第2話 出会いは血の匂い、交渉は酒の香り
意気揚々と地図にない森へ足を踏み入れて、はや五日。 ……舐めてた。はい、完全に。秘境というやつを舐めてました。
「お、お腹すいた……もう、歩けないかも……」
最初は鼻歌交じりだった私の足取りは、今やゾンビのようにおぼつかない。どこまで進んでも同じような景色。コンパスはくるくる回って役立たず。太陽は分厚い木々の葉に隠されて、方角すらあやふやだ。アイテムボックスに食料は無限にあるけど、ここで悠長にご飯を食べてる場合じゃない。早くしないと、伝説の猟師に会う前に私が伝説(故人)になっちゃう!
その時だった。 ガサガサッ! と背後の茂みが大きく揺れ、獣の臭いと殺気が私の肌を刺した。 振り向いた先には、牙の生えた巨大な猪――いや、猪っていうか小型の戦車みたいなやつ?――が、真っ赤な目で私を睨んでいた。
「うっそでしょぉ!?」
猪(仮)が地面を蹴る。突進。時速何キロよそれ! 私は慌ててアイテムボックスを開き、護身用に常備している閃光弾を取り出そうと――
「――間に合わないっ!」
覚悟を決めてギュッと目をつぶった、その瞬間。 ヒュッ、という空気を切り裂く鋭い音が、私の耳を撫でた。 直後、ドスッ! という鈍い音と、巨獣の断末魔の叫び。
恐る恐る目を開けると、巨大な猪(仮)は眉間に一本の矢を突き立て、ピクリとも動かなくなっていた。 そして、その巨体を見下ろすように、一人の男が立っていた。
年の頃は三十代くらい? 長い黒髪を無造作に束ね、無精髭を生やしたその顔は、とにかく無表情。使い込まれた革鎧と、手にした大きな弓が、彼がただの木こりでないことを示している。陽の光が届かない森の奥で、彼の瞳だけがやけに鋭く光っていた。 間違いない。この人が……!
「あ、あの! 助けてくれてありがとう! 私、リナって言います! あなたが噂の……」
「…………」
男は私を一瞥すると、興味なさそうに視線を猪(仮)に戻し、腰のナイフを抜き放った。 えっ、無視? 人助けしといてガン無視!? いやいや、コミュ障なだけかもしれない。ここはめげずにいこう。
男が驚くべき手際で獲物を解体するのを眺めた後、私は彼の後を金魚のフンみたいについていった。しばらく歩くと、森に溶け込むように建てられた小さな山小屋にたどり着く。
小屋の中は、必要最低限のものしかない、殺風景な空間だった。ベッドと、小さなテーブルと、壁にかけられたいくつかの狩猟道具。生活感というものがまるで感じられない。 男は私を完全に空気として扱い、黙々と暖炉に火をくべ始める。
「……あのー、聞こえてます?」
「…………」
薪をくべる手を止めない。
「私、あなたを探してここまで来たの! 最高の肉を食べさせてくれる達人がいるって聞いて!」
「…………」
火吹き竹を吹くのに夢中。
「お礼なら、いくらでもするから! お金? それとも何か欲しいものでも……」
こりゃダメだ。暖簾に腕押し。糠に釘。この男、言葉で交渉するタイプじゃない。 なら――こっちもやり方を変えるまでだ。 私はニヤリと口角を上げると、おもむろにアイテムボックスに手を突っ込んだ。
「まあ、狩りでお腹もすいたでしょうし? まずは軽く一杯どうかしら?」
ポン! と軽い音を立てて、テーブルの上にキンキンに冷えたエール瓶を置く。北のドワーフ国でしか造られていない、麦の香りが強い逸品だ。 男の眉が、ほんの少しだけ動いた。 いける!
「お酒だけじゃ口寂しい? そうよね。じゃあ、このスモークチーズはどう? 南の牧草地帯で作られたやつ。それとも、海沿いの街で買った海竜のジャーキーとか?」
次から次へと、テーブルの上にご馳走を並べていく。男は薪をくべる手を止め、訝しげな目でこちらを見ていた。
「もしかして、甘い方がお好み? 王都で人気の焼き菓子もあるわよ。あ、香辛料マニアだったりする? 東方諸国から取り寄せた秘伝のスパイスセット、見るだけでも楽しいわよ?」
香辛料の入った小瓶を振って、刺激的な香りを小屋に振りまく。 男は無表情を貫いている。だけど、彼の鼻がヒクヒクと動いているのを、食いしん坊の私は見逃さなかった。
そして、決定的瞬間は訪れた。 私が、とある一本の琥珀色のお酒――小さな商業国家エルドニアの、地ビールとも言える素朴なエールの栓を抜いた、その時。
シュポン! という音と共に、ふわりと立ち上った、どこか懐かしい麦とホップの香り。 その瞬間、男の動きが完全に、ピタリと止まった。 彼の揺るぎない無表情の仮面に、ほんの一瞬、ほんの僅かだけど、『動揺』という名の亀裂が入った。瞳の奥に宿ったのは、驚きと……そして、郷愁?
見えた、突破口!
私は勝負をかけるように、最高の笑顔で言った。
「ねえ、こんなのはどうかしら。あなたの狩る極上の『肉』と、私の持つ世界の『美味いもの』。交換しない?」
男はしばらくの間、黙って私とテーブルの上のエール瓶を見比べていた。やがて、彼はふいと顔をそむけ、暖炉の火に視線を落とす。 ダメだったか――と私が肩を落としかけた、その時。
彼は無言のまま、顎をしゃくって小屋の隅を指した。 そこには、干し草を積んだだけの、簡素な寝床があった。 ……泊まっていけ、ってこと?
「それって……交渉成立、でいいのかしら?」
返事はない。ただ、暖炉の火がパチリと爆ぜる音だけが響いた。 まあ、いいか! こうして、無口で無愛想な伝説の猟師と、食い意地の張った貿易商の、奇妙な共同生活の幕が、静かに(そして私の胃袋の期待と共に)上がったのだった。
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