第7話
子狐の幸がこの屋敷にやってきてから、私たちの日常にはささやかな光が一つ増えたようでした。
屋敷に満ちていた永い時の静寂はそのままに、けれどその静けさの質がほんの少しだけ変わったのです。それはまるで、厳かな神社の境内に一輪のたんぽぽが綿毛を飛ばしたかのような、微笑ましい変化でした。
幸はまだ幼く、一日のほとんどをとろとろと眠って過ごしていましたが、ひとたび目を覚ますとその小さな体には有り余るほどの好奇心が詰まっているらしく、よちよちと覚束ない足取りで私の後をどこまでもついて回りました。
私が縁側で庭の手入れをすれば、私の足元で土の匂いを嗅ぎ、戯れに蝶を追いかけては転び、そして飽きると私の草履の紐にじゃれついてくるのです。
私が繕い物を始めれば、いつの間にか膝の上に乗り、小さな寝息を立てて丸くなる。その柔らかな毛並みの感触と規則正しい小さな寝息は、私の心をじんわりと温めてくれるものでした。
幸は私にはすっかり懐いてくれましたが、鬼丸様のことだけはまだ少し怖いようでした。鬼丸様がその気配を現すとびくりと体を震わせ、蜘蛛の子を散らすように私の着物の袖の中へと隠れてしまうのです。
鬼丸様は、そんな幸に興味などないという素振りをされていました。まるで、そこに小さな命が存在しないかのように視線を合わせようともなさいません。
けれど、私には分かっていました。書斎の障子の隙間から、あるいは廊下の薄暗い角から、じっと幸の様子を窺う静かな視線が日に何度も注がれていることに。
その視線から漂う香りには、あやかしという異物に対する刀の神としての警戒心と、けれどそれだけではない、自分以外の存在に懐く小さな生き物への戸惑いに満ちた好奇心が確かに混じっていました。それは、永い間凍てついていた大地に初めて差し込んだ春の陽光のような、ぎこちなくも温かい香りの変化でした。
そんなある日の昼下がり、私が少し席を外した隙に小さな事件は起こりました。
目を覚ました幸がいつものように私の姿を探して部屋を出て、あろうことか鬼丸様が最も長く過ごされる聖域、書斎へと迷い込んでしまったのです。
私が幸の不在に気づき、慌てて屋敷の中を探して書斎へ向かうと、そこには信じられない光景が広がっていました。幸は鬼丸様が書き物をされる文机の上に乗っかり、ずらりと並んだ筆や美しい細工の施された硯に興味津々といった様子で、くんくんと盛んに匂いを嗅いでいたのです。
「こら、幸! いけません!」
私が悲鳴にも似た声を上げると、幸は私の声に驚いてぴょんと飛び上がりました。そしてその小さな体が、あろうことか墨がたっぷりと含まれた硯を横薙ぎに払ってしまったのです。
ぱしゃんという小さな音と共に、真っ黒な墨が広げられていた上質な和紙の書物の上に無惨にも飛び散りました。
「あ……!」
私はその場で凍りつきました。全身の血の気が、さっと引いていくのを感じます。
鬼丸様が大切にされている書物を汚してしまった。このお方がどれほど物を大切にされるか、私は知っています。きっと、ひどくお怒りになるに違いない。幸は、斬られてしまうかもしれない。
最悪の想像が頭をよぎり、心臓が氷の手に掴まれたように冷たくなりました。
書斎の奥、書架の影に立っていらっしゃった鬼丸様は、その一部始終を黙って見ていらっしゃいました。その美しい顔は能面のように無表情で、何を考えていらっしゃるのか全く分かりません。
ただ、その全身から放たれる神錆の香りがすうっと冷たく、そして鋭く尖っていくのを感じ、私は覚悟を決めました。私は幸を庇うようにして、鬼丸様の前に進み出ました。
「も、申し訳ございません、鬼丸様! 私が、幸から目を離したばかりに……! 全ては私の監督不行き届きでございます! どうか、この子はお許しください! 罰でしたら、私が、私がどんなことでもお受けいたします!」
私は畳に両手をつき、額が擦り切れんばかりに深く、深く頭を下げました。許しを乞うことしかできません。恐怖で声が震え、体が小刻みに震えるのが自分でも分かりました。
重く、長い沈黙が部屋の空気を支配します。
やがて、私の頭上から地の底から響くような静かな声が降ってきました。
「……顔を上げろ」
私はおそるおそる顔を上げました。
鬼丸様は、私ではなく、文机の上で自分のしでかしたことの重大さを悟ったのか、体を粟粒のように縮こまらせている幸をじっと見下ろしていらっしゃいました。
その黒曜石の瞳には、私が想像していたような燃えるような怒りの色はありませんでした。ただ、夜の湖面のような深い深い、静寂があるだけでした。
鬼丸様はゆっくりと文机に近づくと、墨で汚れた書物をこともなげに手に取り、一瞥しました。
そして、大きな、諦念にも似たため息を一つ、静かにつかれました。
「……ただの写しだ。問題ない」
そう言うと、鬼丸様はひょいと幸の小さな首筋を、まるで猫の子を扱うように二本の指で優しくつまみ上げ、宙にぶら下げました。
幸は驚いて短い手足をばたつかせましたが、鬼丸様は意に介した様子もなく、その小さな体をじっと見つめています。その眼差しは、厳しくもあり、どこか慈しむようでもありました。
「こ……この子は、まだ生まれて間もないのです。何も分からぬ子どもなのです。どうか……」
私が必死に懇願の言葉を続けると、鬼丸様はようやく私の方に視線を移し、心底呆れたように言いました。
「斬るなどとは一言も言っておらん。……お前は、本当に騒々しい女だな」
そう言うと、鬼丸様は私の腕の中にぽいと幸を放り投げました。
私は慌ててその小さな温かい体を受け止めます。腕の中で、幸が安心したようにきゅんと一声鳴きました。
「……こいつがいると、どうにも調子が狂う」
ぶっきらぼうにそう呟くと、鬼丸様は汚れた書物を手早く片付け始められました。
その広い背中と、迷いのない手つき。その横顔から漂う香りには、呆れとほんの少しの面倒くささと、けれどその奥底に、小さな過ちを許す不器用な優しさが確かに混じっていました。
私は、腕の中で安心しきって震えを収めた幸を強く抱きしめながら、鬼丸様の背中を黙って見つめていました。
このお方は、決して理不尽に命を奪うような方ではない。私が信じた通り、その鋼の鎧の下には誰よりも温かい心が隠されているのだと。
そのことが自分のことのように嬉しくて、胸の奥がじんわりと温かくなりました。
その日から、幸は少しだけ鬼丸様に慣れたようでした。まだ私の背後に隠れはするものの、以前のように怯えきった様子は見せません。
そして鬼丸様もまた、幸が近くにいてもあからさまに無視するようなことはなさいませんでした。むしろ時折、幸が私の足元で眠っていると、その小さな体に自分の羽織をそっとかけてやることさえあったのです。
そんな穏やかな日々が続いていたある日、屋敷の門を叩く音がしました。トメさんかと思いましたが、時刻はまだ昼前です。
不思議に思いながら門を開けると、そこに立っていたのは見覚えのある使いの者でした。私の実家、久我沢家からの使いでした。
「お嬢様、奥様と旦那様からのお手紙でございます」
差し出された一通の文。私は胸をどきりとさせながら、それを受け取りました。
家族からの便りは嬉しい。けれど、この静かな屋敷での暮らしに慣れた今、それは同時に私が捨ててきたはずの過去からの呼び声のようにも感じられたのです。
部屋に戻り、震える指で封を切ります。中には父の力強くも優しい筆跡で、家族の近況が丁寧に綴られていました。
借金を肩代わりしていただいたおかげで、家の暮らしは落ち着きを取り戻し、父も母も健やかに過ごしているとのこと。そのことに、私はまず心の底から安堵のため息をつきました。
そして、文の最後はこう結ばれていました。
『近々、一度そちらへ顔を見に伺いたいと思っている。お前が達者で暮らしているか、この目で見届けたい。何より、お前の夫君にも改めて礼を述べ、ご挨拶をせねばならぬと思っている』
父と、母が、ここへ。
その言葉に、私の心は喜びと不安で大きく揺れ動きました。
家族に会いたい。元気な顔を見せて安心させてあげたい。この上なくそう思う一方で、得体の知れない不安が胸の中に広がっていくのを止められませんでした。
鬼丸様は、どう思われるだろうか。
この、二人と一匹だけの静かな世界に、私の過去であり俗世との繋がりでもある家族が足を踏み入れることを、許してくださるだろうか。
鬼丸様の永い孤独に、人の世の温かさや喧騒は時に毒になるとご自身がおっしゃっていたではありませんか。私の家族の存在が、このお方の心を再びかき乱すことにはならないだろうか。
私は、その手紙を強く握りしめたまま、鬼丸様の書斎へと向かいました。
「……鬼丸様。少し、よろしいでしょうか」
障子の前で声をかけると、中から「入れ」と短い返事がありました。
中へ入ると、鬼丸様は窓辺に立ち、じっと庭に咲き始めた竜胆の花を眺めていらっしゃいました。その背中からは、いつも通りの穏やかで静かな神錆の香りが漂っています。
「実家の父と母から、手紙がまいりました」
私は居住まいを正し、意を決して切り出しました。
「……近いうちに、私の様子を見にこちらを訪ねたい、と。夫君である鬼丸様にも、ご挨拶をしたいと申しております」
私の言葉に、鬼丸様の肩がほんの僅かに動きました。けれど、こちらを振り返ろうとはなさいません。ただ、その背中から漂う香りがほんの少しだけ揺らいだのを、私は感じ取りました。
「……そうか」
ただ、それだけ。その声の響きからは、何の感情も読み取れませんでした。
「あの……もし、鬼丸様がご迷惑でしたら、もちろんお断りいたします。この家は鬼丸様のお住まいですもの。私が勝手にお招きするわけには……それに、お忙しい鬼丸様のお時間を私の家族のために割いていただくなど、滅相もございません」
私が言い募ると、鬼丸様はゆっくりとこちらを振り返りました。その黒い瞳が、私の心の奥底まで見透かすように真っ直ぐに私を見つめています。
「……なぜ、俺が迷惑に思うと考える」
「それは……鬼丸様は人の世の喧騒を好まれないのではないかと……。それに、私の家族と会うなどお手数をおかけするだけですから」
私の言葉に、鬼丸様はふいと視線を逸らされました。そして、小さな、ほとんど聞き取れないほどの声でぽつりと呟かれたのです。
「……お前のことだ。気になるのは当然だろう」
「え……?」
「お前の親なのだろう。娘が、どんな男に嫁いだのか、どんな暮らしをしているのか確かめたいと思うのは当たり前のことだ」
その言葉は、あまりに普通で人間らしいものでした。私は、驚いて鬼丸様の顔をまじまじと見つめてしまいました。
「……好きにしろ」
鬼丸様は、それだけ言うと再び庭の方へと向き直ってしまわれました。
拒絶の言葉ではありません。むしろ、それは許しの言葉でした。
けれど、その背中から漂う香りには今まで感じたことのない種類の香りが、はっきりと混じっていました。
それは、強い緊張の香りでした。そして、私の両親という「未知の存在」に対する明確な警戒心の香り。
もしかしたら、このお方は私が家族と再会することでこの屋敷から、鬼丸様の側から私の心が離れていってしまうことを、無意識のうちに恐れていらっしゃるのかもしれない。
そう気づいた瞬間、私の胸の奥がきゅうっと締め付けられるような、切ない愛おしさが込み上げてきました。
このお方は、まだこんなにも不安を抱えていらっしゃる。私が寄り添うと誓った永い孤独は、まだ完全には癒えてなどいないのだ。
「ありがとうございます、鬼丸様」
私は、背を向けたままの鬼丸様に向かって深く、深く頭を下げました。
「父と母に、そのように返事を書きます。きっと喜びますわ」
鬼丸様からの返事はありませんでした。けれど、それで良かったのです。言葉にしなくとも、その背中が雄弁に語っていましたから。
私は静かに書斎を後にしました。
両親に会えるのはもちろん嬉しい。けれど、それ以上に私は決意を新たにしていました。
訪問の日まで、あと数日。その日までに、このお方が少しでも心安らかに過ごせるように。そして、私の大切な家族にこのお方の本当の優しさが、ほんの少しでも伝わるように。
今の私にできる、精一杯のことをしよう。
偽りの妻としてではなく、この孤高で不器用な神の唯一の伴侶として。
私は、胸の中で強く誓い、両親への喜びを伝える返事を書くために文机へと向かうのでした。
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