第2章 雪に閉ざされた合宿所

 月曜日の朝、東京は厚い雲に覆われていた。


 ネクサス・リアリティ社の玄関前に、陽一は少し早めに到着した。すでに美咲が来ていて、スケッチブックに何かを描いていた。


「おはよう」


 陽一が声をかけると、美咲は顔を上げた。


「あ、おはよう。陽一君」


 いつの間にか、敬語ではなくなっていた。一週間の間に何度かメールのやり取りをして、自然と距離が縮まっていた。


「何を描いてるの?」


「空の色。この灰色、VRでは表現できない微妙な色だと思って」


 美咲のスケッチブックには、絵の具を使わずに鉛筆だけで描かれた空があった。濃淡だけで表現された雲の重さが、不思議とリアルに感じられる。


「すごいね。写真より本物っぽい」


「ありがとう。でも西川さんなら、これよりもっと完璧な空をVRで作れるんでしょうね」


 その時、大型のワゴン車が到着した。運転席から西川が降りてくる。


「おはようございます。早いですね」


 西川は相変わらず疲れた顔をしていたが、どこか高揚感も漂わせていた。


 続々とメンバーが集まってきた。山田は大きなリュックを背負い、お菓子の袋を抱えている。


「三日間の食料っす!」


「食事は用意してあるって言ったでしょう」


 田中が呆れたように言った。


「非常食は大事だって、昔から決まってるんです」


 山田の言葉に、松本が複雑な表情を見せた。


「山田君、前のことは...」


「大丈夫っす!もう立ち直ってますから」


 山田は明るく答えたが、その笑顔がどこか無理をしているように見えた。


 林香織は、建築の専門書を抱えていた。


「合宿所の構造に興味があって。昭和の建築様式を勉強したくて」


「仕事熱心だね」


 美咲が感心したように言った。


「いえ、ただの趣味です」


 全員が揃い、ワゴン車に乗り込んだ。陽一と美咲は自然と隣同士に座った。


 車が都心を離れ、高速道路に入る。次第に景色が変わっていく。ビルが低くなり、緑が増え、やがて山が見えてきた。


「天気が心配だな」


 田中が窓の外を見ながら呟いた。


「天気予報では雪の可能性があるって言ってましたね」


 林が補足した。


「雪かあ。風情があっていいじゃん」


 山田は相変わらず楽天的だ。


 三時間後、ワゴン車は山道を登っていた。道は次第に狭くなり、周囲の木々が車体に触れそうなほど迫ってくる。


「もう少しで到着です」


 西川がバックミラー越しに言った。


 その時、美咲が陽一の袖を引いた。


「ねえ、見て」


 美咲が指差した先に、古い看板があった。『私立療養所』という文字がかすかに読める。


「療養所?」


「この辺り、昔は療養所があったみたい。でも、今は廃墟らしい」


 西川が説明した。


「会社の合宿所も、元は療養所の関連施設だったそうです」


 なぜか、その言葉に陽一は不安を感じた。


 やがて、合宿所が見えてきた。


 二階建ての古い木造建築。昭和の香りが漂う佇まい。周囲は深い森に囲まれ、最寄りの民家まで数キロはありそうだ。


「うわ、古い建物だね」


 陽一が呟いた。


「昭和の香りがしますね。でも、構造はしっかりしてそう」


 林が建物を観察しながら言った。


「中は改装してあるから、設備は最新ですよ」


 西川が鍵を開けた。



 玄関を入ると、意外にも内装は綺麗だった。床は磨かれ、壁も塗り直されている。ただ、どこか違和感があった。新しい内装と古い構造のギャップが、奇妙な雰囲気を醸し出している。


「二階が寝室、一階に食堂とVR体験室があります」


 西川が案内を始めた。


 VR体験室は、合宿所の中でも特に異質な空間だった。最新のVR機器がずらりと並び、壁一面にモニターが設置されている。まるでSF映画のセットのようだ。


「すげー!これ全部最新機種じゃん」


 山田が興奮した声を上げた。


「予算の半分をここに使いました」


 松本が苦笑いを浮かべた。


「さっそくセットアップを始めましょう」


 田中がサウンドシステムの配線を始めた。


 陽一は美咲と一緒に二階の部屋を確認しに行った。部屋は全部で六つ。それぞれに簡素なベッドと机がある。


「なんか、本当に療養所みたい」


 美咲が呟いた。


「どういうこと?」


「部屋の配置とか、窓の位置とか。患者を監視しやすい構造になってる」


 美咲の観察眼は、建築にも及ぶらしい。


「でも、おかしいな」


 林が廊下の突き当たりで立ち止まった。


「どうしたの?」


「この壁の向こう、空間があるはずなんです」


 林は壁をコンコンと叩いた。確かに、音が微妙に違う。


「隠し部屋?」


 陽一が尋ねた。


「分からないけど...後で詳しく調べてみます」


 一階に戻ると、西川が全員を集めていた。


「今日の予定を説明します。午後はVR機器のセットアップとキャリブレーション。夕方から最初のテストプレイを行います」


「キャリブレーション?」


 山田が首を傾げた。


「簡単に言うと、君の脳の癖を機械に覚えさせるんだ」


 田中が分かりやすく説明した。


「怖がる時の脳の動き、楽しい時の脳の動き、それを全部記録する」


「なんか、心の中を覗かれるみたいで嫌っすね」


 山田の冗談に、誰も笑わなかった。



 午後、VR体験室でキャリブレーションが始まった。


 一人ずつ順番にVRヘッドセットを装着し、基本的な反応をテストしていく。陽一の番が来た時、西川が特別な指示を出した。


「佐藤君は、特に詳細なデータを取りたい。前回の体験で興味深い反応を示したから」


 ヘッドセットを装着すると、シンプルな空間が広がった。白い部屋に、様々なオブジェクトが現れては消える。花、蝶、蜘蛛、ナイフ...それぞれに対する脳波の反応を記録しているらしい。


 その中で、一つだけ強い反応を示したものがあった。


 鏡だ。


 鏡に映った自分の顔。しかし、よく見ると微妙に違う。表情が、自分の意志とは関係なく変化している。


「面白いデータが取れました」


 西川が満足そうに言った。


「佐藤君は、自己認識に関する恐怖が強いようだ」


 次は美咲の番だった。彼女の反応は、また違った特徴を示した。


「美咲さんは、創造性に関する恐怖が強い。オリジナリティの喪失、個性の消失...」


 西川の分析を聞きながら、陽一は思った。このシステムは、人の心の奥底を覗き見ているようだ。それは、本当に大丈夫なのだろうか。


 夕方、窓の外を見ると、雪が降り始めていた。


「やばい、本当に雪だ」


 田中が心配そうに言った。


「大丈夫でしょう。ちょっとくらいの雪なら」


 山田は楽観的だったが、雪は次第に激しくなっていった。


 夕食は、西川が用意していた食材で簡単な鍋を作った。全員で食卓を囲むと、不思議と和やかな雰囲気になった。


「こういうの、大学のサークル合宿みたいで楽しいっすね」


 山田がビールを飲みながら言った。


「山田君は、お酒は控えめにね」


 松本が注意した。その言葉に、また山田が複雑な表情を見せた。


「松本さん、山田さんに何かあったんですか?」


 美咲が単刀直入に尋ねた。


 一瞬、場が凍りついた。


「いや、その...」


 松本が言いよどむ。


「いいっすよ、話しても」


 山田が苦笑いを浮かべた。


「実は俺、二年前にゲーム依存で会社クビになったことがあって。その時、恋人にも逃げられて...まあ、どん底だったんすよ」


 陽一は驚いた。山田の明るさの裏に、そんな過去があったとは。


「松本さんが拾ってくれたんです。『VRの仕事なら、ゲーム好きが活きる』って」


「でも、また依存症になる危険は...」


 美咲が心配そうに言った。


「大丈夫。もう懲りました。それに...」


 山田はビールを置いた。


「完璧なゲームより、バグがある方が面白いって気づいたんで」


 その言葉に、陽一は何か重要なものを感じた。



 夕食後、『Liminal Space』の本格的なテストが始まった。


 最初は山田がプレイした。モニターに映し出される映像は、巨大なゲームセンターだった。無数のゲーム機が並び、全てが最新作。しかし、プレイしようとすると、画面が真っ黒になる。


「これ、俺の恐怖?」


 山田の声が震えていた。


「ゲームができない恐怖...いや、ゲームに拒絶される恐怖か」


 次は田中だった。彼の恐怖は、無音の世界。音が存在しない空間で、口を開いても声が出ない。サウンドデザイナーとしての恐怖が如実に表れていた。


 林の番では、歪んだ建築物が現れた。物理法則を無視した構造物が次々と崩壊していく。


「気持ち悪い...」


 林は十分で限界に達した。


 松本は最初、参加を渋っていた。


「私はプロデューサーだ。プレイする必要はない」


「データは多い方がいいです」


 西川が説得し、しぶしぶヘッドセットを装着した。


 画面に映し出されたのは、家族の写真だった。しかし、顔が全てぼやけている。次第に写真が燃え始め、灰になっていく。


「やめろ!」


 松本が叫んだ。西川がすぐにシステムを停止した。


「すみません...ちょっと...」


 松本は部屋を出て行った。


「松本さん、大丈夫かな」


 美咲が心配そうに言った。


「過去に、家族をVR事故で亡くしてるらしい」


 田中が小声で説明した。


「息子さんが、VRゲーム中に発作を起こして...」


 重い沈黙が流れた。


 その時、突然照明が消えた。


「停電?」


 陽一が立ち上がった。


 数秒後、非常用電源が作動し、薄暗い明かりが点いた。


「雪で電線が切れたのかも」


 西川が窓の外を確認した。雪は吹雪になっていた。


「バックアップ電源はどのくらい持ちますか?」


 田中が尋ねた。


「VR機器優先で回せば、二日は大丈夫です。ただ、暖房や他の電気は最小限にする必要があります」


 その時、VR機器が突然起動した。誰も操作していないのに、全てのヘッドセットのライトが点灯する。


 モニターに文字が表示された。


『Welcome to Liminal Space』


 続いて、別の文字が現れる。


『The boundary is dissolving』


 境界線が溶けている——その言葉に、陽一は強い不安を感じた。


「システムエラーか?」


 西川が慌ててキーボードを操作するが、反応がない。


 そして、全ての機器が一斉にシャットダウンした。


 再び暗闇。


 美咲が陽一の腕を掴んだ。その手が震えている。


「大丈夫」


 陽一は美咲の手を握り返した。


 非常灯が再点灯した時、西川の顔は青ざめていた。


「今のは...予定にないプログラムだ」

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