暗闇の水

まさつき

【前編】豪雨に濡れる

 あてにならないのはどちらも同じなのか。天気予報も、人の気持ちも。


「雨って明日の朝からじゃなかったの?」


 自宅の最寄り駅で終電車を降り改札を抜けると、女の視界は大粒の雨で上から下まで覆われてしまった。傘はない。持っていたとしても、この強風では身体ごと飛ばされそうになって、怪我の元にしかならないだろう。


 もうあの番組の天気予報士の男を信じるのは止めにしよう。イケメンの優男。男なんてどいつもこいつも、信じるもんじゃないのに決まっている。


 ――でもこの雨は。悪くはないかもしれない。今の自分にとっては。


 陽はとうに西の地平に没したというのに、ほとんど気温が下がらないままの熱帯夜。遠い夏の夜空ではときおり稲妻が刻を夜から昼に変え、一瞬街並みの影を夜空に浮かび上がらせると、遅れて雷鳴が轟いた。


 分厚い漆黒の雲で塗り固められた空と、無数にばら撒かれる雨滴の群れを、傘を持たない人々が茫然と見上げていた。ただその女だけが、突っ立つばかりの人々の間を抜けて、迷う様子をひとつと見せず雨の中へと進み出る。道路はすでに浅い川のようであり、縁石のそばにできた水溜まりは暗くて底が知れない。だが女は、そこへも構わず足を踏み入れた。足の甲が広く開いたパンプスでは雨水は容易く侵入して、だらしない口元から漏れるのに似た湿った音で足を啼かせる。


 なんだか妙に、いやらしい。足の指へと丹念に舌を這わせるときの、あの男の口からこぼれる音によく似ている。今更思い出すのがベッドの上での記憶かよ……と女は毒づくが、その声も、粒の大きな水滴が地を叩く打音とともに消えてしまう。


 吹きつける雨はぬるま湯だ。女はわざと顎を上げて歩いている。天然のシャワーが顔中を打ち据える。きっと、化粧が溶けだして酷い有様になっているに違いない――そう思いながらも一向に構いもしない。むしろ流す涙とともに、あの男への未練も洗い流してくれることを願っていた。闇の中へ全て溶けてしまえ、と。


 百歩足を進めるのを待たずに女の全身は水びたしになった。上衣も、スカートも、ストッキングも、下着も。化繊混じりの布地が粘りを帯びて地肌にまとわりつく。白いブラウスにはブラジャーの鮮やかな薄桃色が浮かび上がっているだろうが、眼福にあずかれる者とは一人としてすれ違わない。


 雨水に濡れていないのは、もはや純粋に体の内側だけだ。耳の穴にまで雨水が入り込んでいる。雨を含んだ衣服は水袋を纏うようで、歩む動きを鈍らせる。着衣のまま水に飛び込めば、こんな風に身体が重たくなるのかもしれない。しかし華奢な女を鈍重にするのは、深い酔いのせいでもあった。あの男の話は強い酒なしに聞いていられるものではなかったのだから、仕方がない。


 鞄の中も隅々まで水に侵されているだろう。あいつがよこした札束入りの封筒も。馬鹿にしやがって。三ヶ月は何もせずにおとなしく暮らせるだけのモノが入っているようだが、これから全て乾かすことを考えただけで、体はさらに重くなる。一枚づつ破かぬよう慎重に広げて、外干しは出来ないから部屋中に並べて。そんな作業で明日からの貴重な三連休を過ごさなくてはならない。


 味気ないが、手切れ金も電子マネーでよこしてくれればいいのにと思わなくもない。しかし足がつきにくいのだから、現金が相変わらず重宝するのだろう。そんな風に男の都合を考えてやれる余裕があると気づいて、女は声を挙げて笑い、噎せた。雨水が飛び込んで喉の奥を穿ったのだ。生温かい湿り気は渋く粘つく男の味を呼び起こすものだから、まとめて唾ごと地面に向けて叩きつけてやった。


「くそったれ」


 アスファルトを唾液で汚す女の悪態に応えたのは、さらに強まる雨脚だった。風も激しさを増し、別れの感傷に浸りたい気分をあっさりと吹き飛ばしてしまう。そこへ落雷が追い打ちをかけた。視界が一瞬真っ白になり、間を置かずアスファルトを震わせるほどの轟音が鳴り響く。近い。身を引き裂かれ黒焦げにされる錯覚を覚えてしまう。死が近くにいる。原始的な本能が女の怠惰な動きに鞭を入れ、自宅マンションへの帰路を急がせた。


 耳障りな雨音の中に女の足音が混じる。水を撥ねるのは自分の両足だけであるはずなのに、なぜかもうひとつ、どこからか後をつけてくる小さな物音が重なるように感じられる。闇の水音。背筋に立つ鳥肌。ひとたび覚えてしまった恐怖の感覚は、危険が迫る妄想を女の心に呼び起こしてしまう。追われて、狩られて、犯される……。


 こんな雨の中で? まさかね――だいたい、粘液みたいに溶けた顔を見る相手のほうが、よほど怖い思いをするに決まっている。今の自分の顔には、世の男どもへの憎悪が剥き出しに満ちているのに違いない。濡れ透けた肌の後ろ姿を見て良からぬことを考えた悪漢が、後ろから羽交い絞めにしてこようとも。この相貌を見れば恐怖に顔を歪めるのは、襲った男のほうだろう。大丈夫、だいじょうぶ……怖いことなど、何も起きはしない――


 女は恐怖の妄想に急き立てられながら、ほどなくしてマンションのエントランスに辿り着いた。湿った指先でオートロックの暗証番号を入力し、ガラス戸が開くや建物に駆け込む。後ろで戸が閉まると、にわかに雨音はくぐもり遠のいた。エントランスを照らす照明が、外の雨粒を青白く光らせている。人影はない。誰もいない。いるわけがない。一息ついてホールのエレベーターを呼んだ。


 全てはただの妄想なのに、なぜこれほどに気持ちが落ち着かないのか。それともまだ、いるのか? エレベーターが開くとそこに……重たげに開いた昇降機の扉の内側には、もちろん何もありはしない。エレベーターに乗り込み、三階のボタンを押す。指先が震えている。そう、いつだって――と女は思い出す。夜の雨。暗闇の水。この二つの組み合わせがいつも自分を不安にさせる。闇だけではない。水だけでもない。今夜はたまたま、あの男のせいで忘れていたに過ぎないのだ。


 エレベーターを降りても、妄想の気配は消えてはくれない。それとも新たに湧くのだろうか。小さな足音が混じる気がしてならなかった。違う。薄暗い三階の廊下に響く、自分の足音が木霊しているだけだ。誰かではない。何もいない。自分の部屋の前。玄関扉の把手を掴んだ。キーを差し込み、回して、ドアを開き、逃げ込んだ。


 扉が閉まり、廊下から洩れる灯りが途切れる寸前で、室内灯のスイッチを押した。昼光色のライトに全身を照らされる。雨音が遠い。恐怖も自然と薄らいでゆく。変わりに女の体を襲ったのは、部屋に籠もった熱気だった。外のほうがまだ涼しいと感じるほどに、部屋の中は暑く蒸している。


 エアコンをすぐに点けようとパンプスを脱ぎかけて、女の動きが止まる。衣服から雨水が絞られて、三和土に埃交じりの水溜まりが出来た。これでは部屋まで水浸しにしてしまう。洗面所に直行するしかない。


 脱ごうと指をかけたパンプスは、このまま捨てたほうがマシに思えるほど泥にまみれている。合皮と足との隙間から入り込んだ水は糊のようで、靴の内側をストッキングに張り付けている。無理やり踵から靴を引きはがすと空気が入り込んだ。豚の鳴声か、放屁にも似た無様な音で足が啼いた。おまけにストッキングが踵から裂けてしまう。ささくれた指の爪に薄布が引っかかる。嗄れた声で女は呻いた。


「あーっ……くっそ……サイアクなんだけど」


 悪態をつきながら残した片方の靴も脱ぎ捨て、廊下の数歩先にある洗面所の入口前まで大股で飛び歩く。扉を開けて中へ飛び込んだ。暗い小部屋に明かりを灯すと洗面台の鏡には、都市伝説に出てきそうな〝妖怪なんとか女〟とでも呼びたくなる姿が映っている。惨めな自分と目が合った。


 柔らかで艶のある肩口ほどの黒髪であるのに、今は浜辺に打ち捨てられた海藻を拾って頭に被っているようだった。しかし、あれほど強く雨に打たれたにもかかわらず、化粧は思いのほか頑健だ。目の下に黒ずみが濃く増しているほかは、素顔を良く隠している。素朴な妻とは異なる、濃い化粧を施すことをあの男が好んだことの、これは怪我の功名なのかもしれない。だが、夜の商売女のごとき顔を作るなど、もう必要なくなった。


 ブラウスを剥ぎ取り、スカートを摺りおろし、ドラム式の洗濯槽に叩きこむ。伝線したストッキングはそのままゴミ箱行き。薄桃色に揃えた上下の下着も脱ぎ去って丸裸になった。鏡に映る裸身は、白い肌に浮いた汗が明かりを弾いて艶めき、首筋から上は欲情したように上気している。すべて暑さのせいなのに。それともまだ肝臓で代謝し切れないアルコールの効果なのか。自分を見つめる自分の顔には、雨では流しきれなかった男への未練がこびりついたままだった。鏡の女の唇が女に囁く。


「子供ができたからって……今更そんな理由で……」


 呟きながら、洗面台の脇に置いたハンドバッグに目を落とす。中でうなだれているだろう封筒入りの札束を思う。金の力、男の力。精を放ってだらしなく萎れているに違いない。妻とは別れるつもりだと言っていた気がする。子供が好きなんだと聞いた覚えもある。だのになぜ? 女は平らな下腹を撫でながら、男の言葉をあやふやに思い出す。四十にして得た我が子はさほどに可愛いものなのか。綺麗な水を浴びて、今度こそ何もかも流し去ろう。


「はあ……」と大きく、嗄れた声でため息を漏らして。戸棚に置いたクレンジングオイルと洗顔料をひっ掴み、浴室へ入った。給湯器のスイッチを入れる。三四度の湯。蓮口から吹き出すシャワーの湯は、待つ間もなく温かい。水道管が陽光に暖められていたせいだろう。清潔な人工の水は、天がもたらす自然の濁り水とはまるで違って、やさしく肌を撫でてくる。両手の指で髪を梳くたびに、積年の穢れが剥がれ落ちていくのを感じた。今度こそ、男の匂いも皮脂の名残も何もかも、雨の汚れと共に排水溝の彼方へと流し去ることができる。クレンジングオイルをてのひらに三プッシュ。労りを込めて優しく顔に塗り広げ、仮面をはぎとる準備をする。目を閉じ、瞼の周りのメイクを念入りに落とそうとして……背筋が粟立った。


 ――だれか、いる? 誰か私を、じっと見ている……。


 目を閉じれば、そこは闇だ。狭い風呂場はとたんに闇の水で溢れてしまう。湿った小部屋を隔てる曇ったガラス扉の向こうに、小さな人の気配が浮かぶ。そんなはずはない。私は独りだ。男は去り、心の支えも既に無い。ただ寂しさがもたらすだけの、これは錯覚。想うから感じるのだ。違う、ちがう、これはちがう……。


 なのに、また、聞こえた。幼い頃に聞いた祖母の言葉が、また聞こえてきた。


「闇の水に触れてはいけないよ。お化けさんが憑いているから」――二十代も半ばを過ぎているのに、そんな俗信をまだ心に留めるのか。自分に言い聞かせても、不穏な気持ちは消えてくれない。湯を流したままのシャワーヘッドを手探りで取り上げて、顔を目掛けて湯を廻しかける。化粧を巻き込んで乳化したオイルを、空いた片手の指先で静かに瞼から流し、薄く片目を開けた。光が戻る。不安が遠のく。小さな気配も、消えてしまう。


「もう……おばあちゃんのせいだ。私がこんな怖がりになったの……」


 ため息交じりにボディソープのボトルに手を伸ばし、白濁したせっけん液を取る。両の手のひらで泡立てる。首筋に湧いた鳥肌を手のひらの泡で包み撫で、汚れと共に押し流していく。そのまま全身くまなく洗いながら――女は祖母のことを考えた。別れた男ではなく、祖母の言葉を。おばあちゃんは他に、何を教えてくれたっけ……。


 夜は井戸に行ってはいけない――いや、井戸何てどこにも無い。夜の水汲みには気をつけなさい――そう言われて、せめて明かりは用意する癖がついた。手を洗ってタオルを使わず水を振り切ったら、ひどく叱られたことがある。行儀の悪さを咎められたのではない。手振り水がかかると人は死ぬからと、戒められたのだ。


 全部、お前のためなんだよ。お前はばあちゃんに似て、お化けさんを寄せやすいようだからね……水の扱いには気をつけなさい。夜の水には、特にね。お前が子を産めるようになるころに、大事なことをもっと教えてあげるからね――


 恐怖の源であったと思うが、父方の祖母は温かくもあった。幼い我が子に迷信を吹き込む姑を、母はひどく毛嫌いしていたように覚えている。ただ、都会育ちの母と田舎者の義母との相性が悪かっただけかもしれない。祖母からは、息子の妻へも優しく接していたようなのに。


 中学生になるころ父が流行り病で亡くなり、それきり祖母の家とは疎遠になった。だから結局、〝大事なこと〟とやらはひとつも教えられていない。母は再婚せず、よく働き娘を良く育てたが、女が大学を卒業するころ亡くなった。就職し、誘われるまま上司の男に身体を預ける日常となって数年が経つが、それも今夜でお終いだ――


 考え事をするうちに身体の隅々から汚れは落とされ、髪もすっかり洗いあげた。蛇口レバーを閉め湯を止める。流した汗と共に酒精も抜けたのか、身体は軽い。風呂場の鏡に映るすっぴんの頬はほんのりと桜色に染まり、雄を知らない少女であった頃を想わせた。化粧次第ではまだ、二十歳と言っても通りそうだと自賛する。新しい彼氏を作ろうか、それともその前に、転職かな……。


 濡れた髪を軽く絞り、浴室を出た。洗面台に置き去りにしていたハンドバッグが目に入り、せっかくの気が悪くなる。男に買わせた鞄は、捨てたところで惜しくない。しかし、中身は役に立つ。水を含んだ札束入りの封筒は、金額以上に重たい。慎重に中身だけを取り出して、ハンドタオルにくるんで上から押し、軽く水気を絞る。明かりに空の封筒をかざし、一枚も取り残していないかを確かめた。スマホは防水で無事、化粧道具はポーチごと全滅、サイフも買い替えか。他は……ああ、もう面倒――と、大事なものだけを取り出して並べ、残りは鞄ごとシンクの中へと放った。


 シャワーで身を清めたばかりなのに、また汚してしまった手を洗い直す。誰もいないから手振りで水を切り、バスタオルを取り上げて全身の水気を吸わせる。髪には軽くコームを通し、頭だけを新たなタオルで包みこむ。どうせ見る者もいないのだ。裸のままで女はスマホだけを手にし、洗面所を後にした。髪の手入れはエアコンを点けてからにしよう。それにすっかり、喉が渇いた。


 暗いリビングの奥、窓辺の外はカーテン越しでも分かるほどに、まだ雨は強いままらしい。ときおり激しく風が吹き、箱に小豆を撒くような音で窓をかき鳴らす。雷もいまだ激しく、瞬間外が眩しく光るや天を破って雷鳴が轟く。幾度もそれを繰り返し、幾度も地を穿つ音が近くに聞こえる。室内灯とともに、冷房のスイッチを入れる。部屋が冷えるのには、だいぶ時間がかかりそうだ。


 身体を内から冷やし渇きを癒そうと、女はキッチンへ足を向けた。冷蔵庫を開けようと手を伸ばす。扉の把手に指先が触れようとしたとき、冷蔵庫を覆うアクリルの化粧板がまばゆく輝いた。暗がりに突然訪れた真昼に似た眩しさに、一瞬目を閉じる。瞼を開けたとたん、マンションを揺るがすほどの巨大な破裂音が響いて、女の身を震せた。そして――全ての灯かりが、消えたのだった。

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