10 八つ当たり
私は人より少しだけメンタルが強い方だと思っている。
これは昼間、自分に言い聞かせた言葉だ。
今までだってどんなに辛いだろうが現場だろうが人間関係だろうが、お金の為になんだってやってきた。最終的に全部お金に繋がっているし、そのたびに自分のスキルが上がるのは嬉しかったこともある。
だから、今回だって大丈夫。
嫌われていても嫌がらせされても心ない言葉を投げかけられても、無茶苦茶な仕事量でも人当たりがキツくてもやってやるんだ。
「そうだ、日報書いて部屋も掃除しないと! あと皆が心配するから今日から帰れないって連絡しなきゃ……」
なにもこれが初めての外泊じゃない。
過去に泊まり込みの仕事だって経験したし、事情話せば家族も理解してくれるだろう。
ただし帰りはいつになるか未定なので、そこはうまく誤魔化さないと心配をかけてしまう。
大丈夫、私は強い。何も心配することはない。いつも通りうまくこなすだけ……。
ポタッと手の上に雫が落ちた。
お腹がすいているはずなのに、手が伸びない。
乱暴に目元を擦ると、ため息をついた。
……ちょっとだけ見栄を張った。嫌な職場で身も心もすり減ったこの状況で家族に会えないというこの状況。思ったより精神的にキているのかもしれない。
お盆を膝から降ろして横に置くと、空を見上げた。地上で誰かがこんなに嘆いていても、月は今日も美しい。
少しぐらい休憩したって罰は当たらないよね?
夜風を浴びていると、後ろから草を踏む音が聞こえる。
「(やだな、また誰か仕事を言いに来たのかな)」
もう就業時間は終わっている。エバンスドール家、やはりブラックだ。この仕事が終了した暁には是非ともこの悪しき風潮を口コミ投稿してやろう。
しぶしぶ立ち上がって後ろを振り向く。
「……なんでこの時間に人がいるの」
そこに立っていたのは、くせっ毛の強い青年だった。
一見黒髪かと思ったけど、僅かな光の加減で紫がかった不思議な色をしているようにも見える。
前髪が長いため、残念ながら瞳を確認することはできなかったが、不健康なほど白い肌が月明かりに浮かび上がっている。そしてめっちゃ猫背。
っていうか、なにそのだぼだぼのシャツ。完全に部屋着じゃん。ズボンも伸びきってダルダルの毛玉だらけ。
この屋敷は部屋着で出歩いていいわけ? 今の状況の私が同じ事をしたら一発で外に放り出されそうだ。
「この時間は誰もこの庭に来ないように言ってあったはずだけど」
「あ……」
しまった、ポプリさんも言っていたじゃないか‼
あまりにのショックで失念していた……‼
「も、申し訳ございません、本日この屋敷に入ったばっかりでして……注意事項が頭から抜けておりました」
「なに、あんた新人?
そういえばロバートが名前とか言ってたな……」
うわ、何この言い方。
執事長から始まり、全員初対面の人間に対するマナーを母親のお腹の中に忘れてきたのか? しかもロバート執事長を呼び捨てにしたぞ?
口角を引き上げるも、引きつっている自覚はある。
「はー……新人なのはわかった。さっさと出て行ってよ。
邪魔、迷惑」
プチン
私の中で何かが切れる音がした。
言いたいことだけ言って、私の横をさっさと通り過ぎようとする青年。
フー……を細く息を吐いた。
この青年が何者かどういう立場でどこの所属かは知らないけど、幸いここには人目が無い。
目には目を、歯には歯を。
サッと身を屈めると――
「ぶへェッ‼」
思いっきり足払いをかけた。
「いった……⁉」
「揃いも揃ってこの家の人間は……」
ゆっくり立ち上がると、大胆に地面へ寝転がった青年に近づく。
以前、私は護身術を教えている教室の受付のバイトをしていたことがある。そこで少し仲良くなった指導員に教えてもらった足払いがこんなところで役に立つとは思わなかった。
たぶん間違った使い方なので、このことを知られたら怒られるだろう。
うつ伏せに倒れている青年の肩を掴むと仰向けにした。
男性だから私よりも肩幅はあるものの細い。
逃げられないように、私は青年のお腹の上に馬乗りになった。
「ちょっと教えてよ。あんた、ここで働いてるんでしょ?」
「働いてるというか、なんというか……」
「は? なに?」
初対面の女に足蹴りを喰らわされた挙げ句、馬乗りをしてきたことにさぞかし驚いたご様子。
ついでに胸ぐらを掴んだ。その拍子で青年の長い前髪が横に流れる。
現れたのは吸い込まれそうな深い紫の瞳。質の良い紫水晶みたいだ。
わーキレイ、珍しい色ーなんて、冷静さがあれば褒めたたえたいが、残念ながら今は御冠なのである。
「こっちとら業務時間外なんだよね。だからある程度何しても許されると思うのよ。
でね? さっきも言った通り、私今日が初出勤なのね」
「そ、そうなんだ」
「そうなの。
君も働いてるならわかると思うけどさぁ、仕事って人間関係も重要視されるわけじゃん」
「……そう、だね……?」
「そこに私は今びっくりしているわけよ。
一人であの馬鹿でかい小麦粉小屋を掃除しろっていう無茶苦茶なワンマン仕事とか、これ絶対一日やそこらで消費できないだろってくらいの野菜の下処理とか、いくら特急料金をもらったって請け負わないような量の針仕事とか。
これを入ったばっかりの新人に、それもまともな指示もなしに! 全部押し付けるってどういう神経してると思う? それをやりきった私に対する感謝の言葉が一言もないの、人としてどう思う⁉」
「え、やりきったの……?」
「やりきったよ‼ プロのアルバイター舐めんな!」
「すごいね……おつかれさま」
「ありがとう‼ なのにあんたに邪魔とか迷惑って言われた‼」
「ごめんなさい……?」
「謝ったらから許してやんよ‼」
恐喝にも近いけど、求めていた言葉をもらってちょっと涙が出た。言った本人の感情は薄いけど、形だけでも言葉がもらえるのはうれしいものだ。
しかしまだだ。青年の胸ぐらを掴んだ手は緩めない。
「朝から様子はおかしいなって思っていたけどさ。あまりにも酷すぎると思うんだよね。
割り当てられた自室なんて埃まみれでさ、家具も壊れたものばっかり。
掃除したら住めると思うよ? でもそれなら掃除する時間ちょうだいよ!
なんなのさ、新人はそうやって全員一から根性叩き上げられてんの? 健康だけが取り柄なのに喘息になりそうなほど汚いもん! 今日は寝れないよ‼」
「俺、ほかの人部屋は知らないから……」
「しかもご飯‼ 昼間とかみんな美味しそうな魚の香草焼き食べてたのに、何でパンとチーズと水⁉ しかも夕食も全く同じメニューってどういうこと⁉ それか私が派遣だから? 派遣は社員食堂使うなって巷で有名な風潮⁉ 時代錯誤も甚だしいわ、仲良くしてくれよ‼ もしくは犬か? 順位付けしないように教育中の犬か⁉」
「この屋敷の使用人は皆同じような食事になってたと思うけど……。
あと犬に順位付けの能力はないらしいよ。犬にとっては頼れるかどうかが重要なんだって」
「じゃあダメじゃん‼ 完全にいじめじゃん‼ 言っちゃったよ、認めたくないから言いたくなかったのにいじめって言っちゃったよ‼」
喋れば喋るほど惨めになってきた。
人前で泣かないつもりだったのに、視界がにじんでくる。
「格式高い公爵家に泥臭いド庶民娘が来たことがそんなに嫌⁉ こっちとら一応男爵家なんだよ、没落しかかってるけど‼ 中指ピョコンすっぞ‼」
「ガラ悪……」
とうとう涙が零れてしまった。
青年に見られたくなくて、乱暴に目元を拭った。
ああ嫌だ、明日が怖い。
「……あれ、あんたの晩ごはんだったの?」
青年が言ってるのは、ベンチの上に置き去りにされたお盆のことだろう。カッチカチに固まったパンが神々しく月明かりを受けて光っている。
どんだけ小麦粉練ってグルテン発生させてんだ。
「貴重な食料だからあげないよ」
「奪おうなんて思ってないけどさ……よっこいしょっと」
「うわっ」
青年は反動をつけると上半身を起こした。その反動で私の体も後ろに倒れかかるが、彼の膝が山なりに立ったことで地面に頭をぶつけるという最悪な展開は避けられた。
私は土木作業などで鍛えられているから普通の女性よりもちょっと力はある方。こんな簡単に押さえ込まれてこの人は大丈夫なのだろうか? と、どこかでぼんやり思っていたが、この人も立派に男だったようだ。
「立ちたいからそこをどいて」
「まだ話は終わってないんだけど」
「うん、話の続きは聞いてあげるから場所移動しようよ。いいところ連れて行ってあげる」
……ヤキ入れの時間?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます