四肢五体ろくもん談話
目々
左腕の話を聞かせてよ
夢破れ当てが外れ焼きの回ったドラマーが、ドラムの代わりに怨嗟と怒気を込めて頭をどかどかと叩いている。
そんなどうしようもない頭痛で目覚めて、俺は乾いた目を瞬く。
一番最初に目に入ったのは銀色に煌めくレースの裾だった。
波打つ金髪。華やかなレースで飾られたドレスは紫がかった黒。滑らかな頬は冷やかに白く、見開かれた目は青く澄んでいる。
少女の人形だ。ビスク・ドールとかいうやつだろうか。着せ替え人形とこけしに市松人形しか知らない人間には細かいことはさっぱり分からない。
起き上がり、改めて周囲を見回す。
空缶のごろごろと転がるテーブル。畳まれずに山になっている洗濯物。本棚から引き出した本は戻されずに床に積まれている。典型的な男子大学生の一人暮らしの部屋。部屋の状態の是非はともかく、この情景にはあまりにも彼女が似合わないことだけは分かる。
どうしてこんなもんがあるんだと、俺はガラス玉の瞳をまじまじと覗き込む。
瞬間にぎろりと目が動いた。
俺は後ろに勢いよく倒れ込む。そのまま人形から距離を取ろうともがくように手足を動かせば、テーブルに足がぶつかり何かが崩れる派手な音がした。
「あんまり騒ぐと駄目なんじゃないのか。集合住宅だろ」
ひっくり返って何やってんの沼田、と円子先輩は部屋の入口に突っ立ったまま呆れたように笑った。
「円子先輩、せんぱい、これ」
「風呂のシャワーだけ借りたぞ。昨日酔い潰れたせいで入り損ねたからな。朝風呂」
「風呂っていうか──それどころじゃないでしょうこれ」
泣き声交じりで何ですかこれと縋るように投げた問いには人形だろという何の役にも立たない答えが返ってきた。
「そんなことから聞くっていうか、今更なんでビビってんだっていうか。昨日のこと覚えてないのお前?」
「覚えてないです。そもそも何であんた風呂入ってたんですか。ここ俺んちですよ」
「薄情だなあ……そこから覚えてないとかね、そういう人間がお外で酔っぱらってるといつか怪我するよ。大怪我」
昨日一緒に飲んだろとにやついた顔のまま、先輩は堂々と俺のベッドに腰を下ろした。
「素面のところは覚えてるだろ。金曜五限の授業が終わって、喫煙所で駄弁ってたら何となく飯でも食うかって話になって、駅前の繁華街でうろうろ店探して」
「ファミレス行ってから飲み屋に移ったのは覚えてますよ。そこ忘れてたら痴呆でしょう。一軒目で飲んで……一軒目で、俺どうやって金払ったんですか」
「ちゃんと財布出して払ってたよ。俺は飲み足りなかったから次行こうぜって行ったら、分かりましたっていい返事して店走って出てくんだもん。俺レシート貰ってたのに」
床の上に視線を向ければ、散乱した空き缶が窓から射し込む日射しにぎらりと光った。先程派手な音を立てたのはこれのせいだと理解して、この惨状を生んだ原因であろう昨晩の狼藉が思い出せないことに俺は愕然とする。
「二軒目でラスオダまで飲んで、お前がまだ飲みたい腹減ったって言うから、じゃあお前んちで持ち込んで飲もうぜって話になったんだよ。そんでコンビニ寄って、煙草吸って、分かんね」
「分かんねって」
「俺もその辺で記憶飛んだからなあ。どうやって帰ってきたのお前。多分俺酒飲みたさにここまで着いてきただけなんだよな」
その辺りのやりとりはうっすらとした記憶が奇跡的に残っている。酔いの回った心地よさと、梅雨らしくもない熱帯夜の生温さ。何もかもがもうどうでもよくなって、どうせ予定のない週末なら俺の家で倒れるまで飲もうという話になったのだ。
酒とつまみの詰まったビニール袋を一つずつ提げて、二人して酔っぱらったままの帰り道。いつもの帰路からうろうろと外れたがる先輩を追ってどこをどう歩いたのかは全く覚えていない。ほとんど夢遊病者じみた前後不覚の状態で、この
「酔っぱらってるうちに拾ったんですかね」
「じゃないの?」
「家入ったときとか覚えてないんですか」
「目覚めたら知らない部屋だってびっくりしたからな。そんで風呂入ったらお前が暴れてたわけで」
変なのお持ち帰りしたなと先輩が笑う。がさりと衣擦れの音がしたので、俺は人形をどうにか視界に入れないようにと先輩に視線を向けた。
「とりあえず──ヤバいでしょうあれ。捨ててくるか神社に任せるかしましょうよ」
先輩は人形にちらりと視線をやってから、すぐに俺の方へと向き直った。
「神社だと金取られるんじゃない? タダでやらねえだろああいう商売」
「宗教施設でしょう神社って。助けてくれないんですか一般市民を」
「お前それ病院で言ってみ。救急車だって乗れば金払うんだぞ」
正論のようなものを吐くくせに代案を出さない先輩を睨みつける。先輩はへらへらとした表情のまま、悠然とスマホを弄っている。
できれば金は使いたくない。けれども手元に置いておくにはあまりに分かり易くろくでもない代物だ。
「でもこれ良い品っぽいけどな。調べたらなんかよく似たのがすごい値段ついてる」
突き出されたスマホの画面を見る。数千円の柔らかな樹脂の手足とぺらぺらの生地の衣装を纏った着せ替え人形しか知らない人間には想像もつかなかったが、そんな人間でも驚くような出来の人形と予想もしなかった値段が表示されている。
俺は深呼吸をしてから、先輩に常識的な反論を試みた。
「そんなもんピンキリでしょう。ブランド品とかじゃないんですか高値のやつは」
「まあねえ。けどな、普通のでもそこそこの値段ついてんだよ。そもそも元手ゼロって考えたら、いくらでも儲けが出るってことになるんじゃね?」
俺はもう一度人形を見る。当然のようにぎろりと青い目が動き、口の端が吊り上がって微かな牙らしきものが覗いた。ここまで明らかに異様な動きをしてくれると諦めもつく。気のせいだと逃げる余地すらない。
「金になるとしてもですよ。これ、このままだとどうにもできないでしょう。梱包できる気がしないですよ」
「そうだねえ。このままだと──」
先輩が突然に黙り込む。のそりとベッドから降りたかと思うと人形の側へと座り込み、神妙な顔をして人形の左手を握る。
そのまま五分ほど、人形も先輩もぴくりとも動かなかった。
人形はともかく先輩が動かないのは異常なことだろう。救急車を呼ぼうか、そうだとするなら119番に頭と体のどちらの不具合だと伝えるべきかを悩んでいるうちに先輩が深々と息を吐いてから背骨をばきばきと伸ばした。
「ちょっと聞きなさい」
「何をですか。大丈夫なんですか。救急車とか、」
「いいから」
先輩は一度だけほうと息をついてから話し始めた。
***
上級生の文系コースで、地学を選んでた。笑うときに口元を隠すのが癖で、左の目に泣きぼくろがあって──何がって彼女だよ。俺のじゃないさ。高校時代の知り合いでな、青春の不純異性交遊の日々を謳歌してた馬鹿の話だ。
そこそこいいとこの高校だったからな。面倒な地雷を避けて、派手なことと迂闊な真似をしなければ、まあ大概のことは通る。学生だもんな、彼女側の要求だってたかが知れてる。何かしてもちょっと連絡をマメに取ったり気ぃ使ったり、その程度でどうにかなるんだから楽なもんだ――そういうことをそいつは言ってたな。殴った方が世間のためのような気がしたけど、一応小学校からの付き合いだったから止めといた。聞く分には面白いしな、他人の色恋沙汰。悲惨なら尚更。
で、やることやりつつ高校生活を楽しんでたわけだけどな、彼女三年生だったんだよな。その年の冬、クリスマスデートのときだったか。彼女、指輪ほしいって言ってきたんだって。都会の大学に進学するってことで、色々と悩んでたんだと。遠恋でも自分は構わないけど、それで冷められたり飽きられたりするのが怖いとかそういうやつ。真面目な子だよな。馬鹿は進学ついでのどさくさでうやむやからの自然消滅狙いだったってのにさ。
ペアリングにはしなかった。
そうして受験やら卒業式やらを適当にかわしながら徐々に距離だけは取ってたんだから、なあ。とうとう上京の日にも理由をつけて見送りにも行かなかったんだからどうしようもない。
まあ、目論見通りになったわけだ。彼女も新生活に初めての都会だからな、田舎の後輩なんかにこだわらなくても楽しくて夢中になれるもんが山程見つかったんだろ。連絡も毎日から週一になって、月一になってから音沙汰なしになるまではすぐだったと。その頃には馬鹿は後輩の子に手出してたからな。本当にろくでもない。
で、梅雨の頃だったかね。昼飯そいつと教室で食ってて、最近どうよとか世間話を吹っかけた流れでよく分からんことを言い出した。
明け方近く、窓がぼんやり明るくなる頃。左手の薬指を握られる感触があって目が覚める。
身動きできずにいると、そのまま指を伝うように何かが走って、心臓が何度か痛む。脈打つたびに痛みが響いて、そうこうしていると背中が裂けるかというくらいの一撃がくる。息が詰まる。手先が痺れる。声も上げられないほどの痛みに動けずにいるうちに、窓の外で鳥が鳴き始める──それに気づくと、いつの間にか体が自由になっていて、痛みは跡形もなく消えている。
週二ぐらいでだけどもなんか病気かね、って言ってランチパック食ってた。病院行けよって返したような気がする。思い当たるし思いついたりはしたけど、とりあえず心臓痛いんなら医者の領分だろってその時の俺は思った。今でも多分同じこと言うな。
後は知らない。卒業するまで皆勤賞だったけどな、あいつ。今も元気なんじゃねえの。心臓痛いくらいじゃ中々死ねないよ、人間。
***
先輩はのろのろとベッドに這い上がって、ひどく長々と息を吐いてから俺を見た。
「どうだった?」
「どうだったっていうか、どうしたんですかいきなり変な話して」
「話せって言われたから」
「誰にですか」
先輩は黙ったまま視線を床に這わせる。人形は目を見張ったまま横たわり、静かに虚空を眺めていた。
「何かねえ、各部位に未練がくっついてる」
「は?」
「未練とか、心残りとか……全部別なんだよな。この人形集合住宅みたいなもんだよ。怨念の団地」
治安悪いなと先輩が笑った途端に人形の目がひっくり返るような勢いでぎろりと先輩を睨め上げた。
突然の先輩の奇行と胡散臭い発言にどう答えるべきかが分からずに黙っていると、先輩にぐいと腕を掴まれた。
「ちょっと触ってみ。ほっぺたのあたり」
「うわあ人肌っぽくあったかい」
「左腕触ってみ」
「……あ」
先程まで先輩が握っていたはずの左腕は、触れても陶器の冷たさを返してくるだけだった。
「さっき俺が妙な話したろ。あれで未練が晴れたっていうか、いなくなったっていうか、とりあえず左腕は退去済みみたいよ」
「何ですかそのカウンセラーとか交渉人みたいなやつ」
「なあ。俺傾聴の素質とかあんのかな」
臨床心理士目指しても良かったなと先輩が嘯いた。口調の軽さと起こっていることの非現実さに目眩を起こしそうになりながら、俺はまだ何事かを喋っている先輩の声にどうにか集中する。
「こだわりのパーツっていうかさ、各部位ごとに相応しい話をしてほしいみたいなんだよ。で、満足すると未練ごといなくなる。そういうことなんだよ」
何がそういうことなんだ。誰が言ってるんだ。そもそも未練ってなんなんだ。疑問は
とりあえずのろのろと首を振ってみせれば、先輩は少しだけ驚いたような顔で続けた。
「巡りが悪いな。つまりな、これを──お話を対応する各部分にやればさ、未練が消えるかもしれないわけよ。で、未練が消えても
いわくつきのいわくが消えてただの人形、そうしたら晴れて銭になるんじゃないかという先輩の言葉を俺は呆然としながら聞いていた。
「そんな──そんな寂しい年寄りのお話相手になった代わりにミネラルウォーターを売る、みたいなやり口でいいんですか」
「お前エグい方には理解が早いよな。でもそういうの需要あるから……実際触って分かったろ」
頬の生温さと右腕の冷やかな感触を思い出す。俺は恐る恐る、一番手っ取り早いであろう提案を口にした。
「そういうの全部ナシにして、黙って売っぱらったらだめですかね」
口にした瞬間人形の口ががばりと開いて俺は腰を抜かした。
「駄目っぽいね。祟られるよ多分」
迂闊なことを言うなよとたしなめるような声で先輩が言った。
「そもそもこういうのってさ、捨てても戻ってくるのが定番じゃん。じゃあ売っぱらっても戻ってきちゃうから、下手すりゃ商品未着で苦情来ると思うんだよな俺」
「何で嫌なことばっかり思いつくんですか」
「用意がいいんだよ。だから対策を考えようって話で……じゃあできることやってみようぜっていうだけのことよ」
「できることっていうのは今やったことですか」
「察しが良いな。えらいから花丸をあげよう」
先輩のうわごとを無視して考える。起きたことはことごとく異様だが単純だ。
人形には未練が宿っている。それに対して話を語って慰める。すると未練が消失する──現にきちんと右腕はただの人形になっていた──から、繰り返せばただの出来の良い人形が残る。そうすれば売るなり捨てるなり、手放すことが可能になる。
馬鹿げている。ふざけている。与太にしたってたちが悪い。
そう思って人形を見ると、透き通った双眸がぱちぱちとまばたきをしてみせた。気が遠くなった。
「どうにもできなくなったら神社に持ってこう。でもそれだって金かかるから、ぎりぎりまで頑張ってみよう」
頑張って高額臨時収入狙おうなという呑気な先輩の言葉に、俺は急速に何もかもが面倒になって、項垂れるように頷いた。
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