筑前勤皇党 林元武備忘録 月形洗蔵と高杉晋作  

黒船屋

第1話 平野二郎の幽閉せられしを救いし顛末

筑前勤王党の林元武(はやしもとむ)の回顧録

福岡総合図書館蔵書(未刊)


1話 平野二郎の幽閉せられしを救いし顛末

2話 天誅組牧市内勝聲を斬りし顛末

3話 小山大惣を斬りし顛末

4話 勤王の志士等喜多岡雄平を斬りし顛末

5話 中村円太脱走始末

6話 幽閉始末

7話 高杉晋作入筑始末並びに大坂屋の会見

8話 奉健趣旨

9話 追記


【林元武備忘録の解説】

林元武は元福岡藩士で俗に言う筑前勤王党に属していました。乙丑の獄で投獄されるも死罪は免れます。明治維新後は福岡中学校長等を務め、1910年7月5日没。この回顧録の表紙に記されているのは「林元武談話 明治四十年一月(1907年) 筑前那珂郡下警固村 士族 南畝英太郎識 林元武備忘録 一写」とあります。数少ない筑前勤王党の生存者の回顧録ですので大変貴重であると思います。一人称は文中は「予」になっていて、林泰(はやしゆたか)、林元壽(不明)の表記もあります。


【本文】 

 平野二郎(国臣)播州大蔵谷より長溥公に随行し、帰国の船中において縄につきしかば、予(林元武)は月形、海津(かいづ)等と某所密かに諸有志と会合して、熟議を凝らし家老立花山城を説き出京せしむるに一決したる顛末を記さんに。


 月形同志に語って曰く「林はもと平野と善友、まず獄に至り平野に面せしめ、その意見を聞きて後、決するにしかず」と衆これに同意す。予が平野に親交あるは平野が年少の頃、黒田公の普請方として大頭母里太次右ェ門、普請奉行國吉利右ェ門の下に勤めおりたり。


 國吉はすなわち予が叔父にして両人共に江戸に在りて、黒田家霞ヶ関の邸を営繕し工成るに及び、平野は手附(補佐)として國吉に従い帰国せり。予は数えて叔父が家に出入りして深く交を訂せしが、平野は当時名を雄助と呼び狂歌をよくせり。また利右ェ門の弟三好源右ェ門應春に従い和歌を学びたり。これ狂歌は趣味浅薄なるをもって正歌の修養を同人より慫慂(しょうよう・誘いかけ勧める事)せられたるによると云う。


 ある時、國吉家において観桜の宴ありしに、平野もその席に列したりしが、料理に鮮鯛のありしを見てへぎ(木材で作った容器)を取り

「三味線の撥に散り来る桜鯛ピント撥たる目出タイヤ鯛」と詠みたりと、今もなお國吉家に蔵せり。晩年に至りて正歌はその薀奥(うんおう・奥義、極意)を極め人口に膾炙する名歌もすくなからざるは世人の知るところなり。


 初め平野は一の附役たる俗吏に過ぎずして、才略天下を径論(けいりん・国家を治めととのえる)の偉人たるを知る者なかりしが、氏が胸底にはつとに皇室の式微(しきび・非常に衰える)を慟き(なげき)、幕府の専横を憤り一意勤王の念を蔵したりき。中将長溥公帰国の途次、大蔵谷を通行に際し勤王攘夷の大義名分を書して建白し、その忌諱(きい・嫌っている事柄)に触れ入獄せしめたり。氏、時勢の非なるを慷慨(こうがい・社会の不正などを嘆く)して絶食死せんとし、食わざること七日に及ぶ。


 同志大いにこれを憂い某所に会合して救出の法を議す。衆議百出容易に決せず、あるいは破獄これを救わんと言う者あり、あるいは藩公(黒田長溥)に嘆願して赦面を請わんと唱える者あり。これにおいて予一策を按じ、これを提出して曰く「徒罪(ずざい)方長官西村七郎を説得して平野に面接しその意見を聴き、然る後立花を説いて救出する策の得たるものならん」しかれども、表面西村を説くも容れざるは必せり。


 彼は友人の父、江川と日々会飲すと聞く。予その席に到り彼を説くに、平野は元国吉の手附けなり、遊びに行くついでに面会を許されたし、云うこと他意あらざるもののごとくもってせば必ず内諾せん。この如くにして平野に面するを得ば、書を投じて意思を通ししかる後、西村をして立花を説かしむるにしかずと、衆これを可とす。予決行して策ことごとく成り、平野に面接することを得たり。


 平野涙を垂れ予等が尽力を謝しかつ曰く「林君は色白く子房(しぼう・漢の劉邦の軍師)に似たり、必ず事を誤らず」と。松が枝の歌及び紙撚り(こより)にて書したるもの二首を歌う。予思うにこの歌必ず西村が糺問する所とならん。しかずにこれを示して何気なく行かんと西村に、「かくのごとき歌を平野より貰いし故、持ち帰る」と言いしかば、彼問うて曰く「何にかなす」と。予答えて曰く「平野は歌道を予が叔父に学ぶ、よって詠歌を叔父に示さんことを機せり」と。彼曰く「尊叔に示して後、貴下これを蔵し他人に示すなかれ、しからざれば平野は希世の傑物にして、天下の大事を画策するの士なれば意外の累を貴下に及ぼさん」予これを肯きかつ語りて曰く「平野憤激して絶食すといえども、予説いてこれに食はじめん」と。彼、予が言を賛し食を進めんことを乞えり。


 去って梅津(幸太郎)、長尾、月形、建部及び河合を歴訪し面接の顛末を語れり。また浅野慎平は、加藤に平野が身事を謀りしも「足軽ひとりの事、吾関する所にあらず」と顧みざりきと。当時予が隣家(風功)に岡﨑卯平という者あり、音吐(おんと・声の出し方)雷のごとく、その語るにや四隣を驚かす。彼に二女あり、姉を阿実といい、妹を阿仙という。妹は立花の妾にして予これを知る。彼を介して立花に面接し平野赦面の事を説きその容る処となり、建部孫左ェ門もこの説を賛せしかば、立花は西村を招きのちに赦免せしめたり。よって平野は出獄の後自製の笛及び烏帽子等を残し命をもって上京したり。


【補足説明】 

林元武(泰)  -1910  馬廻組100石林左兵衛弟 諸藩応接係 墓は承天寺(非公開)

月形洗蔵 1826-1865 馬廻組・大島定番 100石 墓は少林寺(公開)

建部武彦 1820-1865 大組頭 700石 墓は安国寺(公開)

海津幸一 1804-1865  20石6人扶持 墓は承天寺(非公開) 

平野国臣 1828-1864 足軽 脱藩 廟は平野神社(公開)

立花山城(黒田増熊・黒田山城)1807-1889 家老



黒田長溥 1811‐1887 福岡藩11代藩主 墓は青山霊園・他


平野国臣

文政11年(1821)3月29日

福岡藩武術師範、平野吉蔵能栄と母いねの次男として福岡市地行下町に生まれのち三番町に移る。

安政5年(1862)31歳

10月 僧月照を薩摩に送り届ける。

文久2年(1862)35歳

4月13日 参勤交代途上の黒田長溥(島津久光と伏見で面談予定有)明石大蔵谷着、平野国臣、参勤行列阻止


文久3年(1862)4月30日福岡藩の桝小屋の獄に収監される。

落とし紙をこよりにして文字を書く紙捻文字を考案。

文久3年(1863)2月16日朝廷より開放令が下される、

3月29日出獄の命。36歳


10月12日生野の変 同14日大将澤宜嘉失踪により解散

元治元年(1864)37歳

1月17日京都六角牢

7月20日火災により(どんどん焼け)未決状態のまま斬首


大蔵谷回駕事件

 薩摩藩の島津久光が卒兵上京し、尊王攘夷派、討幕派が時機到来と(久光の真意は公武合体)京都に続々と集まってきました。平野国臣は黒田長溥と島津久光が伏見で面談する情報を得ると、久光の邪魔をしないように画策します。黒田長溥の江戸への参勤を大蔵谷(兵庫県明石市)で建白書を差し出し、中止を直訴し福岡に引き返させるのに成功しました。この事件の後に平野国臣も福岡に帰る行列に同行する手配となりましたが下関で捕縛され、桝小屋に投獄されました。文久2年(1862年)4月捕縛~文久3年(1863年)3月出獄。


 平野国臣が上記の大蔵谷回駕事件で捕縛され、桝小屋に投獄された時に林元武が同志と計って、出獄させるのが第一話の大意です。この話とは別に黒田長溥が上洛のおり朝廷より平野の禁固を解く朝旨が出ていました。島津久光の卒兵上京は薩摩藩の尊王攘夷過激派を粛清する寺田屋事件や公武合体をめざした幕政改革(文久の改革)を実現し、更には江戸からの帰りに久光の行列を妨害したとしてイギリス人を殺傷する生麦事件を引き起こします。この事は文久3年(1863年)薩英戦争のトリガーとなります。結果的には筑前福岡藩の大蔵谷回駕は正解だったと思えます。京都で島津久光と黒田長溥が合流していたら歴史が変わっていたかもしれません。


野村望東尼から平野国臣への獄中応援歌

類なき声に鳴くなる鶯も 籠にすむうきめ見る世なりけり 望東尼


平野国臣から野村望東尼への返歌

自ずから鳴けば籠にも飼われるぬる 大蔵谷の鶯の声

忘れても我が其いろの国のため 悪しかれとは露思わなくに


※返歌は紙捻文字、福岡市博物館所蔵

※年表等は平野神社発行の平野次郎國臣を一部参考・引用




 


















  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る