没落華族の私に課せられたのは、心を閉ざした刀の神との契約結婚。『鞘』として道具扱いされるだけの毎日ですが、私だけが視える彼の『哀しみの香り』を癒やしたら、次第に溺愛されるようになりました

旅する書斎(☆ほしい)

第1話

物に込められた人の想いが、私には「香り」として感じられる。


嬉しさは陽だまりのように甘く、悲しさは雨に濡れた土の匂いがする。怒りは、鼻の奥をちりりと焦がす煙の香りだ。


私の名は久我沢千代。この不思議な力は、物心ついた頃から私と共にあった。けれど、誰かに話したことはない。きっと分かってもらえないと、幼い心に理解していたからだ。他の人には分からない香りを感じ、時にその香りに心を乱される私は、いつしか人と距離を置いていた。名ばかりの華族という家の片隅で、静かに息を潜めるように生きてきた。


明治の世となり、華族の身分は過去の威光を失った。武家の誇りも高かった我が久我沢家も、時代の波には抗えない。暮らしは日増しに傾いていった。父が事業に失敗してからは、坂を転がり落ちるようだった。先祖代々の着物はとうに質に入れられ、屋敷に仕えていた者たちも一人、また一人と去っていった。


そして今日、父と母のいる居間から漂うのは、どうしようもない絶望の香りだった。冷たく湿った霧が家中を覆い尽くすような、そんな息苦しい香りだ。


「千代。少し、話がある」


障子の向こうから聞こえた父の声は、ひどく掠れていた。私は静かに立ち上がり、覚悟を決めてその部屋へ向かった。


部屋に入ると、父と母が青ざめた顔で座っていた。その間には一枚の紙が置かれている。借金の証文だろう。そこから放たれる人の欲望と嘲りが入り混じった不快な香りに、私は思わず顔をしかめた。


「千代……すまない。父の力が及ばず、もはやどうすることもできなくなった」


父は深く頭を垂れた。その肩が小さく震えている。誇り高い父がこれほど打ちひしがれた姿を見るのは初めてだった。父の背中からは、大切なものを守り切れなかった無念と、自分を責める苦い香りが立ち上っていた。


「この屋敷も……近いうちに手放さねばならん」


母が嗚咽を漏らした。


この屋敷がなくなる。その言葉は、私自身の体の一部が引き裂かれるような痛みとなって胸に突き刺さる。家族と過ごした温かい日々の記憶が染み付いた、かけがえのない場所が失われるのだ。


「何か、方法はございませんの? 私にできることがあるのなら、何でもいたします」


絞り出した私の声に、父はゆっくりと顔を上げた。その瞳には苦悩と、そして僅かなためらいの色が浮かんでいた。


「……一つだけ、ある。だがそれは、お前にあまりにも酷な選択を強いることになる」


父は言葉を切り、意を決したように続けた。


「お前に、縁談の話が来ている」


縁談。その言葉に私は息を呑んだ。この期に及んで、没落した久我沢家に縁談などあるはずがない。


「相手は、久我沢の遠縁を名乗るお方だ。素性は分からん。だがその方が、我が家の借金を全て肩代わりし、この屋敷も守ってくださると申し出てくれている」


そんな都合の良い話があるだろうか。見返りもなしに、莫大な援助をする者などいるはずがない。


「……条件があるのでのでしょう?」


私の問いに、父は辛そうに目を伏せた。


「うむ。……千代、お前がその方に嫁ぐこと。それが唯一の条件だ」


やはり、そうだった。愛も心も介在しない、ただの取引のための結婚。けれど、今の私たちに他に道はあるのだろうか。


家族が路頭に迷い、先祖から受け継いだ大切な場所が人手に渡るのを、ただ黙って見ていることなどできなかった。


「父様。そのお話、お受けいたします」


私の即答に、父と母は驚いたように顔を上げた。


「千代、しかし……!」


「いいのです、父様、母様。この話がなければ、私たちはどうなっていたか分かりません。私一人の身で家族とこの家が守れるのであれば、これほど嬉しいことはございません」


私は必死に微笑んでみせた。その笑みがひどくぎこちないことは、自分でも分かっていた。


その夜、父は私を一人、書斎に呼んだ。昼間の憔悴した姿とは違い、その表情はどこか厳かで、神聖な光さえ宿っているように見えた。


「千代。今日の話だが、あれは単なる金銭のための取引ではないのだ」


静かに語り始めた父の言葉に、私は耳を傾けた。


「久我沢の血筋には、古くより課せられた使命がある。それは、この土地に鎮まるある古き魂の『鞘』となり、そのお力を現し世に繋ぎ止めるという役目だ。我らは『言祝ぎの血脈』と呼ばれ、代々の女がその身を神に捧げてきたのだ」


言祝ぎの血脈。鞘。初めて聞く言葉に私は戸惑った。


「お前が嫁ぐお方は、人ではない。幾百年もの時を生きる、付喪神なのだ。荒ぶる神であったそのお方を鎮め、その孤独に寄り添うことこそ、お前に課せられた真の役目なのだ。借金の話は、その使命を果たすべき時が来たことを示す、ただのきっかけに過ぎん」


神に嫁ぐ。


父の言葉はあまりに現実離れしていた。けれど私の心の中では、不思議とすとんと腑に落ちた。父から漂う香りが、どこまでも真摯で嘘偽りのない清らかなものだったからだ。


それは金銭のための取引ではない。一族の使命と、一人の孤独な神を救うための、高潔で自己犠牲的な決断なのだ。


「千代。お前には辛い思いをさせる。だが、久我沢の血を引く者として、この運命からは逃れられんのだ。……許せ」


父は再び深く頭を下げた。娘を過酷な運命に送り出す、断腸の思いが痛いほどに伝わってくる。


私は静かに父の前に進み出て、その手に自分の手を重ねた。


「父様。お顔をお上げください。私は、怖くなどありません」


本当は、怖くて不安で今にも泣き出してしまいそうだった。けれど、ここで私が泣けば父と母をさらに苦しめることになる。


「久我沢家に生まれた者として、その使命を誇りを持ってお受けいたします。私が『鞘』となることで皆様が安らかに暮らせるのであれば、私は幸せです」


その言葉は、私の心の底からのものだった。


誰にも理解されない力を持って生まれ、ずっと孤独だった私。私のこの身が誰かのためになるのなら。それだけで、私がここに生まれてきた意味があるような気がした。


書斎から自室へ戻る道すがら、私は夜空を見上げた。煌々と輝く月が、静かに私を見下ろしている。


これから私を待つのは、愛のない偽りの夫婦生活。相手は人ですらない、孤独な神。


けれど、私の心は不思議と凪いでいた。


永い時をたった一人で生きてきたという、まだ見ぬお方。その孤独はどれほど深く、冷たいものだろうか。


もし私のこの力が、そのお方の永い孤独にほんの少しでも寄り添うことができるのなら。


あなたの百年の孤独に、私の生涯を捧げます。


私は胸の中で静かに呟き、これから始まる見知らぬ運命へと、真っ直ぐに歩み出すことを心に決めたのだった。

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