第35話

「本日お招きいただきましたのは、どんな理由で?」


 かしこまらなくて良いと言ったのはクリスフォードであるから、ヒルデガルドは遠慮するのは辞めにした。

 長い口上めいた挨拶は抜きにして、単刀直入に尋ねてみた。


「うん。二人の婚約をほどいてもらおうかと思ってね」

「馬鹿を言うな」


 秒で反応したのはアトレイだった。

 同じ年の学生同士とはいえ、相手は侯爵家の嫡男である。子爵家次男坊では不敬が過ぎる。


 だが、クリスフォードはそんなアトレイにもにやりと笑みを見せた。この余裕ぶった表情は、クリスフォードの専売特許である。妻であったヒルデガルドでも、彼が本心から狼狽えるような顔を見たことは数えるほどしかない。


 そんなことより。


 クリスフォードは一体何を言っているのだ。爵位が上だろうが下だろうが関係ない。それを言うなら、ここにいる三人とも爵位なんてものは持っていない。飽くまでも子息子女として養育されている身である。


 百歩譲って爵位があろうと、一度結ばれた婚約を壊すだなんてことは法度である。

 本当にそんなことを望むなら、内々で密かに手を回し、縁談を壊してしまうだろう。


 今のクリスフォードにその力があるかはわからないが、少なくとも彼は、批判の的になることを承知の上で、この馬鹿げた発言をしたようだった。


「ヒルデガルドとの婚約は、既に国にも届けている」

「知ってるよ」

「では、これ以上話す必要はないだろう。さあ、ヒルデガルド、帰ろう」


 アトレイは血気盛んな質ではない。だが今は、冷静に見えるのは表だけで、内心は怒りまくっていることが抑えた声音でよくわかった。自身の無礼な行いがヒルデガルドの傷にならないよう、それだけがアトレイを押しとどめている。


「まあ、座ってくれないかな、アトレイ」

「ええ?」


 行き成りアトレイを呼び捨てにしたクリスフォードに、ヒルデガルドは驚いた。


 アトレイは立ち上がってヒルデガルドの腕を取るところだったのを、「は?」と言って静止した。


 静止もするだろう。二人は多分、初対面のはずだ。


「えーと、お二人は知り合い?」

「そんなわけあるか。関わり合いたくないと思うくらいには他人だ」


 アトレイの即答に、ヒルデガルドも納得した。


「いいじゃないか、私たちは学友だよ?名呼びなんて当たり前だろう」

「へえ。じゃあ、クリスフォード」


 戦闘モードのアトレイは一歩も引かない。


「寝言は寝て言え。ヒルデガルドは私の婚約者だ。お前には渡さない」


 爵位も遠慮も遥か彼方に投げやったアトレイは、やけくそなのかと思うほどである。


「は。寝言なんかではないよ。元々ヒルデガルドとの縁談は、私のほうが先に申し込んでいた」


 ええ?ヒルデガルドまで呼び捨てされて、思わず声が出そうになる。

 だが、ヒルデガルドは頑張った。


「その縁談、お断りしていたはずです」

「ああ、そうだね」

「では、」「だが、それはローレンのためだろう?」


 ええ?ローレンまで呼び捨てする?


 ヒルデガルドは怒るよりも困惑してしまった。何もかもが記憶の通りのクリスフォードだ。彼はいつだって、こんなふうにのらりくらり相手を追い詰めるのが上手かった。


「ローレンは関係ないわ」


 ヒルデガルドも遠慮をかなぐり捨てることにした。コイツには、真っ正面から本気で挑まねば負けてしまう。


 ヒルデガルドまで本気モードに入ったことを、クリスフォードは楽しんでいるように見えた。


「私は家を継ぐことになりました。そうして夫はアトレイです。彼以外あり得ない」


 アトレイが横で小さく「ヒルデガルド」と呟いた。


「それなら問題ないよ。君だってわかるだろう?嫁いだ夫人が生家の当主を兼任することは可能だと」


 クリスフォードの言うことは本当で、嫡男嫡女の婚姻に、稀に見られるケースである。どちらも家を継ぐ身である場合、妻が夫の家に嫁いだ身のまま生家の爵位を継承することは、全くないことではない。


 だが、それは止むを得ずという場合のことである。妻が生家の従属爵位を相続することとは訳が違う。


 そもそも、ヒルデガルドとアトレイの婚約は、一族総意のものである。そこに無関係の侯爵家が割り込むなんて、とんだ暴挙である。


「ローレンにヴィンセント先生を紹介したのは⋯⋯」

「ああ。下心満載だよ。恩を売っておきたかったし、ローレンをこちら側に誘いたかった。君のご両親がローレンを大切にしていると聞いたからね」


 手の内を隠すことのないクリスフォードに、ヒルデガルドは呆れてしまった。


「クリスフォード、貴方ったら⋯⋯」


 前の生と全く変わらない、クリスフォードそのものである。ヒルデガルドまで思わず、嘗ての呼び名で呼んでしまった。


 ヒルデガルドは思い出す。


『奥さん、すまないが妾を持つことにしたよ。子爵家のご令嬢だ。可愛いだよ』


 あの日も、クリスフォードは行き成りヒルデガルドに打ち明けた。打ち明けたなんてものではない。遠慮も後ろめたさも微塵も感じられなかった。


『君への気持ちは変わらない。それは本当だよ』


 そんな本当は要らないと思った。


『そんな顔をしないでくれないか。君を悲しませたいわけじゃない。君は何も悪くない。ただ、責めるなら私ひとりにしてくれないか。ご令嬢は無関係だ』


 妾になって無関係などあり得ないだろうに、それを承知の上でクリスフォードは馬鹿げたことを並べたのである。


 この男。前の生もそうであるが、今の生でも巫山戯ふざけたことをするつもりか?


「ヒルデガルド?」


 アトレイがヒルデガルドの変化に気づいて、思わずというふうに呼びかけてきた。


 ミシリミシリと手に持つ扇が音を立てる。ギュウっと握る手は、力が込もるあまり真っ白になっている。


「ヒルデガルド、落ち着くんだ。この阿呆をぶちのめしても良いことなんて一つもないぞ。その扇、買ったばかりのお気に入りだろう?折れちゃうぞ」


 怒り心頭のヒルデガルドがクリスフォードを扇で殴打しまくるのを察知したアトレイは流石である。


「そうだよ、ヒルデガルド。私を打っても君の得になることは何もないよ。こちらは君の暴挙の謝罪を受け取る代わりに、君らの婚約を解いてもらうからね」


「この、腹黒クリスフォードめ!」


 思わず口をついた暴言に、クリスフォードは堪らないと言うように笑い出した。


「あはははは」

「へ?」


 大笑いするクリスフォードに、ヒルデガルドはすっかり怒気を抜かれてしまった。


「クリスフォード様、お戯れが過ぎます」

「ああ、わかってるよエロイーズ」


 クリスフォードは、とうとう侍女にまでいさめられてしまった。




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