第40話
「は、は、はじめまして。奥様!」
彼女は直立したまま、おおよそ教育を受けた貴族令嬢とは思えない、大きな声で挨拶した。
それから、ぶんと音がするのではないかというほどに勢いよく腰を折って頭を下げた。
デジャヴ。
それはそうだろう。彼女は正真正銘、ヘレンである。クリスフォードが見いだし愛を移した、妾のヘレンである。
だが、いま目の前にいるヘレンはヘレンであってヘレンではない。彼女は、春に学園を卒業したばかりの子爵家の令嬢である。
ヒルデガルドは、自分が道を変えたことで、愛し合う二人が今世で出会えなかったことを悟った。
何故なら今のクリスフォードは帝国にいる。
大変なことをしてしまった。
巡り会う二人を意図せず引き離してしまった。
そうだ、記憶の通りなら、前の生でもヘレンは学園を卒業して直ぐにクリスフォードの妾となっていた。
今から帝国にいるクリスフォードに文を出そうか。いやいっそのこと、この目の前にいるご令嬢を帝国に送り込んだほうが早いだろうか。
ついそんな、あり得ないことを考えてしまう。
柔らかな金色の髪、榛色の瞳。
初めて会ったあの日のヘレンを思い出す。別宅の庭にいて、金の髪をお日様に照らされ、瞳を大きく見開きヒルデガルドを見つめたヘレン。
学園を出たばかりで妾にされて、彼女はまだあどけない顔をしていた。
そのあどけなさをそのままに、目の前に頬をほんのり染めるヘレンがいる。
どうしてここにいるのだろう。
いや、それなら自分が一番よく知っている。彼女はローレンの侍女として雇い入れることになっており、今日がその面談の日だった。
ローレンには以前からヘレンという名の侍女がいたのだが、彼女がこの度嫁ぐことが決まって職を辞することとなった。
それで家政紹介所から次の侍女にと紹介されたのがヘレンだった。
ローレンが、
「ヘレン?おんなじ名だね。新しく憶えなくても済むからこの子で良いよ」
なんて言ったものだから、またヘレンかとは思ったものの、ヒルデガルドはそのまま承知したのである。
今の暮らしにすっかり馴染んで、この世界にも嘗てのヘレンがいることをすっかり失念していた。
「貴女、ルディア先生のお孫さんだったのね」
「はい。祖父をご存知で?」
「ええ、私も夫も、先生からご教授頂いていたから」
ヘレンは、貴族学園の教師の孫娘だった。
前の生で気づかなかったのは、彼が「領地経営科」の教師だったからだろう。当時のヒルデガルドは「一般科」で学んでいた。
「こちらへの侍女のお話の前に、祖父は私に妾の話を持ち出しておりまして⋯⋯」
「え?ちょっと待って。孫娘を妾にですって?」
「はい、そのぅ、我が家は土地なしの貴族です。昨年の冬に父が身体を壊して文官を辞したものですから、それで⋯⋯」
ヘレンは家が経済的に苦しかったと、以前もそう言っていた。だから母親と一緒に庭仕事もしていたから得意なのだと、そう言ったのは、まだこんなあどけなさの残る年頃だったと記憶する。
「祖父も教職を退職しましたし、我が家は女ばかりの三姉妹です。姉の夫も文官で、私は三女で婚約者もおりません。生家が経済的に苦しいのは本当です。ですが、父も母も妾なんて考えておりませんでしたのに、祖父が当てがあると言いまして」
「当て?」
「侯爵家に教え子がいるからと」
「待って頂戴。それって⋯⋯」
ばくばくと鼓動が胸を打つ。
領地経営科に学んだ侯爵家の令息。
「真逆、その侯爵家って、ロングフォール侯爵家?」
「え?ええ。ご当主のアレン様でして」
「アレン様⋯⋯」
アレンとは、クリスフォードの弟である。彼は今世では、クリスフォードに代わって侯爵家を継いでいる。
ヒルデガルドはへなへなと肩の力が抜けるような気がした。
「アレン様には、その、妾の話をしたの?」
「ええ。困っているから助けてはくれないかと頼んだそうです。祖父は教師としては慕われていたようですから」
それはヒルデガルドもよくわかる。ヒルデガルドも彼には世話になった。
クリスフォードは今世では、一年間だけ彼に学んでいたが、二学年から「一般科」に移っている。
弟のアレンもまた「領地経営科」で学んでいたから、ヘレンの祖父に教授されていたのだろう。
「駄目なら、何処かの後妻を探さねばならないと言ったようで⋯⋯」
ああ、旦那様。貴方ったら。
ヒルデガルドは、ヘレンの言葉に思わず目を瞑ってしまった。
長い間、思い込んでいたことが、事実とは違うことに気がついた。
貴方、過去世でヘレンを恩師に頼まれたのね。わけのわからない家に後妻に入れられるかもしれないヘレンの身請けを引き受けたのね。
言ってくれたら良かったのに。
妾でなくても、幾らでも方法はあったのに。
そこでヒルデガルドは思い至った。
クリスフォードが妾を得たのは、ヒルデガルドと結婚して四年が過ぎた頃だった。
当時は、いつまでも子を成せないヒルデガルドへの風当たりが強くなっていた。
一人面倒な親族がいたのである。
ヒルデガルドは度々、彼に離縁して身を引くべきだと詰られていた。それでヒルデガルドも流石に悩み、湯治場へ長逗留をしたのも、食事を変えたりしたのもその頃である。
旦那様、貴方まさか。
ヘレンを妾に迎えることで、クリスフォードは離縁をせずに、
そしてもう一つは、純朴なヘレンを憎からず思えたのだろう。あのクリスフォードのことだ、誰かが世話をしなければならないなら、自分がしてやろうだなんて思ったのかしら。
身体のこともヘレンのことも、何もかも打ち明けて、ヒルデガルドに預けてくれたなら、二人で同じ悩みを分けあって生きていけたのに。
とっくに終わった人生は、今更知ったとしてもどうにもできない。
そしてクリスフォードを責められないのは、ヒルデガルドもまた、なんの責任も負わない根無し草のようなヘレンを、最初から最後まで嫌いになれなかったのである。
ヘレンとは、確かにそんな女性だった。
「アレン様に断られて、家政紹介所を頼んだの?」
「ええ。アレン様はお子様もおいでで後継には困っていないと。学園で学を得たのだから、侍女かガヴァネスになることを勧めると言われたそうで」
「当たり前よ。妾なんてならずとも、貴女なら何処かに縁づいて、愛される夫人になれたはずよ」
「え?」
しまった。つい前の記憶と混同してしまった。
「祖父は本気で後妻を探すつもりはないのです」
「それはどういうこと?」
「ロングフォール侯爵家のご子息だから、頼みにしたのだと思います。きっと私を無下になさらないだろうと」
ヒルデガルドは、その気持ちが理解できるような気がした。
「お祖父様は多分、ご長男のクリスフォード様に頼みたかったのね。あの方ならきっと、引き受けたでしょう。けれど彼は今、帝国にいるから」
クリスフォードが帝国に渡ったのは彼の選択である。それで結局、この生でヘレンと交わる道は開かなかった。
人生とは、やり直したからと全てが前と同じ道を辿るとは限らない。
結果で言うなら、ヘレンはローレンと生きることになった。侍女となったヘレンは、ローレンに心を砕いて仕えてくれた。
後ろ暗いものを持たないヘレンは、ローレンに温かな感情を呼び起こさせて、いつしか二人は心を通わせるようになる。
当たり前の寿命を生きることが難しいのを知りながら、ヘレンはローレンに深い愛情を傾けてくれた。ローレンもまた、彼女を大切に愛した。
ヘレンとはきっと、どの時代にいたとしても出会う人を心から愛するのだろう。
二人の愛情が深く育って、ローレンの短い人生にヘレンが寄り添うと言ってくれる頃、クリスフォードが帝国から帰国する。
ローレンに合う治療法を紹介したことで専属医になってくれるのだが、彼はローレンには子が望めないことをヒルデガルドに告げた。
「それはきっと、ローレンが一番わかっていることだわ。それでも二人が一緒になりたいのなら、私にできることはなんでもするわ」
そう言ったヒルデガルドに、
「ローレンの気持ちなら、私にも理解できるかな。ヒルデガルド。私にはきっと子が成せない」
クリスフォードはそう言って、自身の身に起こった変化を打ち明けてくれたのである。
誰よりも目端が利いて立ち回りが上手くて、のらりくらり交わすのが得意だった前世の夫。
前世での彼の真意は結局わからず終いだったが、もう十分だと、ヒルデガルドはそう思えるようになっていた。
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