、君と共に長に入り兵を挙げて姦奸の徒を亡ぼさん」と、共に去って赤坂に到り酒を飲んで山荘に帰る。
暫くして月形、早川等来たり大いに憤怒の色をなして曰く「君等の粗暴実に言語に絶す、そのごとき挙動にては国家の大業を誤るや必せり」と、追責はなはだ激し。高杉もはや憤懣に絶えず早川を斬らんとす。瀬口大いに恐慌憂慮し区々たる論争より同志相戦うは不可なりと和解はなはだ務めようやく各怒りを解くを得たり。よって予、高杉と早川に告げて曰く「長州に入る予等に良策あり、いたずらに百余の寡兵をもって長兵(俗論党)に当たるの暴愚を学ばんや、今や必ずしも兵を要せざるも、ただ万一に備うるのみ。建部、加藤等にも諮りしに長州の志士もし正義の帥を起こさば本藩も兵を出だして応援せん」とその賛同を得、また西郷も衣斐、齋藤に告ぐるに幕府、仮令我藩に出兵を促すも、無名の師は動かさざるべきをもってせり。乞う挙兵の事は、予等の策のあるところを諒し深く討究(とうきゅう・討議して研究する))せずにして非難したる失言を謝したりき。
後数日にして高杉来たり訪ない、挙兵の勇断決行すべきを談ず。予、ここに懐に抱かせる意見を藩主に建言したるも採用せられしを慨し、その建白書を彼に示す。彼通読してその意見を同じうするを喜び、君はこの主張を決行して大坂城に向かうべし、しかるに長州は貴国より彼の地に近し、先鋒はまず吾これに当り兄等の背後に落ちざらんと、あるいは戯言を交え、互いに胸襟を披瀝(ひれき・打ち明ける)して懇談数刻におよぶ。のち西郷等と会見せしめたるも、この時の凝議(ぎょうぎ・謀をこらす。)に基づくなり。
三太夫処分の報来るや高杉深くこれを憂い帰心矢のごときも旅費無きをもって同志はこれが調達を為し、伊丹、早川、瀬口、安田等と共に対州屋敷出発す。博多継所古門戸に到り駕籠を命ず。高杉一同に謂って曰く、「行人吾等の顔貌を見、煩わし、手拭を冠りては如何」と、予曰く、「藩より贈りたる博多絞の手拭あり(紺赤にて絞りたるもの)これを冠るべし」と。のち預かってこれを冠り、互いに相見てその異様の扮装を笑いたりき。時に月形来りて伊丹をして左の觸状を出さしむ。
国家の為メ有志何某々々長州人高杉晋作等罷通候に付駕籠、宿等無滞可罷通自然遅延之者有之候節ハ厳科二処ス可キ者也
しかのごとく月形は治道の命(沿道の命か?)を渡し意気軒高として倒天覆海(とうてんふかい・天を倒し海を覆すような強い行動)の概ありたりき。高杉、伊丹に語って曰く「月形先生は圭角(けいかく・性格や言動にかどがある)多く円満を欠くも、その気骨に至りては稜々たるものあり」と。
伊丹、瀬口に謂って曰く「塩笊に金子千両余容れ置きたり、君、受任して諸費を支払い来たれ」と、あたかも臣僕に命ずるがごとく態度傲岸なりしかば、瀬口憤然として怒り「どこにあるや」と問う。伊丹答えて「溝端にあり」と、瀬口「これなるか」と蹴りければ一分金は地上散逸して黄金の花は開きぬ。予等これを拾集してその大部を収めたるも、なお溝中に落ちたるものあり。高杉、駕籠より下り溝中を探り「浪人は金銭を得るはなはだ難し、一分たりとも遺すなかれ」とことごとくこれを得たり。
かくして吾一行は急行赤間に到り早川は高杉を伴いその宅に帰る。初め五卿は赤き心の名に因める赤間に移さんとの議に一決したりしも、月形の提唱により太宰府に迎うるに到れり。森、筑紫、瀬口、伊丹、安田及び予はまず黒崎に着せしに、早川も追及して一行に加わり、船に賃して(船を雇う)馬関に渡る。高杉は友人の博多に立ち寄るを聞き赤間より踵を返すのち馬関に来たり、吾等同志と会合し転じて伊佐に赴き、伊藤、太田、野村等と兵を募り百五六十を得て帰来、新地の寺院に屯す。
予、早川、藤等とその屯所を訪う、高杉打裂羽織(ぶっさきはおり・羽織の後の下方を縫わずに割ったもの)を着し、甲を冠り、威容堂々として将帥の風貌ありたりき。高杉、五卿に訣別するの時、予等は長府綿屋重三郎方に宿す。高杉五卿に謂って曰く、「吾今より兵を挙げんとす、長州男子の勇魂毅魄を示すはこの時にあり、乞う刮目してこれを見られよ」と。気を吐くこと虹のごとし。
次で予等は長府の関門を出て馬関に赴く、これ元治元年十二月十六日なりき月形は同地において加藤が長州応援の出兵に賛成尽力したる顛末を、予及び伊丹に聴き大いにその英断を賞揚したり。やがて高杉は萩より回漕し来りたる。癸亥丸をもって兵を三田尻に送り遂に戦端を開きたり。
追記 新地寺院屯営中高杉麾下の兵何物かの首亀山に梟したることあり
馬関稲荷町大阪屋二階なる大広間においておいて、予等高杉と会見せし時、高杉、予に語って曰く「今戦を開かば吾が攻略は挟撃にあり」と、箸をとりその陣営を作り詳しくその戦略を示す。時に真木菊四郎来たり、言を挟まんと曰く「君等今兵を起こす無謀もはなはだし、筑前の斡旋により薩長和解して後おもむろに事を謀るにしかず」と。高杉大いに怒って曰く「足下の尊父、天王山に斃れるは何のためなるや。薩長和解に容喙(ようかい・横から口出しをする)するがごときはその分にあらず」と。細川等も菊四郎と激論数刻に及ぶ。後ち藪の谷と称する所において遂に斬殺せられたりと伝う。
菊四郎人の為り粗暴にして陋劣(ろうれつ・卑劣)なり。予、かつて伊勢に(馬関)宿泊したりし時深更かすかに来って新調の袴を盗みさらんとするものあり。不図(ふと)覚醒してこれを追跡し、差添(脇差)をもって彼が袴を斬る。彼驚いて二階より飛び降りて逃れんとす。予も続いて飛び降りこれを捕らうれば、栄四郎なり。彼叩頭謝していわく浪人は窮困衣服なくやむを得ずこの挙に出でたり、希くば(こいねがわくば)寛怒せよと。月形、伊丹も出で来りてその不都合を叱責しければ、真木外記(叔父)をもって予にその罪を謝したりき。
高杉が挙兵に反対せんは、真木茶四郎の外、渕上兄弟及び赤根武人、長幸太郎(三州)なりしが赤根は奇兵隊中三百名暴発すと称し、これを俗論党に通じて反覆す。後ち俗論党閉塞するに及び身をおく所なく、我が国に来たり。太宰府に彷徨せり、長も難を避けて太宰府に来る。予は瀬口、今中と共にこれを斬らんと筑紫もまたこれを賛す。早川、月形止めていわく彼を介して西郷に依頼せんと欲する件あり乞う殺すなかれと、後ち早川等と京摂の間に奔走せしところ在りたり。
元治元年長州京師において幕府と戦うや、我藩勤王の同志は大いにその挙を壮としこれに声援するところありたり。城南一山を従え大休山と言うその麓に四十八谷あり。海津、月形、予等これに住し谷連と称し最も急進過激派にして、予等が主張はいたずらに論議を為さんより、すべからく実行を挙げ、いやしくもおのれの所信は泰山崩れ長水あふれると言えども断じてこれを行うと言うにあり。福岡、地行、春吉、組は漸進温和党にして非運に逆らわず、世運の進転に従い漸次その主義を遂行するにありたり。
同志牧市内がごときは傾聴すべき言論ありしと言えども、一たび藩府に登用せらるれば因循姑息にして言行相伴わず、かえって佐幕党の観あり。ついに我同志の制裁に斃れるに到れり。
初め福岡組は藩府の用なる所となりければ予は海津、月形等と凝議し加藤司書を通じて矢野(梅庵)、武部、河合等に説くに我主義の実行をもってし、ついにこれ等の士と諜合して同志を京師および長州に脱藩せしめ、内外相呼応して相摸る所ありたりき。
これより先、黒田公は五卿を迎え長藩対幕府の和解に努めんとせしが、志士等は早くも対長の将、尾張公を広島に説いて解兵せしめたり。幕府は志士等がその措置を憤り、五卿を関東に拉し去らんとして、小林甚六郎なるものを残したれば芸藩また肯んぜずこれを追う。これにおいて幕府は三十万の大兵を動かし再び長藩を討たんとせしかば黒田公は前議を翻し、幕府の意を迎うるに汲みてとしてその激怒にふれざらんことを恐れ、勤王の志士を罸するに至る。あに慷慨の至りならずや。
予等速かに皇家の衰退を挽回し王政の復古を達成せんとするに当り、薩長の反目ははなはだ不利なれば、宜しくこれを連合せしめて事を謀るにしかずとなし、まず長の高杉を説くに薩長の連合は策の得たるものなるをもって、すべからく提携すべきを勧告す。時に西郷、吉井、税所等は政長の軍に加わり小倉にあり。幕吏、若江、鍬吉等と軍事を談ぜり。因みてこれを訪ない説くに、大義名分をもってし区々たる私憤私事に国家の大事を誤るなかれと忠告しければ、彼等もこれを諒として予等が説をいれ将来の方策において牒合(ちょうじあわせ・示し合わせる)する所ありたり。
後ち西郷等が福岡に来たり高杉に面会して相謀る所あり遂に予と共に長に入りまた芸州に赴き尾州老公に説くに国家の時務(じむ・当世の急務)をもってしたるがごときは、実に予等がたすけきに斡旋せるに基因する所なり。この間において高杉等は長の内訌を治め兵備を厳にしかば、幕府討長の軍は危うくも撃破せらる。
これより威信地に堕ち墜ちついに転覆のやむを得ざるに到り、王政旧に復し維新の大業なりぬ。ああ予等当年の若心実にかくのごとし、今人の王政に謳歌するいささか予等苦衷の功績に胚胎するならんや。あえて有識の士の認識に望むところなり。
【参考文献】
ここまでの本文は林元武の回顧録になりますが、以下は明治26年に書かれた高杉晋作の伝記です。その中から高杉晋作の筑前亡命の部分を当方が意訳しています。関係者よりの聞き書きを元福岡藩士の江島茂逸がまとめた伝記になります。西郷に関係する記述は史実と違うような箇所も見受けられますが、当時の志士達の活躍や交友関係がわかり貴重な資料となっています。
高杉晋作入筑始末 江島茂逸著 訳・解説・黒船屋
総ページ140ページ中36~67ページ 筑前潜伏の場面
博多の侠商『石蔵卯平』は『高杉晋作』等の一行を迎う『中村円太』
深夜に『月形洗蔵』を訪うて九州連合の密計を告げて高杉晋作の潜伏を図る。
さても高杉等の一行は海上の風波もつつがなくその四日(1864年11月4日)の夜に入りて筑前博多の港に着船せしかは、中村円太は人知れぬよう密かに上陸せしめ、かねてよりの知辺(しるべ/友人や知り合い)である博多上鰮町の対馬藩御用商人・石蔵屋卯平といえる侠商(義侠心のある商人)に面接して、事の一伍一什を(いちごいちじゅう/一部始終)を語り、高杉晋作と大庭伝七は表向きは対馬藩の者としてこれを投宿せしめ匿うよう手配し一応身の落着は得たり。
※石蔵卯平 対馬藩御用商人のち奇兵隊 暗殺される 墓・萬行寺(博多)
※中村円太・福岡藩士・高杉晋作に九州連合提案。従四位・墓・正光寺(唐人町)
※大庭伝七・長府藩士・清末藩御用商人の白石正一郎の弟で大庭家の養子
※月形洗蔵・福岡藩士・長州周旋に務める。正四位 墓・少林寺(福岡)
如何せん中村円太はかって三度も藩法(藩の法律)をおかせし身にてありせば壁に耳有るの世の習い、もしや藩吏(藩の役人)の目にふれなばたちまち縲紲(るいせつ/捕縛)にかかるべきをもって、いずれの地にか潜伏せんとて一人心を痛めし折柄、思い当りし事がありとて、その夜もすでに更けわたり人の寝静まりし時を謀りて、かねて地理をも暗しおれば細き路筋を回りつつ城下の関門をさけ往きて、特に親しき朋友なる『月形洗蔵』を訪わん為に福岡の谷と云える所、字鍛冶木屋(今は那珂郡警固村に属す)に忍び来たり。
密かに門を叩きしに、洗蔵の妹の梅子は起き出で扉を開きて玄関に導き、「この深夜におよびお尋ねの仔細はいかの事におわしそうろうや」と問いしも(けだし中村円太がかって法をおかし破獄せしを知りおりたるを以て心にこれを怪しみしによらん)円太はこれに答えず、「その仔細はおって申すべし御免あれ」とて咳ばらいしながらすぐに一間に入る。
折から月形洗蔵は寝床にありて目を覚ましいたれば、その咳払いの声と応答の辞を聞き中村円太なるを知りしかども。臥戸(寝室)の内にて声高く「深夜に人の門を叩き侵して、家に入いり来たりしは何者なるぞ、察するに世を忍ぶ者ならんか、いかにも無礼なふるまいである。我が一刀のもとに斬り捨てるべし覚悟しろ」と罵れば、中村は少しも動ずる色なく「一命は惜しむ所にあらずぜひに足下に面会して稟議せねばならぬ事有り、斬るなれば斬り捨てたまわるべし」とて遠慮もなく月形の寝間に入りし。
「イヤ中村氏か」との挨拶を聞くや中村は坐を占めて、長藩目下の状況より高杉晋作が俗論党の為に捕らわれんとする危機を免れて博多に到着せし事等を語る。
「かくなるうえはまず田代(対馬藩の田代代官所)に赴きて、『平田大江』に面会し九州連合の説を試みて、ここに一団をつくりもってかの俗論党にあたり大いに天下の正気を回復するの覚悟なり」とその言葉さえ凛然として席上に風を生するばかりに述べければ、黙して耳を傾けておりたる月形は衾を撥し(ふすまをはっし/布団をはねのけ)て決起する。
「これ至極の良策なり。実は本年夏の初め『早川養敬(ようけい)』は平田大江を訪いて九州連合の必要を説き、再びこの八月に『淵上郁太郎』を伴い行きしが、平田も大いに早川の説に同意し、拙者もこの十四五日以前に早川はもちろん、『筑紫衛(まもる)』『小金井兵次郎』『伊丹真一郎』『今中作兵衛』などと共に田代に赴きて謀議を凝らし、すでに大江の長男、平田主水は小金井兵次郎と共に藩命をおびて長州に行き我が君公の直書を伝えて、かの長藩をして従来の正義を保たしめんとする所にありし」と詳しくこれに語りし。
中村はまた辞をつぎ「この事はすでに馬関において、淵上に邂逅(かいこう/めぐり合い)し粗々(あらあら/おおよそ)事を聞き及びしが、本藩の正義ここに至りしは全く足下等が誠忠の致すところなり、何卒この際において一層長州の俗論を圧服せられたし」とひたすらその希望を述べる。
月形はこれに答え「君公始め『黒田・矢野・及び大音寺』等三老臣の意中においても深く長の正義の士を援くる(たすくる)にあり、早川・筑紫等はまた藩命をもって明日にも長州に赴くこととなりおれり、高杉来らば及ばずながら拙者もなお力を尽くさん、いずれにしても足下の心労は実に容易の事ならず遠路の跋渉(ばっしょう/歩き)深夜の奔走さだめて疲れおらるるならん、しばし疲労を休めたまえ」とて妹・梅子に酒を温めさせ、互いに杯の数を重ねて慷慨悲憤(こうがいひふん/憤り嘆き悲しむ)の談話の中にも主客はともに快酔をとりしが、円太はこのままその家に潜伏する。
※平田大江 対馬藩家老 平田主水 大江の息子で田代役
※早川養敬 福岡藩医 乙丑の獄は幽閉のち出獄 従四位
※淵上郁太郎 筑後 医師
※筑紫衛 福岡藩士 長州周旋 自宅監禁脱出して那珂川で水死 正五位墓・承天寺
※小金井兵次郎
※伊丹真一郎 福岡藩士・征長の解兵・五卿の筑前亡命に尽力 正五位墓・妙楽寺
※今中作兵衛 福岡藩士・征長の解兵・五卿の筑前亡命に尽力 正五位墓・大通寺
※黒田播磨(福岡藩筆頭家老)・矢野梅庵(福岡藩家老)・大音青山(福岡藩家老)
月形は直ちに燈明を提げて深更密かに家を出てその親友なる『鷹取養巴』の門を叩きて高杉晋作の一行を保護するの策を協議し、暁を待ち両人は侠商(義侠心のある商人)『帯谷次平』を誘い共に伴うて上鰮町の『石蔵屋卯平』邸に潜む高杉晋作を訪問する。
高杉の同行たりし大庭伝七は故ありて福岡下名島町の『高橋屋正助』とかねて知人のことなりしかば、石蔵屋より高橋屋に連絡して高杉の潜伏を謀り来たりし時に会いしをもって、月形・鷹取は、まず帯谷をもって石蔵屋に入り自分の来たりし事を高杉に通せしめ、同家の二階座敷において高杉晋作に面会する。
月形は慇懃に高杉に向かい「昨夜、中村円太は深更を侵して我家を叩きこの度先生を伴いて来たりし旨を告げたり、且つ九州各藩有志者連合の趣意とまた逐一尊藩の近況をも承りしが、今や先生当地へお越しありたるこそ幸いなれ。この上は僕ら同志はいささか一身を投げうちて先生の保護に怠らざるべし」とて心をこめて申し述べし。
高杉もまた丁寧に「尊藩の中村円太君は先年来の好意をかたじけなくし、ついに今日の事に及びたり、この上は何卒先生等のごとき有志諸君の助けによりて上は国家の大計を謀り、下は尊藩の内訌(ないこう/内紛)をしずめんと欲すれば、こいねがわくば先生方が一臂の力を労し給われかし」とて互いに時を懇切の談話の中に移せしが、この時は月形・鷹取は始めて高杉に面接せし次第にして、益々その人に望みを託して深くこれを信任したりと云う。
因みに記す高橋屋正助はその頃、藩の目明し役を勤めていて身は商家の末にありしもすこぶる義侠の心に富み、かって京都成就院の『月照』が幕府の追捕を避けてこの地に来たりし時十四日間その家に隠匿して、月形・鷹取・早川の諸氏とともにこれを歓待し、のちに『平野次郎国臣』に謀り月照を薩摩に走らせたる人にして、この高杉晋作の逃げ来たりし時も心をつくしこれを保護せし等はその職務においては表面上になし難きはもちろん事なりしも高橋屋正助は勤皇の志士と聞けば格別に心を砕いてしばしば金銀も用立てる事も多くその国家を思うの要を得たる義侠なりしやまことに異数の人物と称すべし。
※鷹取養巴・福岡藩医・長州周旋に務める。従四位 墓・妙楽寺(博多)
※帯谷次平 義侠心のある博多商人
※高橋屋正助 下名島町の目明し、月照を匿う
※月照 清水寺成就院の住職・勤皇僧 錦江湾で西郷と入水 墓・清水寺・南洲寺
※平野国臣 福岡藩士・墓・平野神社 正四位
【歴史コラム】1864年11月この頃はまだ乙丑の獄の前段階で藩主の黒田長溥は外国の脅威の中での内戦を避ける思いと、筑前勤皇党の長州藩の同志を救済する思いが一時的に一致していました。
福岡藩の志士『伊丹真一郎』『江上英之進』『今中作兵衛』等、高杉の一行を護衛して、田代に至り対州藩の志士に会して九州連合の必要を説く。高杉再び福岡の志士と共に博多へ帰る。中村円太は吉井村清水坊に危難を避く。
月形洗蔵・鷹取養巴は密かに矢野相模・『加藤司書』等の老臣に事情を告白し伊丹真一郎・『江上英之進』・今中作兵衛をして高杉一行を対州藩の姿に擬し肥前の田代に護送せしめ、且つ俗吏(ぞくり/役人)の偵知(ていち/探知)を防ぐために高橋屋・帯谷・石蔵屋等にも陰然(いんぜん/陰で力を持つ)これに尾行せしめし。
この時、対州藩の家老職平田大江はその領地なる田代に滞在せしを以て、高杉・中村・今中・伊丹・江上等はすぐにこれについて九州連合の策を謀りしに、如何にせん対州藩はその当時、君公の外戚なりし権臣『勝井五八郎』の一派は佐幕の論を主張して突然その勢力を逞しくして、志士平田大江の父子に反対してあたるべくもあらず。
京都及び長州に往復せし林悦四郎・佃島晋十郎・その他二三十人の志士を厳刑に処したる際にして大江の息子、平田主水はその頃、小金丸兵次郎と共に長州藩で対馬藩の内紛を回復せんとして昼夜を分かたず精神を集中して一人この事の心配の最中にありしかば高杉晋作の連合説もこれが為に意のごとく行われず、いささか望みを失いたり。高杉晋作が田代にありし時に次の詩があり。
十一月六日田代驛寄備前閑叟侯(鍋島直政宛て、田代新町に石碑有り)
妖夢起雲雨暗濛路頭揚柳舞東風政如猛虎秦民怨今日何人定漢中
漢詩訳
十一月六日田代駅 備前閑叟侯に寄せる
妖夢が起こり雲雨暗濛(あんもう)なり路頭の楊柳に東風舞う政事は猛虎の如く秦の民怨む今日何人が漢中を定める(秦イコール徳川幕府であろう、鍋島閑叟に決起を促す。)
高杉晋作は我が長藩地の虎口を脱し中村円太に誘われて九州に渡航し諸藩の連合を謀らんとして、その目的とせし対州藩に意外なる内訌(ないこう/内紛)の起るに会し、かねて思慮せし甲斐なくしてその意の容易に行われざりしかば、是非なく再び伊丹・江上・今中等と共に博多に帰伏し、ひたすら時期の至るを待ちしが、ひとり中村円太のみはこの時に対州藩の志士と共に長州藩の回復を謀らんとせしも、公然と博多に往復すればその身に禍の至らん事を慮り、筑前怡土郡浮岳の麓なる修験清水坊管右中のもとに潜伏して、かねて三田尻にて示し合わせし如く、北畠四郎・里見次郎の紀州藩士が今や九州に渡り来るやとその消息を待ちおりたり。
※加藤司書 福岡藩家老 勤皇派 正五位・墓・節信院(博多)
※江上栄之進 福岡藩士・三条実美に謁見 正五位・墓・浄満寺(福岡)
※勝井五八郎 対馬藩家老・宋義達の外戚 佐幕派 尊攘派の弾圧
【歴史コラム】佐賀藩は幕末はあくまで中立の立場で幕府・朝廷・公武合体いずれにも距離をおいていました、佐賀藩(鍋島直正)は政局を見据えつつ軍事力を養い、鳥羽伏見の戦いで薩長が勝利するや新政府軍に加担しアームストロング砲等の最新兵器で多大なる戦功をあげました。鍋島直正は1844年に阿蘭陀軍艦パレンバン号が長崎に寄港した時は、視察の為に乗船して武器の種類や数、歓迎の状況その他を記録しています。
野村望東尼、高杉を平尾村の山荘に迎う。望東尼は月形洗蔵と謀りて薩藩
西郷吉之助を誘い山荘において高杉晋作に会いせしむ。
かくて高杉は対州藩における目的を失して再び博多に帰りしや陰に石蔵屋に潜伏せしも市街雑踏の場所にして自然早くも人目にふるる恐れのなきにあらざれば、月形と鷹取等はさらに周旋(しゅうせん/なかだち・斡旋)をつくし住吉村への通路なる水車橋と云える地の『村田東圃』と称せし画工の家につきてその一室を借り受けつつ暫し高杉を潜匿(匿う)せし。
なお人目にふれることはなきや、いついかなる事やあらんと彼この心を配りし折、柄端(はがら/仔細)なくここに思い出せしは野村望東尼の山荘なり。城下よりほとんど一里を隔てし平尾と云える村にありて車馬人語の声も遠く閑雅幽邃(かんがゆうすい/風流・静か)の一境なれば是れ屈強の潜伏地ならんとて、ついにここに高杉晋作を誘いしがこの山荘は先年月照師のこの地に来たりし時も会いて、ここに誘いて月形・鷹取・平野・早川と密会せしことあり。
また平野二郎(国臣)は数々望東尼の庇陰(ひいん/おかげ)を以て身をこの山荘に潜めし事あり、また去る月、月形・早川等は西郷南洲をここに誘い薩長和解の端緒を開きたる所にして国事密謀の為には実に数々の因縁を結びたる山荘と云うべし。
この山荘の望東尼は容姿温和にして俊爽の(才知がすぐれ品格が高い)志気を有し男子に勝りし気性を以て勤皇愛国の心常に深かりければ、今またここに高杉を潜伏せしめしに望東尼は諸事心を尽くして高杉をいたわり、志士はまた協議してその同志の一人なりし『瀬口三兵衛』を炊夫(雇われて炊事をする人)に代わらしめ、吉村清子(すがこ、皇学者、吉村茂右衛門千秋の娘なり、この時年わずかに十四、後に山路重種に嫁す)をして食膳を進めしめその注意常に怠りなからしめたり。
ある時高杉は清子に向かい「阿嬢もまた大和心を持てるや」と問いしに、清子はすぐに筆を取りて「我もまた同じ御国に生まれ来て大和心のあらざらめやは」としたためて出せしに、高杉は見てこれを諳んじ、さても感ずべき阿嬢なるかな、これもまた望東尼の薫陶によるべしとて大いに之を称賛せしと云う。
ここに月形・鷹取等の諸士も続々高杉に会合して共に天下の形勢を談じ時には酒宴を設けて互いに献酬(けんしゅう・盃のやりとり)しあるいは書画の席を開きて筆硯を弄し憂悶(ゆうもん・憂えもだえる)無聊(ぶりょう・たいくつ)を慰むるに余念なかりしが高杉の詩に・・
筑前福岡流寓中偶成
捨親去國向天涯畢竟斯心莫人知自古人間蓋棺定豈將口舌禦嘲訾
醉中賦呈月形先生
落魄飄零客恰如廣野禽比君經國業又之一般心
東洋一狂生東行拝具
錄旧製應月形先生嘱
酔倒京城幾酒樓楚雲胡水共悠々帰来誤落野山獄空億會遊遺結愁
薩藩の士西郷吉之助はこの年十月に福岡に来たりしがその当時において月形・早川は長州との和解の事を説き試みしに元より異議なしとの答えを以て帰藩せしが又この頃西郷は再び福岡に来たりてしきりに国事を謀りつつありければ月形・鷹取は之を機として数々西郷に面会しついに同氏を誘うて高杉が平尾の山荘に案内したり、高杉は始め薩人に面会する事をしいて否めしも、後には心解けて西郷に会合したり、この時望東尼の歌に
くれないの大和にしきもいろいろの糸まじえねば綾はおられず。
西郷が即席において望東尼に贈りし詩あり
奉贈比丘尼
鴿驚雄戛々聲頻呼朋友勵忠貞翕然器量邦家寳最仰尊攘萬古名
(右詩一幅は望東の跡継ぎ野村小太郎之を秘蔵す。)
この日はあたかも朗晴の秋天にして望東尼の山荘を囲繞(いじょう/取り囲む)する樹木の霜葉(そうよう)は紅を染め古松(こしょう)の青色(せいしょく)と入り交じりて天然画の如き麗色を添へ山林の風色坐過(ふうしょくざか)するに堪へざりければ、西郷・高杉及びその他の人々は共に環坐談笑(かんざだんしょう)に時を移せしも、イザ近野に逍遥(しょうよう/ぶらぶら歩く)して野興の趣味を試みんとて一同望東尼の山荘を出て獲物の松茸を下物(かぶつ/つまみ)として林間に酒を温め閑歩閑吟(かんぽかんぎん)の間に時事をも交えて談じつつ互いに心を郊外の清遊に養いたり。
この時高杉は西郷を顧み「足下は久しく孤島の獄に在られしと聞きしが、足下の健歩かくの如きは実に驚き入りたり」との言を聞きて、西郷は笑いながらに「島よりして帰りしときは心のみ馳せしも腰は立ち得ざりしがこの両足こそ大切なる商売道具の随一なれば篤く自ら養生してほとんど旧に復したり」とて互いに獄に在りしなどを語り月形・鷹取も三年間牢内にありし苦しみを話などためして殆ど夕日の西山に落つるを忘るるに至れり。
この日は各詩歌の秀詠などもありし由なれども今散逸して伝わらず。誠に惜しむべき哉。その後高杉は「痛く西郷に密会したることを秘しくれよ」とのことを申せしに「この会合の秘密は勿論、我々が先生に会する事も世に知られては一大事なり、しかし今日の秘密は他日公然の種子なるべし」とて鷹取は高杉に答えたりとぞ。
【歴史コラム】平尾山荘での西郷・高杉の交遊はこの伝記の中でも山場のひとつです。実際にはその頃西郷が岩国・広島で活動中で「西郷と高杉の会見は無かった」との指摘があります。歴史ロマンとしてあってほしい話です。
高杉の平尾山荘に滞在せしや日重なれば誰言うとなく、長州奇兵隊の浪士密かにここに入り込みしなどの取り沙汰も起こりければ、自然藩吏(藩の役人)の耳に入りては捨て置きがたきことなりとて、ある日高橋屋正助に命じ果たして、長州浪士の入り込みし者あれば速やかに逮捕の手続きを為すべし。とて数度の尋問にも及びしが正助はもとより高杉がこの地に在るを知りしとはいえ深くこの事を押し隠せしも、事の危急に迫りしを察し密かに月形・鷹取等の志士に告げてその戒心を促せし。
月形等は更に協議して博多の下対馬小路なる対州邸に至り『江崎彌忠太』に面会してその旨を相談せしに折から平田大江も薩長和解の筑前藩議に同意せんとて幸いここに居合わせしが、平田は密かに「高杉を我が邸内に移しくれなば幾人の捕吏襲い来るとも我等においてこれを保護し、もしなおの事の危急に際すれば手船を放ってこれを逃がさん」とて最も頼みある回答をなしたり。
『浅香一索』『早川養敬』『筑紫衛』『長谷川範蔵』の一行長藩に使いす。月形洗蔵
志士を会して高杉の帰藩を促す。高杉奇計博多において幼女を背負い難を避く
『早川養敬』『林泰』『瀬口三兵衛』岩国に使いして高杉を馬関に護送す。
中村円太が長藩の内訌(内紛)において俗論党の勢力逞しく日に正義の士を捕えるとの内話ありしを以て、月形洗蔵はこの事を家老の矢野相模に密話せしに矢野は聞くや憤然として袂をふるい「第一長州の源を清むべし」との一語を発せしに、筑前の藩議は即座に一決して長藩の俗論党を抑制し正義の士をたすけることに定まりしかば十一月六日浅香一索・筑紫衛・長谷川範蔵の三名を呼び出して長藩に対するの使節に命じたり。
この時早川養敬はその郷里吉田村に帰りその場に在らざりしが藩庁は浅香・筑紫等に命を伝え便道(べんどう・近道)なれば直ぐに共に行動すべしとの事を以てしたれば、三人は速装急発(そくしょうきゅうはつ)して七日の夜、早川の許に命を伝えしに早川は早々その長男の疾病危篤に陥りすでにその死の旦夕(たんせき/時期がせまる)に迫りてその枕畔(ちんはん/枕元)に看護せし折柄なりし。
浅香・筑紫は早川に向かい「長藩の正義の士が禍に罹らんもまた旦夕に迫りし所なり。令息が瀕死の場合に際しその臨終をも顧みずして我等と共に出発せんことさぞや心の苦しかるべし。されども公命なれば是非もなかるべし」とて左右より説きしかば、早川もすぐに一決して即夜同行と共に郷里を出発、九日に萩の城下に着きし筑前の要人加藤司書よりの書簡を出だし、種々筑前藩の趣旨を申し入れしも長藩は頑然として俗論を主張し一も容れるべき模様はなかりけり。
この時長藩にて『福原越後』『益田右衛門助』『国司信濃』の三老臣を刑し、また佐久間左兵衛・宍戸左馬之助等以下の者を刑せしと聞きしかば四使は力なく帰藩の路につき、美祢郡絵堂駅においてその老臣志道安房要人栗屋某が三老臣の首をかかえ芸州広島に備えし東軍の陣営に向かいて徳川大総督の首実験に供えし、長藩謝罪の旨を表するとの事を探知し筑前に帰藩してすぐに是等の諸件を復命せし。
月形洗蔵はこの事を聞くや急書を飛ばして平尾の山荘にある高杉に通報し、且つ鷹取・伊丹・今中等の諸士を会して長藩の事も今やここに至れり。高杉も最早坐視するに堪えざるべし、必ずその運命を省みるの暇なくして速やかに馳せて帰藩するならん。されば高杉の身の上もまた思いやられる事なりして、急に人を長藩に遣わし、よくかの地の状況を探りたし。
※福原越後 長州藩永代家老 禁門の変の指導者 解兵の条件として切腹
※益田右衛門助 長州藩永代家老 禁門の変の指導者 解兵の条件として切腹
※国司信濃 長州藩家老 禁門の変の指導者 解兵の条件として切腹
されどももし間者とみなされんこともあれば今日の勢いは却って事を惹起(じゃっき/問題を起こす)さんも計り難し、如何にすべきやとの評議を尽くせしが、筑前の藩議は再び長藩鎮撫の為として早川養敬・林泰・瀬口三兵衛の三士を岩国へ、伊丹真一郎・森三平・安田喜八郎・筑紫衛の四氏を長府より萩への使者となすこととなしたり。
この時伊丹・筑紫の両氏は出発に先んじて平尾の山荘に赴き高杉に面会して長藩の事情を談じ「とにかく対州邸に同行せられるべし、月形・鷹取もおって同邸に会すべくその他の諸士もまた各々同邸に参集するの準備をなし出発してくるべし」とてその約束をも整へしが、月形は今や出発にいどみし時は家にありて四辺を見廻りし金に値すべき品はなきやと一人心を痛めしに、幸い家蔵の資治通鑑(しじつがん/中国の歴史書)全部のありければこれを家僕に担がせて博多中島町なる丸屋又七(今の熊谷才吉の父)の許に至り、事の概略を語りつつ、これを抵当として若干の金を借らんことを申し出でしに、又七はもとより読み書きもあり義を重んじるの気概ありて、かねて懇意なる仲なりせばすぐにこれを承諾して月形に若干の金を渡せしに月形はその厚意を謝しせわしくこれを懐中にして急ぎ対州の邸に赴きたり。これより先き月形は急書(きゅうしょ/急ぎの書簡)を飛ばして高杉に長州の事情を知らせしや。
高杉は山荘に在りて仰臥しつつ雑書を読みて居たりしがその書の封を押し開き通読一過思わずも憤然として決起しつつ月形の書状を望東尼に示し「故郷の事情はご覧の如く、すでにこの場に至りたり。最早晏然(あんぜん/落ち着いて)として難を避け他国に潜むべき時にあらず、この上は運命を天に任せてすぐに帰藩して義兵を募り十日を出ず片端より俗論党の奴輩(どはい/やつら)を誅滅し、長州男児の胆略(たんりゃく/大胆で計略に富んでいる)をご覧にいるることとなさん。是まで貴尼の恩顧を受けしは言語をもって謝するに由なしイザお暇を致さん」とて涙をたれて別れを告げすでに出発せん気色なるにぞ。
望東尼はかねて高杉はかくあるべきを察せしより家人に命じて高杉の為に新たに仕立て置きし、羽織・袷・襦袢などを取り出しつつ高杉に向かいしは商人風の着用に適する仕立て方に致し置きたり。(この服はかねて望東尼が高杉に知らしめすして準備したものなり)
いささかお餞別の印なりとてこれに二首の歌を添えたり。
真心をつくしのきぬは国のためたちかえるべき衣手にせよ
惜しからぬ命ながかれ櫻花雲井にさかん春ぞまつべき
高杉は深く望東尼の厚意を謝してその衣服等をおし頂きその場においてすぐにこれを服しくり返しつつその歌を朗吟し自ら懐紙を出して即席に離別の一絶句を賦し望東尼に贈りき。
臨別賦贈望東君 東洋一狂生東行拝具
自愧知君容我狂山荘留我更多情浮沈十年杞憂志不若閑雲野鶴清
高杉は書きし終わり「これいささか拙者が微衷を書遺すのみなり、最早再開も期し難し随分御身を自重して国家の為に尽くされたし」とて傍らに在りし瀬口三兵衛を顧み「足下来たり給えよ。」と両人共に伴うて飄然として平尾山を発し路を田畝(でんぽ/田畑)の間に取りてすぐに博多の石堂橋に接する新茶屋(地名)の若松屋(今の常盤居)に赴く。
この楼に上がりてやや暫くし月形等の来るを待ち離杯を傾けて出発せんとて瀬口を相手に酒酌みながら今や遅しと待ちしおりから、日は早や西に傾きて既に黄昏に迫りしも誰一人も来らざりしかは高杉の無聊やるかたなく、空しく杯を置きし席にいとも可憐なる五六歳の幼女ありて遊戯に余念なかりしを高杉は見て大いに愛撫し己が膝に抱き上げなどして物案じつつ瀬口に向かい「すでに点燈の時となりしに月形等の来らざるは何か事故のなせしならんか」先刻月形より贈り来し書状を取り出し繰り返しつつこれを諳んじ、「これより柳町(遊郭)に移せん」とてその座に愛せし幼女の手を取り、「叔父が好き処に連れて行かん」とて高杉はこれを背に負い、瀬口は若松屋の印ある提灯を持ちて前に行き、石堂橋を渡り過ぎて柳町の梅ヶ枝屋(今の粋多楼)に席を移したり。
蓋し(けだし/思うに)その当時幕吏は博多に来寓して長藩の事に注目しつつありしかば、高杉が幼女を連れ行きしも物色を避けんが為なりしならん。この時、筑紫・伊丹の二士は高杉のすでに出発せしを知らず、平尾山に訪ね至りしに望東尼はこの二士に面し「高杉は既に瀬口を伴いて出発せしが諸士を新茶屋に待たんとの言い置きありし」と聞くより二士は望東尼を辞しすぐに新茶屋の若松屋へ赴きしに、「先刻対州二人の客も当家の少女を伴いて柳町に参られたり」とのことなりければ二士はまたもその跡を追い梅ヶ谷に至りて、ようやく高杉に面会し、これより共にこの楼の裏手に接する海辺に沿いつつ対州の藩邸に同伴したり。
この時月形等はすでに同邸に来たり、平田大江・江崎彌忠太等と長藩の内事を語りあい切歯痛嘆(せっしつうたん/歯ぎしりをして憤慨する)の際なりしが月形は高杉に差し向かい「名残惜しくは思えども事の今日に至りては最早留むべき時ならず、幸い藩命を以て同志の中より岩国及び長府の萩へ使者を遣わすことなれば、足下の帰国を護送するには最も好都合なる便を得たりおっつけ同志も会合すべし」とて彼の丸又より借り受けたる金子を出して石蔵屋・帯谷・高橋屋などの人々に渡し高杉が帰国の用度に供せしめたり。
時に鷹取養巴・森安平・林泰等の諸氏はまたこの場に集まり来て高杉の為に送別の酒宴を催せしが高杉は概然として酒間に一絶を賦し之を月形に示したり。
売国囚君無不到我呼快死在斯辰天祥高節成功略欲学二人作一人
長門男子 源春風
高杉宗像郡吉留村なる早川の家を訪うて亡児の喪を弔う、高杉長府藩の使節『三澤求馬』野々村勘九郎の一行を追うて再び博多に複り 使節に同伴して馬関に帰る。
かくて高杉は月形・鷹取・その他の諸士と共に早川養敬の来るを待ちいたりしが、早川はこの時、矢野相模に稟議する所ありて深更に及びようやくここに至りしに高杉は早川の長男富士之助がこの月初に夭したるとのことはかねて望東尼より聞き居たれば早川に遇うや先ず第一にその喪を弔い、この夜は宗像郡吉留村なる早川の家に一宿することに決したれば早川は「しからば拙者は一足先に発していささかその用意を致すべし。」とて急ぎ肩輿(けんよ/駕籠)を走らせ、高杉は林・瀬口・筑紫・伊丹・安田の諸士とあとより共に博多を発し早川の家に赴きしは是れ元治元年甲子十一月二十一日の事なりき
早川は博多を隔てること七里ばかり宗像郡原町と云える所において向こうの方より対馬藩の荷札を付し肩輿を急かして来る者あるに会いし、よくその人をうち見ればかって一見の識ある長府藩の家老・三澤求馬、直目付・野々村勘九郎その他萩の使節(これ金丸兵次郎がこの月の初旬毛利侯に呈したる藩主黒田斉溥公直書の返翰を奉じ来れる使節の桂治人なり)に長府の足軽岸伊助が付き添い来たりし一行なれば早川はすぐに声をかけ、路傍の一茶店に誘いて暫く談話に時を移し一礼して別れを告げたり。
高杉は遅ればせに早川の宅に着し先ずその夭死せし亡児の喪を弔いし草履を解きて座につきしに早川は高杉に向かい「今日帰宅の途上において萩及び長府の密使が福岡に赴く一行に出会いたり、僕は暫く長州の内情を聞き談話に時を移せしも足下の事は告げざりしか、定めて足下も途中においてこの一行に出会いしならん」と聞くより高杉は首を傾け「その使者は何者なるや」早川はその名を知らず、「ただその中の長府の三人はかねて一面の識ありて志を同じうせしことあり。」との答えに高杉は「そは誠に残念したり、拙者は輿中に眠を載せその一行に行き違いを知らず、三澤・野々村の人々なれば面会するも苦しからず、彼らは何れに旅宿するならんや」
その面会を望みしに早川は「足軽の岸伊助に博多の対馬屋敷に誘えよ内々これを示し置きたればおそらくここに泊せしならん」と聞きて高杉は「彼らに会い、一応郷里の現状をも探りたし今より再び博多に引き返さん」とて心はすでにこの場に在らざりしを見る。
早川はすぐに同意し先ず高杉に同伴せし筑紫衛等その他の諸士を馬関に発せしめ、高杉に酒食を提供したり、早川はこの月の初旬に使命を長州に奉せしときその長男の死を見捨てて急発せしことなりしがまたもやこの日出発せんとするに際し、三女の倫(とも・今は判事中村敬直の妻)が病床に臥して容体殊に危篤なりしも、早川は一心国事を思うてその女児の病を顧みるの遑(いとま/ひま)なく早々旅装を調えんとせし。
妻は泣いてその行を留め愛別離苦の真心を端なく(はしなく/思いがけなく)高杉はその次の一間に往きてこれを開き早川が坐に復るに向かいて潜然(せんぜん/こっそり)として涙を催し、「かって『梅田雲濱』は妻臥病床兒泣飢(妻病床に臥せる児飢え泣く)との実際を詠せしが、足下は至愛の長男を見殺しになし今又幼女の大病を見捨てて国家の為に出発せんとて細君に説諭せられし辞は嗚呼天晴豪毅の胆力その至誠に出でし所は春風(高杉)ただただ感服せり」とて涙と共に感賞(かんしょう/感心してほめる)しぬ。
かくて高杉は早川と共に門を出て高杉は八里余りをの道をも遠しとせず、夜雨を侵して引き返し博多の方へ赴かんとし、早川は岩国の方を指し涙をぬぐいて袂を分ち長州再会を約束して各、西と東へ別れしが、早川は夜中雨を侵して翌二十二日の暁に黒崎駅に着せしに、筑紫その他の一行は風雨の為に隔てられ是非なく翌二十三日に船を発しその夜は馬関の堂埼なる伊勢谷小四郎方に投宿す。
松本濤庵その他の人に就いて『赤根武人』の近状諸隊の現況、特に俗論党が馬関の辺を攪擾(かくじょう/かき乱す)しつつあるや否や等を探りしに高杉の身の上に関しては別にさしたる懸念もなかりしを以て、早川は早々その趣を高杉に申し渡し二十四日の夜に出発し、昼夜を兼ねて岩国に向かいしが高杉はまた三澤・野々村等と共に二十五日恙なく馬関に帰着しすぐに伊佐なる隊陣に赴きたり。
高杉の博多に在りしやその地の川端町に髪結職の喜八と云える者あり。常に高杉の許に出入りせしが、この喜八の父は権藤正五郎とて元筑前の藩士なり、故ありて浪人となりしも、その志は常に一般の市人(いちびと)と異なる所を表し喜八もまた義気ありて志士の意を奉し密翰を櫛毛の底に匿し用便(ようべん/用事をたす)を為しつつありしが、またその弟の幸助と云える者は僅かに当時十五六歳の少年なりしも兄に劣らぬ士気ありて喜八の下職(したしょく/下請け)となり兄弟共に石蔵屋に出入りせしに高杉は喜八を顧み「我にしてもし他日志を得れば汝を以て第一の家来に致さん」とて何心なく戯れてここに主従の約を結びしに。
その後喜八は福岡正義党の没落せんとしとき石蔵屋卯平と共に月形の密書を以て当時京都のありし西郷南洲の許に使いし首尾よくその使い趣旨を達して帰りしも、もし筑前に帰藩せば両人共にその罪に陥らん事のあるを恐れ馬関において高杉により、卯平は奇兵隊に入りて小寺幸兵衛と改名し、他日一方の長となりて長崎に赴きその帰路天草の富岡おいて幕吏の為に暗殺せられ非業の最後を遂げたりしは、また憫れむべき事なりけり。
喜八はその後無事に筑前に帰り幸助はまた薩長筑の三藩がかって対州鎮撫の為に赴きし者の一行に従い筑前の藩論顚覆(てんぷく)せしと聞くよりすぐに長州に脱走し高杉の許に従いしがその後長州より太宰府へ属牒せしことあり、あるいは伊藤俊介(博文)に随うて長崎に赴き、また薩州へ往返せしことありし折柄、筑前飯塚駅において縛(ばく/罪人として縛られる)につき、一時村庫(牢屋)に繋がれしも辛うじてその場を脱し長州に返りて井上聞多に随い石州濱田の戦いに出で、また小倉の戦いに出でて敵の一人と組討ちをなし軍功をたてしが、幾程もなく病に罹りて馬関の陣中に歿したり。
その後高杉の未亡人は幸助の忠勤を思い為に一の墓碑を立てたりしと、その墓は現に馬関裏町法華宗の本行寺に在り。
高杉晋作の筑前での行動 目的 佐賀藩・福岡藩・長州藩の尊攘派の連合をめざす。
長府 高杉晋作(同行者・中村円太・大庭伝七)海路博多へ
11/4夜 博多着 博多鰮町 石蔵卯平邸(中村円太の手配)
高杉・大庭は石蔵邸にそのまま投宿・中村円太は深夜に月形洗蔵を訪れる
その後に月形洗蔵は鷹取養巴と協議し夜明けを待つ
中村円太は月形邸に潜伏
11/5早朝 石蔵卯平邸に高杉を訪ねて洗蔵・鷹取養巴・(帯谷次平を伴い)が訪問、
二階にて面会する・九州連合の密談
11/6田代宿 田代代官の平田大江と会談(代官所)
高杉晋作・伊丹真一郎・江上英之進・今中作兵衛・中村円太(尾行役に高橋屋・
帯谷・石蔵屋)→平田大江と佐賀藩に工作・九州連合の計画は頓挫
中村円太は帰りは別行動修験清水坊管右中のもとへ潜伏
博多 再び高杉は石蔵屋に潜伏
その後、村田東圃の一室借受け潜伏(水車橋の北)
11/11頃 平尾山荘に潜伏 高杉晋作・(瀬口三兵衛→炊夫)
~11/21(訪問者・野村望東尼・吉村すが子・月形洗蔵・鷹取養巴・西郷吉之助?)
潜伏中に長州藩の三家老切腹、四参謀斬の処分が伝えられる
新茶屋・若松屋 高杉晋作・瀬口三兵衛(同行者)が月形等を待つ
石堂橋通過 夕方過ぎに瀬口は提灯を持ち・高杉は若松屋の幼女を背負う
柳町・梅ヶ枝 高杉晋作・瀬口三兵衛(後から筑紫・伊丹が合流)
対馬藩邸 高杉晋作・瀬口三兵衛(筑紫衛・伊丹真一郎)
(鷹取養巴・月形洗蔵・平田大江・江崎彌忠太)早川は深更に来て準備の為先に行く)
11/21宗像郡早川邸 高杉(同行者・林・瀬口・筑紫・伊丹・安田)
高杉は早川より聞き長府藩の三澤求馬・野々村勘九郎とすれちがったのを知る。
対馬藩邸 高杉、夜雨の中を宗像より対馬藩邸に引き返す。
11/25 下関 高杉帰着 (三澤・野々村同行)
12/15功山寺挙兵
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます