第3話

深夜。

 彼女は一人、屋敷の静寂の中でその扉を開いた。


 軋む蝶番の音。冷たい空気。古文書の匂い。

 ろうそくの炎が揺れるたび、石壁に無数の影が伸びた。


 「魔眼(エンチャント・アイ)――精神干渉系・異能区分:制御型」

 **「発動条件:視認+意志伝達」

 「効果:対象の精神領域に“束縛”を植え付け、一部の行動・発言を制限」


 それは明確に書かれていた。

 国家が規制している“禁術由来の異能”の一つ。

 しかも、その中でも特に危険とされる「人格支配」の力。


 レイナの手が震える。

 頁をめくるたびに、文字は冷たい現実を突きつけてくる。


 「制限対象:感情の強制は不可能。だが、“意思決定の回避”は可能」

 「……例:主への逆らいを考えると激しい苦痛、恐怖、または記憶混濁が発生」

 「長期間、魔眼保持者の体液を摂取しない場合――精神崩壊の危険あり」


 「――これは、まさか……」


 セレナの言葉が脳裏に蘇る。

 彼女は感情を持ちながらも、逆らえなかった。

 彼女は、拒絶を望みながらも、補給を求めていた。


 そう――彼女は、縛られていた。

 目に見えぬ鎖で。カイル・ヴァーミリオンという主によって。


 その瞬間、背後で石段がきしんだ。


 「レイナ嬢……夜更かしは、体に毒ですよ」


 レイナは全身が凍りついた。

 振り返らずとも、誰の声かはわかっていた。


 「……カイル、様」


 彼は微笑みながら近づく。

 蝋燭の灯りが、彼の顔を柔らかく照らす。だが、その瞳の奥には、いつもの温かさがなかった。


 「知識は時に、信頼を壊す毒になります。……その本を、僕に渡してもらえますか?」


 レイナの手は、書を握りしめたまま動かない。


 ――この人は、何者なのか。

 ――私は、一体“誰”に、婚約を許したのか。


 薄暗い禁書庫の中、静寂の中にただひとつ、レイナの心臓の鼓動だけが響いていた。


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~~回想 2年前 王都西学区・魔法学園旧寮裏通りにて~~


レイナ・オルディナは、背筋を伸ばして歩いていた。

 薄暗い裏道。魔法学園の旧寮を通り抜ける抜け道。近道ではあるが、寮監からは「使用禁止」と言われている路地だった。


 だが、今日は遅刻が許されない魔法理論の試験日。

 迷っている余裕はなかった。


 


 その時だった。


 


 「おや……オルディナ家のお嬢様じゃないか?」

 「貧乏貴族の令嬢が、こんな所で何してんの?」


 


 声が闇から飛んできた。

 細い路地の入口に、数人の若い男たちが立っていた。

 見覚えがあった。学園の中でも素行が悪く、問題を起こしては教師の後ろ盾で逃れているような連中だ。


 


 レイナはすぐに歩調を変えず、淡々と答える。


 「道を空けてください。学園の生徒同士、品位を守るのがルールです」


 


 だが、彼らは動かなかった。

 一人が嘲るように笑い、杖の柄を手の中で回した。


 「“品位”? そんなもん、あんたの家にはもう残ってないだろ」

 「実技も中の下、家は没落寸前……噂じゃ、嫁ぎ先も断られたそうじゃねぇか」


 


 レイナの眉がわずかに動いた。

 ――不覚だった。彼らが自分を見下せる理由を、こちらから与えてしまっていた。


 


 次の瞬間、魔力が空気を歪ませた。


 


 「ちょっと“教えて”やるよ。どれだけ、貴族社会が甘くねぇかってな」


 障壁が張られる音。完全に閉じられた空間。

 逃げ道は、ない。


 頭では分かっていた。こうなる危険性も予測していた。

 だが、体が動かない。魔力が震え、視界が揺れる。


 杖を抜こうとしたが、手が硬直していた。

 声も、出なかった。


 


 (誇りを捨てたくない――でも、叫べば“哀れな女”として記憶される)

 (それだけは、嫌……)


 


 だが、現実は非情だった。

 魔力の縄が足元に絡みつき、強制的に姿勢を崩される。


 レイナは、崩れ落ちた石畳に片膝をついた。

 背後から迫る気配。嗤う声。じわじわと近づく杖の気配。


 


 ――ああ、これで終わりなのか。


 “誰にも助けられないのが、私という存在だ”


 そう思ったとき――




 「……やめておけ。その程度の男共が、“貴族”を名乗るな」


 


 声が割って入った。

 それは、冷たく、重い。そして――異様なほど静かだった。


 


 その場にいた男たちが、一斉に硬直する。


 立っていたのは、夕暮れの光に逆らうように黒いローブを纏った少年。

 その姿を見た瞬間、レイナの心が揺れた。


 ――カイル・ヴァーミリオン。

 侯爵家の長男。学年主席。誰よりも完璧な“貴族の完成形”。


 


 男たちの一人が焦りを隠し、笑いかける。


 「カイル様……これは、ただの学園内の戯れでして……」


 


 カイルは何も言わなかった。

 ただ、ゆっくりとその眼差しを相手に向けた。


 


 ――次の瞬間。


 


 男の一人が鼻から鮮血を噴き出し、膝をついた。

 別の男は笑いながら震えだし、壁に後退してその場で気を失った。


 


 「……逃げるなら、今だ」


 


 カイルの言葉に、最後の一人が恐怖に駆られたように立ち去った。

 その場には、彼とレイナだけが残された。



 カイルはレイナの前に歩み寄り、手を差し出す。


 「立てますか?」


 レイナは、その手を見つめたまま動けなかった。

 全身が震えていたのは、恐怖ではなく、誇りが崩れた痛みだった。


 「どうして……助けたのですか?」


 カイルはほんのわずかに目を細め、言った。


 「あんな連中に触れられて、誇りを失うのは――君には、似合わないと思ったから」


 彼は、それだけ言って踵を返した。

 その背中は、あまりに静かで、あまりに遠かった。

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 屋敷の窓から見える夜空は、冷たい空気を孕んだ深い藍色に包まれていた。


星々は無機質な光を放ち、どこか寂しげに空間を埋めている。その美しさは、彼女の


心の中の複雑さにぴったりと重なるようだった。レイナはその空をじっと見つめ、静


かに息を吐いた。ひとときの静寂の中で、深い思索に沈んでいく。


(あの時、救われたのは――命だけではなかった)


彼女の脳裏に浮かぶのは、あの日の夕暮れ。薄明かりの中で見たカイルの姿。彼が彼


女を助けるために取った行動は、ただの親切心や義理で動いたものではないことを、


今、はっきりと理解していた。その時、レイナはただ命を救われたわけではない。何


か、もっと大切なものを与えられたのだと。


彼女は記憶を辿る。男たちに囲まれ、絶望的な状況で、何もできずに膝をついていた

あの瞬間。


レイナは「守られた」と感じた。助けられたという感覚が、心の中で温かく広がり、何もかもが変わった瞬間だった。それは、単なる命のやり取りではない。


誇り、尊厳、そして――何よりも、自分自身が“助けを受け入れた”という事実。


その瞬間、彼女は無力であったが、同時にその無力さを受け入れた自分に驚きも感じていた。


(私の誇りも、尊厳も)

その感覚が胸の中で渦を巻いていた。


誇りを失ったと思ったその時、実は失われていたのは自分を守る力ではなく、それを他人に求める勇気だったのだと、レイナは今、深く理解する。


彼女が誇りを捨てることなく、助けを受け入れたその瞬間に、何か新しい道が開けたように感じた。


それは、彼女がどれほど自分の誇りを大切にしているかを、改めて気づかせてくれた。


(あの人は……どんな理由であれ、確かに私を“護った”)


カイルの行動には、単なる好意や義務感を超えた何かがあった。


彼女はその深層に触れたくなった。彼がなぜあの時、あのように自分を守ることを選んだのか。


それが今となっては、ただの婚約者としての責任以上の何かに思えた。あの時のカイルの眼差し、言葉ひとつひとつ、すべてが無意識のうちにレイナに深く刻まれていた。


彼女はその記憶を胸に、今、もう一度その瞬間を思い出す。あの日、カイルは確かに彼女を護った。


そしてそれは、たとえ彼がどんな理由で動いたのかを知っても、彼女の心には変わらず強い絆となって残った。それが、ただの感謝を超えていることを感じていた。


その時、レイナは静かに心の中で誓った。どんなに小さなものでも、カイルが自分に与えたその“護り”に対する何かを、自分もまた返さなければならないと。


(だから今、私は彼を放っておくことができない)

その誓いは、決して軽いものではなかった。


彼女が彼に抱く「借り」は、単なる義理や感謝にとどまらず、もっと深いレベルでの責任感を意味していた。彼女はその感覚を強く自覚していた。


カイルは、彼女の誇りを護るために戦った。そして今、彼女はその誇りを護るために立ち上がらなくてはならない。


(それが、私がカイルに抱く“借り”の本当の意味だ)


レイナは、心の中でその意味を繰り返す。


その借りは、単なる物理的な救済や命を救われたという事実ではない。


それは、彼女の心の中で育った「絆」に対する責任であり、同時に彼女自身の誇りを取り戻すための、戦いの始まりであった。


彼女は、これから先のすべてを、その“借り”を返すために捧げるつもりだった。


レイナはゆっくりと立ち上がり、禁書庫の冷たい空気を胸に吸い込んだ。


部屋の中で、ただひとりぼっちで過ごした静寂の中で、心の決意が固まった。


その一歩が、今までの自分を切り離し、新しい自分を切り開くための最初の歩みだという確信を感じていた。彼女の中で、何かが変わった。


(私は、この先も、彼と共に未来を切り開くために戦う)


その言葉は、彼女の中で鳴り響き、静かな決意をさらに深く刻み込んだ。


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