第37話
「大丈夫か?ヒルデガルド」
帰りの馬車で、アトレイはヒルデガルドを気づかうように言った。
「ええ、大丈夫よ。貴方が私の激昂を抑えてくれたから、お気に入りの扇もこの通り健在だわ」
ヒルデガルドは最近買ったばかりの扇を開いて、口元を隠してみせた。
「辞めてくれないか、それって君が人を牽制する時の仕草だろう。なんだか胸が痛くなってきた」
アトレイが眉を
「お辞め下さいませ、お嬢様。アトレイ様がお泣きになってしまいます」
途端に、横に侍っていた侍女のルイーズに止められた。
「ええ?怖い?私、怖い?」
ヒルデガルドは、扇で口元を隠したまま同じポーズでルイーズを睨んで、斜め向かいの護衛のスティーブを睨んで、それから最後にアトレイを再び睨み倒した。
ルイーズとスティーブは苦笑いをしただけだったが、アトレイは本当に涙目になっていた。
「君にだけは嫌われたくないんだ。そんな顔を本気でされた時には、寝込んでしまうくらいは悩めそうだ」
ヒルデガルドはこれからも、こんなふうにアトレイと馬鹿なことを言いあって、学園でもしっかり学んで、自分で選んだ人生のために生きていこうと思う。
「ねえ、アトレイ」
「なんだい、ヒルデガルド。その前に、その扇を閉じてくれないか」
ピシャリと音を立てて扇を閉じると、アトレイは「勘弁してくれ」と情けない顔で言った。
アトレイを
「アトレイ。私、来年度から学科を変えるわ」
そう言えば、アトレイは小さく頷いた。
ヒルデガルドは伯爵家の後継者となった。そうであるなら、学園でも領地経営を学ぶほうが効率的だろう。
学園は、二年度に科の再選択が許されている。
「君が変えるなら、私もそうするよ」
アトレイなら、きっとそう言ってくれると思った。この人生では、もう一人で頑張らずともよいのだと、アトレイはそう思わせてくれる。
クリスフォードとは決別した。
左手の薬指には、あの長くヒルデガルドを侯爵夫人たらしめたサファイアの指輪はない。嘗てヒルデガルドが身につける青とは全て、クリスフォードの青い瞳の色だった。
これから身につける青とは、ヒルデガルドの翠がかった青い瞳である。
「ねえ、アトレイ」
アトレイは、ヒルデガルドの呼びかけにこちらを見つめる。
「貴方に、おねだりをしたいの」
「君がおねだり?私に?」
「そう。この指を飾る指輪を私に頂戴。貴方の瞳の色が欲しいの」
ヘレンに愛を移したクリスフォードに、操を立てるようにサファイアの指輪を嵌めていた。
それも彼の葬儀の日に、ヘレンに手渡すことができた。
クリスフォードはこの先で、ヘレンに出会えることを知らないから、あんなふうに刹那的な表情をしていたが、ヒルデガルドが道を変えたからには、彼の道も変わるだろう。
もうサファイアに囚われなくても済むのだ。
まだ何も嵌められていない指は白く、最後に見た黒い手袋を嵌めた手ではない。今度はここにアトレイの石を嵌めて生きていく。
「承知した。明日用意する」
「ええ?明日なんて急がなくても良いのよ、婚姻式の日でいいのよ」
「いいや、そうはいかない。君は知らないだろうが、君の指のサイズくらい私はずっと前から知っているんだ。石は私が生まれた時に祖母から贈られたものがある。アレを嵌めよう」
アレってどんな石なんだ?
アトレイが祖母と言ったのは、母方の前子爵のことだ。彼の生家は女腹で、代々女当主が立っている。
前当主から生誕祝いに贈られたというからには、ちっぽけな飾り石なんてものではない。祖母からの生前贈与に等しいだろう。
「今のは聞かなかったことにしてくれない?」
「それは無理な相談だな」
「そのぉ、大それたことをお願いしたいわけではなかったのよ。ちょっとその、いつも薬指を見ては、アトレイのことを思い出していたいなぁって、そう思ったのだけなの。ほら、貴方の色が指にあったら、貴方と一緒にいるような気持ちになれるじゃない?」
ヒルデガルドは若干早口でまくし立てたから、アトレイからの反応はなかった。早口過ぎて聞き流してしまったのだろう。
「アトレイ?」
あまりに応答がないために、ヒルデガルドは思わず身を乗り出して、向かいに座るアトレイの顔を覗き込んだ。
「大変。発熱してるわ、熱があるのよ、だって顔が真っ赤だわ」
病院へ馬車の行く先を変えてくれと騒ぐヒルデガルドを、ルイーズが止めた。
「お嬢様、ご安心くださいませ。アトレイ様はご病気ではございませんわ」
「ええ?こんなに真っ赤な顔をして?」
「ええ。大丈夫です。ほんの少しお待ちになれば、直ぐに元にお戻りになられます」
そうかしら、とヒルデガルドはアトレイをじっと見つめた。
「見ないでくれないか」
視線を合わせることは断られてしまった。
アトレイは、有言実行の男である。
それは、前の生でも知っていた。
ローレン亡き後の伯爵家を継いで、アトレイはヒルデガルドの生家のために励んでくれたのだが、それは彼がヒルデガルドの両親に、伯爵家の為に貢献すると誓った言葉通りだった。
「重そうだね、姉上」
「そんな大きくては、日常生活に支障が出るのではないか?」
ローレンと父に続けて言われて、ヒルデガルドもどう答えるものかと悩んだ。
有言実行男子のアトレイは、馬車の中で言った通り翌日には伯爵家に現れて、出迎えたヒルデガルドの前に
「手を」
言われるままに右手を出したヒルデガルドに、「左」と言い直したアトレイは、おずおずと差し出したヒルデガルドの左手をガシッと掴んで、徐ろに胸ポケットから裸の指輪を取り出した。
「ええ?アトレイ、それ何?真逆、指輪?ちょっと、」
ちょっと大きいぞ。
金具にどうやって嵌めたのか、大粒のシトリンはウズラの卵より大きかった。
アトレイはそれを、ガシッと掴んだヒルデガルドの左手の薬指に嵌め込んだ。
前日の言葉通り、サイズはぴったりだった。だが、石が大き過ぎて、第二関節まで隠れて見えない。中指と小指まで覆って可動に影響を与えている。
「アトレイ、これってお祖母様から贈られた貴方の個人財産よね。流石にそれは頂けないわ。私、そんなつもりではなかったの、ほんの小さな石でも貴方の石を、」
「馬鹿にしてもらっては困るな」
アトレイは、いまだヒルデガルドの左手をガシッと掴んだまま、跪いた姿勢でヒルデガルドを見上げて言った。
「小さい石でもだと?」
ええ?アトレイ怖いわ。目が変よ?
騒動を聞きつけて集まった両親もローレンも、アトレイの可怪しな行動に半ば気圧され半ば呆れて見ていた。
「甘く見てもらっては困るな。私の財産は君だけだ。後はなにも要らないんだ。祖母から貰ったこの石だって、君の指を飾って喜んでいる。ほら」
ほら、と言ってアトレイはヒルデガルドの左手を少し上に持ち上げて見せた。
「アトレイ、どうしちゃったんだろうね」
ローレンが父に言った声が意外と大きくて、玄関ホールに響いて聞こえた。
同感だわと、ヒルデガルドも思った。
こうしてヒルデガルドは、婚姻前には婚約者から指輪を贈られた。
ウズラの卵より大きく重く、中指・薬指・小指の三本指の可動域に影響を及ぼす大粒の結婚指輪は、ご令嬢の間で「ウズラの愛の証」と名をつけられて、密かなブームを呼んだとか呼ばなかったとか。
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