第8話「静寂の逃亡」
とある宿の中、ネモは体を横にしながら眠れずにいた。
――怖い。
暗闇に身を置いたような気分だった。魔王を倒したあの夜から、胸の奥にギザギザの棘が刺さったまま抜けないからだ。
あの姿を、化け物としての俺を、リーベに見せてしまった。
……あの笑顔が、次に見た時には恐怖に歪んでいたらどうしよう。罵倒が飛ぶかもしれない。石が投げられるかもしれない。
いや、きっとそうなる。
だから、そうなることに耐えきれなくて俺は臆病な心に身を任せて逃げ出してしまった。
今更ながら、後悔と猛烈な孤独が襲ってくる。
あの時、リーベに約束なんてするんじゃなかった。仲間にするんじゃなかった。
心を通わせるんじゃなかった。君に恋なんてしなければよかった。
……怖くなったんだ、人と親しくなることが。
裏切られるのが怖いんじゃない。失望されることでもない。
俺が――裏切るのが怖いんだ。
これまで何度も人を救った。血を流して、剣を振るって、誰よりも多く命を救ってきた自負がある。けれどその功績なんて、一度「魔物だ」と知られれば塵に変わる。
どれほど守っても、どれほど尽くしても、正体が露わになった瞬間、俺は「敵」になる。
……あぁ、考えるだけで息が詰まる。
その笑顔は、俺のせいでいつか壊れるんじゃないかって。この手が、誰かを傷つけるんじゃないかって。
所詮、俺は人間のふりをしているニセモノなんだ。
名前も、言葉も、心も――全部全部。
あの爺さんがくれた『ネモ』という人間の名前が、勇者と言う使命が、俺を人間に繋ぎ止めてくれていた。
でももう、その鎖も切れかけている。
もしリーベが……誰かに漏らしたら?
もし彼女が、あの日見た俺を人であることを否定してきたら?
その時、俺は……俺はもう……。
だから眠れない。
目を閉じれば、想像してしまう。
笑っていた人々の顔が次の瞬間、恐怖と嫌悪に変わって俺を指差す。剣を振り上げる兵士たち。罵声を浴びせる民衆。
そして――嘘つきと俺を糾弾するリーベ。
……嫌いなんだ。本当の自分が。
魔王を倒した今でさえ、胸を張れない。人を救ったはずなのに、俺の手はまだ汚らしい。この血と、この泥を、どうやって隠せばいい?
いっそ、このまま消えてしまえればいいのに。それでも、どこかで『人間でありたい』と叫んだ声が、このまま止まることを許してくれない。
――朝が来た。
眠れぬまま、酷く眩しい朝日の光が窓の隙間から差し込んでくるのをぼんやり眺めていた。
眠気はなかった。元々睡眠はあまり必要でないから、三日ほど不眠不休でも動ける。
でも、心臓は落ち着かない。脈が強く、手を胸に当ててやっと呼吸を整える。
(……朝が来なければいいのに)
そう思わずには思わずにはいられなかった。このまま終わって、思考を止めてしまいたい。
魔王を倒してなお、胸の内にあるのは達成感ではなく、絶望にも似た倦怠だった。だがそれ以上に、ネモが戸惑っていたのは――何も起きないこと、だった。
リーベは何も言わなかったらしい。
あの姿を見たはずなのに、噂も広まる様子もない。
人々はこれまで通り、「勇者ネモ」を讃え、笑顔で手を振り、子どもたちは木の棒を振りながらその名を叫んでいた。リーベと別れた数日間、ずっとそんな光景ばかりだった。
まるで、何もなかったかのように。
(どうして――?)
どうしてリーベは黙っているのか?それとも、言ったが誰も信じなかったのか?どちらにせよ、ネモの不安は消えることは無かった。
人は、わからないものを恐れる生き物だ。
ならば、あの真実を知ってなお沈黙を保つリーベは一体、何を思っているのだろう。
……考えたくもなかった。
あの瞳の奥に、自分への強い『何か』が潜んでいるのを知っていたからだ。
きっと、正体がバレていない今の内なのだろう。今回のことで、自分が人間のままで居られても、いつかきっとボロが出る。
「勇者様、またいらしてください!」
「……えぇ、いつかきっと」
ネモは宿を出ると、朝の冷たい風を胸いっぱいに吸い込んだ。これまで朝の風は心地よかったはずなのに、今はどこか苦く感じた。
誰に聞かせるでもなく、呟いた言葉が風に消える。
胸の奥から湧く自己嫌悪を抑えられなかった。人のふりをして、人を救って、人から讃えられて
――そのどれもが嘘の上に成り立っている。
「もう、いいかな」
これまで、十分頑張ってきたんだ。
――――もう、どうなってもいいや。
その日、ネモは全てを投げ出そうと思い立った。
―――☆―――☆―――
「勇者様!お帰りなさい!」
「うん……」
王都へ戻ると、城門の兵たちは敬礼をして出迎えた。「勇者殿」と呼ばれても、ネモはうつむいて通り過ぎた。
そのまま、とぼとぼと王国を歩く。
「ネモー!おかえりー!」
「よく頑張ったなー!」
「また、酒飲もうぜ!」
彼を知る人々は、彼を見るなり、ねぎらいの言葉をかけ、嬉しそうに声をかける。ひとえに彼の人望があるからだった。しかし、その言葉たちはネモの耳に届くことは無く、上の空のままネモは進み続けた。
王城の手前、城門の前で立ち止まった。
「勇者様、お通りください。陛下がお待ちです」
そこには見張りの騎士が、ネモに声をかける。
しかし、ネモは彼に二つの封筒と聖剣を手渡した。
「これを、国王陛下に……。聖剣とその返還書。」
「は?いえ、しかし……」
見張りの騎士が、困惑しながらネモを呼び止めようとする。
「じゃあね、ポール。奥さんと仲良くね」
ポールが一瞬、言葉を探す間に、ネモはもう背を向けていた。二度と戻らないと、どこかで自分でもわかっていた。
ネモは王城を後にした。その背中を見送る兵士たちは、呼び止めようとしたが、聞く耳持たず止まることは無かった。
その日、王都の片隅に置かれた郵便箱には、騎士団宛ての一通の退職届が静かに投函された。
そしてネモは、何の未練も残さぬように街の外れの道を歩き出した。自分と分からないように、その姿は別人へと変貌していた。
―――ゴォォン
遠く、昼を知らせる鐘の音が鳴る。祝福のようであり、葬送のようでもあった。
(――これでいい。これで、全部終わりだ)
全部投げ出したのは、思ったより心が晴れやかだった。一時的かもしれないが、すっきりする。
誰でもない、誰かになって、平民のように生きよう。あぁ、きっとそれは素晴らしい。
そう―――思った瞬間。
「勇者様」
凍りついた。
ゆっくりと、ゆっくりと、振り返れば、そこにはフードを下ろしたリーベが立っていた。微笑みすら浮かべて。
「……リーベ?」
呆然とつぶやいた。全部投げ出した矢先に、なんで?俺がここにいるとわかったの?なんで、俺だってわかったの?だって、だって、姿違うんだよ?
思考が止まり、視界が光に包まれる。
遅れて、全身に重い衝撃が走る。
「な……にを……」
問いかける暇もなく、全身の力が抜け落ちていく。
膝が崩れ、石畳に頬をつける。目の端に映ったのは、こちらを覗き込むリーベの笑み。
それは恍惚としていて、唇が切れそうなほどに口角を上げていた。
「やっと……捕まえました」
涙ぐむほど嬉しそうで、優しさの籠ったその声を最後に、ネモの意識は闇に沈んだ。
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