せっかく異世界に来たからスローライフしてみたい

ソラ

第1話  プロローグ

平凡なサラリーマンの終わり

俺の名前は田中雄一たなかゆういち三十二歳さんじゅうにさい。ごく普通の、どこにでもいるサラリーマンだ。いや、正確には「だった」。俺の人生は、あっけなく、本当にあっけなくまくじたのだから。

意識いしきとおのく直前ちょくぜん、俺は会社かいしゃのデスクにすわっていた。 目のめのまえには、終わらない仕事しごとやまげられた書類しょるいひかりはなつづけるパソコンのモニター。キーボードをたたゆびは、もう何時間なんじかんまっていない。あたまなかは、今週中こんしゅうちゅうわらせなければならないプロジェクトのことでいっぱいだった。 納期のうき明後日あさって。しかし、まだ全体ぜんたい半分はんぶんわっていない。

「田中、大丈夫だいじょうぶか?」

となりのデスクにすわ後輩こうはい鈴木すずきが、心配しんぱいそうなかおで俺を見ていた。

「ああ、大丈夫だいじょうぶだ。ちょっとつかれただけだよ」

そうって、俺は無理むり笑顔えがおつくった。

いや、大丈夫だいじょうぶなんかじゃなかった。 からだはとっくに限界げんかいえていた。 かたなまりのようにおもく、首筋くびすじかたまっている。かすんで、モニターの文字もじがぼやけてえる。なによりも、あたまがひどくおもい。ズキズキといたみがはしり、まるでハンマーでたたかれているようだ。

ここ数週間すうしゅうかん、まともにいえかえれていなかった。 連日続れんじつつづ残業ざんぎょう休日出勤きゅうじつしゅっきん睡眠時間すいみんじかん一日いちにち三時間さんじかんあればいいほうだった。食事しょくじも、デスクでべるカップラーメンか、コンビニのおにぎりばかり。 風呂ふろはいひまもなく、シャワーだけでます日々ひびつづいた。

なぜ、こんなことになったのか。 きっかけは、些細ささいなことだった。 俺たちのチームが担当たんとうする、大口おおぐち取引先とりひきさきとのプロジェクト。そのプロジェクトのリーダーが、突然とつぜん病気びょうきたおれてしまったのだ。 俺は、リーダーの代理だいりとして、そのプロジェクトをぐことになった。

最初さいしょは、俺だってっていた。 こんな大役たいやく、めったにまかされるもんじゃない。 このプロジェクトを成功せいこうさせれば、俺の評価ひょうかがる。給料きゅうりょうも、ボーナスも、きっとえる。そうすれば、両親りょうしん旅行りょこうれてってあげられる。将来しょうらい結婚けっこんして家族かぞくてば、もっとおおきないえってあげられる。 そんな、ささやかなゆめを__いて__いた。

しかし、現実げんじつは、俺の想像そうぞうはるかにえるものだった。 プロジェクトの進行状況しんこうじょうきょうは、俺が思っていた以上におくれていた。 リーダーがたおれる直前ちょくぜんつくられた資料しりょうは、ほとんどやくたなかった。 取引先とりひきさきからは、連日れんじつきびしい催促さいそく連絡れんらくはいる。 「田中さん、進捗しんちょくはどうなっていますか?」 「納期のうきまもれますよね?」 電話口でんわぐちこうからこえるこえは、どんどんきびしくなっていく。

俺は、あせった。 どうにかして、この状況じょうきょう打開だかいしなければならない。 チームのメンバーに手伝てつだいをたのんだが、彼らも自分じぶん仕事しごと手一杯ていっぱいだ。 俺は、誰にもたよることができず、一人ひとり仕事しごとかかむことになった。

朝早あさはやくに会社かいしゃき、夜遅よるおそくまで残業ざんぎょうする。 土日どにち会社かいしゃて、一人黙々ひとりもくもく作業さぎょうつづける。 食事しょくじも、睡眠すいみんも、シャワーも、すべて後回あとまわしにした。 ただひたすらに、仕事しごと仕事しごと仕事しごと

からだ悲鳴ひめいげているのは、わかっていた。 動悸どうきはげしくなり、呼吸こきゅうくるしくなることがえた。 すこがっただけで、目のめのまえが真っまっくらになる。 それでも、俺はあしめなかった。

「ここでやすんでいたら、わない…」

あたまなかは、その言葉ことばでいっぱいだった。 納期のうきまもらなければ、プロジェクトは失敗しっぱいする。 そうすれば、取引先とりひきさきからの信用しんようは__失墜しっつい__し、会社かいしゃおおきな損害そんがいを__あたえて__しまう。 そうなれば、俺はクビになるかもしれない。 クビになれば、両親りょうしんを、将来しょうらい家族かぞくを、しあわせにすることはできない。

俺は、自分じぶんからだよりも、仕事しごとのことを__優先ゆうせん__した。 自分じぶんいのちよりも、会社かいしゃのことを__優先ゆうせん__した。 それは、俺にとって、たりまえのことだった。

「田中、今日きょうはもうかえれよ。顔色かおいろわるいぞ」

深夜しんや、俺のデスクにあらわれた上司じょうしが、そうって俺のかたたたいた。

「いえ、大丈夫だいじょうぶです。もう少しでわるので…」

そうって、俺はパソコンのモニターにを__けた__。

無理むりはするな。おまえわりはいるが、おまえからだひとつしかないんだ」

上司じょうしは、そうって、俺のデスクに栄養えいようドリンクをいて、かえっていった。 上司じょうし言葉ことばは、俺のこころに、なんひびきも__たなかった__。 俺は、ただひたすらに、__まえ仕事しごと__に__かれて__いた。

「おまえわりはいるが、おまえからだひとつしかない」

上司じょうし言葉ことばが、あたまなかを__駆(か)け巡(めぐ)る__。 その言葉ことばの__意味いみ__を、俺は__理解りかい__できていなかった。 俺は、自分じぶんだけが、このプロジェクトを__成功せいこう__させることができると__しんじて__いた。 俺が__やすんで__しまったら、だれがこの仕事しごとを__わらせる__んだ? だれもいない。 俺しかいないんだ。

そんな、馬鹿ばかげた使命感しめいかんとらわれていた。 俺は、自分自身じぶんじしんを、会社かいしゃのために__はたらく__歯車はぐるまだとおもっていた。 俺がまったら、会社かいしゃまる。 そうしんじて、ひたすらに、けてきた。

そして、その。 俺は、ついに力尽ちからつきた。

パソコンのモニターのひかりが、俺のかおを__らして__いる。 キーボードをたたゆびが、まった。 あたまなかが、__真っまっしろ__になる。 いや、ちがう。__真っまっしろ__になったのではない。 何もかんじられなくなったのだ。

心臓しんぞう鼓動こどうが、ゆっくりとよわまっていく。 呼吸こきゅうが、くるしくなる。 そして、**意識いしき**が、とおのいていく。

ああ、俺の人生、こんなものだったのか。 後悔こうかいしかなかった。 もっと、両親りょうしん電話でんわしておけばよかった。 もっと、友達ともだちあそんでおけばよかった。 もっと、自分じぶんきなことをすればよかった。 もっと、もっと、もっと…。

しかし、後悔こうかいしたところで、もうおそい。 俺の人生は、ここでわったのだ。

「…もしも、もう一度いちどきられるなら…」

そうねがった。

「…つぎは、だれかのために、頑張がんば人生じんせいではなく…」

「…**自分じぶん**のために、おだやかに、きる人生じんせいを…」

「…おくりたい…」

それが、俺の、最後さいごねがいだった。 そして、俺の**意識いしき**は、完全かんぜんやみつつまれた。

次に__目覚(めざ)めた__とき、俺は、あかぼうになっていた。 あたたかい毛布もうふに__包(つつ)まれ__、やさしいにおいがする。 けると、そこには、俺を見つめる、やさしい笑顔えがお女性じょせいがいた。

「ああ、ユウ。よかった、めたのね」

女性じょせいは、そうって、俺をやさしく__抱(だ)きしめて__くれた。 それが、俺のあらしい人生じんせいはじまりだった。

おだやかなスローライフを__おくる__ために、俺は、この世界で、自分じぶんらしくきていくことをこころちかった。

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