第三章

 神奈川県横浜市にあるざわ球技場のスタンドから、またしてもどよめきが湧いた。


「うわ!」

「すげえ!」


 スタンドから聞こえる相手吹奏楽部の演奏まで、音量が上がった気がする。


「やらせんな! なか、切って!」


 負けじと大声で、明人は指示を出し続けた。だがそれをあざ笑うかのように、小柄な白いユニフォームは軽やかにドリブルで侵入してくる。オレンジ色のユニフォームを着た味方が、次々とかわされていく。


「打たせん――」


 な、と続けようとしたタイミングで、白いユニフォームの左足から、またしても鋭いラストパス。


「カバー!」


 反射的に叫ぶが、そのカバーをする味方が誰もいない。何しろパスを出した彼に、こちらのディフェンダーは三人も引きつけられているのだ。

 スタンドからの悲鳴と歓声。フリーでパスを受けた9番の選手が、ペナルティエリ内から強烈なシュートを放ってくる。伸ばした右足にシュートが当たってくれたのは、運がよかったとしか言いようがない。

 とにもかくにも明人は、なんとかゴールを守ることに成功した。


「おお!」

「止めた!」

「ナイスキーパー!」

「サンキュー、明人!」


 ふたたびのどよめきとチームメイトの声。バックスタンドのオハ高応援団が、すかさず「近守」コールを繰り返してくれる。普通の相手なら、これで自分の気持ちも乗っていけるところだ。

 しかし。


 ……ほんと、半端ないな。


 味方守備陣が必死にクリアしてくれたボールを見つめながら、明人はまたしても同じ感想を抱かされていた。




 全国高校サッカー選手権、一回戦。

 オハ高サッカー部の相手は、神奈川県代表のとうけいがくえんだった。

 激戦区の神奈川を勝ち上がってきた名門・東経学園は、プロ注目のスーパーエース、やまむらえいすけを擁する優勝候補の一角でもある。山村は明人たちと同じ二年生ながら、日本ユース代表にも選ばれている、誰もが認める同世代のナンバーワン・プレイヤーだ。今日の一回戦も、「無名の公立校相手に、山村がどんなプレイを見せてくれるか」を期待して観戦にきた人がほとんどだろう。


 わかってたつもりだけど、本当に凄すぎる……。


 舌を巻くしかない明人以上に、フィールドプレイヤーのチームメイトたちは、それを実感させられていることだろう。

 かようなほどに、山村の能力は圧倒的だった。

 植原キャプテンや県予選で対戦した滝浜二高の長谷川選手も、並みの高校生から見ればじゅうぶんに「上手い」レベルだが、数年後には日本代表にまで上り詰め、そこでも背番号10を背負うこととなる山村のプレイは、まるで異次元だった。ハーフタイムには沖田先生ですら、「彼はきっと、別の惑星で生まれた選手だ。サッカー星人だな」と苦笑していたほどである。


「正直、山村君を止めるのは難しい。できれば右足でボールを扱わせたいところだけど、それすらハードルが高いかもしれない。とりあえずシュートやラストパスだけ防げば御の字だ」


 沖田先生の指示にもある通り、山村の左足はまさに魔法のステッキだった。ドリブルをすれば、ボールの方が離れたがらないかのごとく足に吸いついているし、ロングパスを蹴らせれば四十メートル先にいる味方の、それも右足か左足かまで狙って、ピタリと通してみせる。極めつけはコーナーキックやフリーキックといったセットプレイで、これだけ正確なボールが蹴れるのならば、むしろPKよりも簡単に感じるのではないかと、疑ってしまうほどだった。


 後半も残りわずかとなったここまで、そのフリーキックこそ決定的な位置では与えていないものの、オハ高は前半のうちに、やはり彼のピンポイントで合わせるコーナーキックから、ヘディングシュートで一点を許してしまっていた。

 スコアは、〇―一。


「プレッシャー! 緩めるな!」


 またしても山村にボールが渡り、明人は嗄れかけた声を今一度、張り上げた。彼がボールを持つだけで、東経学園の応援席から大歓声が上がる。


「ケンタロウさん! 逆サイ、ケア!」


 サイドバックを務める三年生、かわぐちけんろうに指示を出しながら山村の視線も探る。

 小柄な身体がペナルティボックスのやや手前、バイタルエリアと呼ばれるゾーンにドリブルで侵入してくる。さっきはここでディフェンダーを引きつけてから、がら空きの逆サイドへ見事なラストパスを通されてしまった。今回はどんなプレイを選択するつもりなのか。ミドルシュートか。さらにドリブル突破か。それとも。

 複数の可能性を思い浮かべた直後。

 いずれでもないプレイが、明人を襲った。


「なっ!?」


 ふわりとしたボールが、見上げた先を通り越していく。なんと山村はキーパーの頭上を抜くループシュートを、しかも視線はまるで関係ない方向へと向けた、ノールック状態から繰り出してきたのである。


「おおーっ!」


 またしても湧き上がるスタンド。

 一歩、反応が遅れる。間に合うか。届くか。


 ままよ!


 明人は迷わず、左後方に身体を投げ出した。

 ボールの軌道に合わせて右手を精一杯伸ばし、下から押し上げるようにしてゴールバーの上へとかき出す。フィスティング。キャッチできないときや、ぎりぎりのボールに対応するためのゴールキーパー技術の一つだ。

 がつんと背中がゴールポストに当たり、全身を痛みが駆け抜ける。だが同時に、ボールが枠外へと押し出される瞬間も、目でしっかりと捉えていた。

 スタンドが、またしても湧いた。


「これも止めるのか!」

「いいぞ、キーパー!」

「ナイスキー! 明人!」


 客席とピッチ上、双方からの大歓声のなか、山村は特徴的なマッシュルームカットを悔しそうに抱えたあと、こちらを賞賛するように清々しい笑顔で手を叩いてくれた。さすがの彼も、今のは入ったと思ったのだろう。明人も起き上がりながら、照れ笑いを浮かべて答えてみせる。それにしても、我ながらよくセーブできたものだ。

 けど、と思う。

 ちょうど対面の位置に設置されている、電光掲示板が視界に入る。


 東経(神奈川) 1―0 小原(兵庫)


 時計の針は下半分より少し先、40の数字に差しかかろうとしている。もう時間がない。


「竜也さん、残って! 長田さんと前で張ってて!」


 きっと次のプレイが切れれば試合終了だ。なんとか山村のコーナーキックを防いで、カウンターアタックに持ち込みたい。そして同点ゴールを決めたい。

 あのときみたいに。あの県予選準決勝みたいに。


「オハ高、集中しよう! まだワンチャン、あるで!」


 よく通る甲高い声がベンチから届く。いいタイミングだ。


「おう!」

「やろうぜ、最後まで!」

「集中切らすな!」


 仲間たちの気合とともに、明人もベンチに向かって親指を立ててみせた。声の主に、桃香によく見えるように。彼女の隣には、試合中ずっと立ちっぱなしの沖田先生の姿もある。

 コーナーキックへと向かう山村を目で追いながら、明人は先生の言葉を思い返していた。

 本当にその通りだよな、と。


 部活動は理不尽のかたまりだ。誰もが好きで取り組む活動なのに、試合やコンクールに出られない生徒が沢山いる。部活のお陰で割りを食っている他の生徒も、絶対に存在する。お金と時間はかかるし、そのぶん学生の本分たる勉強に割ける時間は減る。指導者は教員がほぼボランティアで、顧問の先生たちは、早朝練習から計算すると一日十時間以上も学校=職場にいる、なんてこともざらだ。学校はブラック企業、なんて言葉も聞いたことがある。オハ高だって東経学園だってどこだって、多かれ少なかれきっとそうだろう。


 でも。だけど。やっぱり。


 サッカーが、好きだ。スポーツが、好きだ。みんなで汗をかいて、笑ったり泣いたり喧嘩したり、本気の感情をぶつけ合えるこの時間と空間が、自分は大好きなんだ。


 だから俺は――。


 思った瞬間、周囲の光景がゆっくりと流れ始めた。

 コーナースポットに向けて助走する山村の動きが、スローモーションのように映る。自慢の左足が蹴り出したボールの回転も、軌道も、はっきりとわかる。跳び上がった自分の両手に、それがしっかりと収まる結果も。

 そして、もう一つの事実も。

 わかっていても明人は動いた。抗うように。変わるように。変えるように。時間の流れを、数秒先の結末を、みずからの両手でせき止めんと試みるかのように。


 左サイドで掲げられるキャプテンマークに向けて、パントキックを蹴ったときにはもう、ホイッスルが鳴っていた。




「明人」

「うん?」


 宿舎が用意してくれた帰りのマイクロバスに乗り込む直前、桃香に呼び止められた。周囲では優勝候補でもある東経学園、そして大会屈指のスター選手である山村を苦しめたグッドルーザー、オハ高サッカー部に気づいた人たちが温かい拍手を送ってくれている。


「明人、うち……」

「桃香、ごめんな」


 おたがい真っ赤な目を見合わせて、同時に声を発していた。


「あ、ごめん」


 こんなときに不謹慎かな、とも思いつつ阿吽の呼吸につい笑ってしまうと、桃香もはにかんだような笑みをみせてくれる。


「ううん」


 ああ、やっぱり可愛いな、と思う。泣いていても笑っていても、彼女はどこまでもチャーミングだ。

 ますます不謹慎だと頭の片隅では理解しているのだが、事実なのだから仕方がない。桃香は可愛い。

 泣き笑いの表情のまま、そんな幼馴染みがあらためて口を開く。


「うちね、明人に言いたいことがあんねん。どうしても、言いたいこと。やっぱり伝えようって今日の明人が、みんなが、教えてくれた」

「うん」

「でも、こんなときに言うのは卑怯っていうか、サッカーに失礼やって思うから」

「うん」

「だから」


 大きな瞳が、じっとこちらを見つめてくる。


「神戸に帰ってから、言うね」


 うん、なのか、わかった、なのか、自分がどう答えたのか明人は覚えていない。ただ次の瞬間には、もういつもの口調で「ほな、帰ろ。負けちゃったけど、胸張って。ナイスゲームやったんやから」と背中を叩かれていた。

 視界の片隅で揺れる、ポニーテールとともに。

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