第3話 ノープライバシー

 その日の放課後、私はまた一枚の付箋をセツナの机に置いた。

 書かれていたのは、場所と時間だけ。

 前回と同じく、余計な言葉は何ひとつ添えない。


 指定したのは旧校舎の三階、誰も使っていない美術室。

 長く放置された空気は粉っぽく、床に積もった埃が歩くたびに舞い上がる。

 壁には色褪せたデッサン、棚には半分崩れた石膏像。

 西日が斜めに差し込み、机の上にオレンジ色の光の筋を描いていた。


 ドアが静かに軋みを立て、セツナが姿を現した。

 前回よりもわずかに早足で、けれど落ち着かない様子で。

 制服のスカートのポケットに手を突っ込んだまま、私を睨むように言った。


「……で? 今日は何させるの」

「いきなり本題? ちょっとは私の顔見てから言ってよ」

「見たでしょ。はい、終わり」


 ぶっきらぼうな返し。

 でも――ちゃんと来る。

 私は小さく笑い、古びた机に腰を掛けた。


「今日はね、簡単だよ」

「……ふん」

「夏乃さんのスマホ、見せて」

「……は?」


 その一言で、セツナの眉がぴくりと跳ねた。

 表情が、あからさまに固くなる。


「ロック外して、中身。写真とか、トークとか」

「……何考えてんの。そんなの、絶対ダメに決まってるでしょ」

「別にいいじゃん。見られて困ることがなければ」

「困るに決まってるでしょ!!」


 声を荒げた瞬間、埃が逆光に舞い上がり、きらきらと光の粒になって散った。

 その中で、セツナの瞳は大きく揺れていた。


「……でも、断るならいいよ?」

 私はポケットのスマホを指先で軽く叩いた。

 その仕草ひとつで、セツナの視線が反射的にそこへ吸い寄せられる。

 ――効いてる。


「……最低」

 絞り出すような声。

 けれど彼女は、ゆっくりと自分のスマホを取り出し、机に置いた。

 細い指が、ためらいながらもパスコードを打ち込む。


 その横顔を、私はじっと見つめていた。

 普段の彼女が絶対に見せない顔――屈辱と、恐れと、わずかな期待が入り混じった横顔。

 「完璧な夏乃セツナ」の仮面が、今だけは外れている。


「……ほら。見ればいいじゃん」

 不機嫌さと諦めが入り混じった声。

 けれど、その手はかすかに震えていた。


 私は画面を適当にスクロールしながら、わざと意味ありげに口を開く。

「ふぅん……彼氏に見せるのは平気なのに、私には見せたくないんだ」

「……っ! 彼氏じゃない、彼女、でしょ……」

「そうだった。秋月さん、ね」


 その名前を口にすると、セツナの肩がぴくりと跳ねる。

 図星を突かれた獲物みたいに。


 私はスマホを机に戻し、彼女の耳元に身を寄せる。

 吐息がかかる距離で、囁く。


「じゃあさ。次から、私とのトークルーム作ってよ。私からの連絡、すぐ返して」

「……は?」

「命令だよ」


 セツナは唇を強く噛みしめた。

 でも、拒否の言葉は出てこない。

 沈黙――それがなによりも確かな承諾。


「……ほんとに、あんたって……」

 呟きながら、セツナは顔を背けた。

 夕日がその頬を赤く染め、わずかな震えまで浮かび上がらせる。


 私は胸の奥で、甘く痺れるような熱を感じていた。

 彼女の秘密に触れ、支配し、縛りつけていく。

 そのたびに、彼女は私にしか見せない表情をくれる。


「これで、私と夏乃さんは――もっと近くなるんだよ」


 その囁きが、埃と夕日の中に沈んでいった。

 セツナの感情は読み取れなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る