第16章 余白の意味

第42話 制作室にて

ユカリとの再会は、私たちの間に、失われた時間を取り戻す以上のものを与えてくれた。再生の薄桃色、自己受容の淡紫色、そして成長の透明な光。三つの色が交じり合って生まれた新しい友情の橋は、私たちがこれから創り出すものに、不可欠な強さと、優しさを与えてくれる。そして今、私たちは、すべての旅の始まりであった、祖父の肖像画の前に立っていた。インクは完全に乾き、あとはこの絵をどうするのかを決めるだけ。完成とは何か?その問いは、もはや私一人のものではなく、私たち三人に、静かに投げかけられていた。


■制作室にて


印刷所の壁に立てかけられた、一枚の絵。楮紙の柔らかな白の上に、私たちが生み出した淡い紫色の顔が、静かに浮かび上がっている。それは、紛れもなく祖父の面影だった。けれど、その表情は、私が知っている優しいだけの祖父ではない。ミナトさんの手で再現されたインクには、私が追体験した、戦争の赤と黒、挫折の茶色、そして希望の金の筋が、複雑な地層のように練り込まれている。その結果、祖父の微笑みには、深い哀しみと、それでも失われなかった慈愛が、共に宿っていた。


「すごい……」


隣で見ていたユカリが、感嘆のため息を漏らす。「ただの絵じゃない。この人の、生きてきた時間そのものが、ここに在る感じがする」


その時、ミナトさんが、作業台の引き出しから、一枚の古ぼけた写真を取り出した。それは、戦地で撮られたのであろう、数人の若い兵士が写ったセピア色の写真だった。


「先日、祖父の遺品を整理していて、これを見つけました。裏に、あなたのお祖父さんの名前が」


彼は、写真の中の一人を指差した。そこにいたのは、まだ二十歳にもならない、若き日の祖父だった。そして、その隣で、にかっと笑っているのが、ミナトさんの祖父なのだという。


「この肖像画、誰か特定のモデルがいるわけではないと、母から聞いていました。でも、今なら分かります」


ミナトさんは、肖像画と、写真の中の祖父を、交互に見比べた。


「これは、画伯の自画像なんですね。戦争を生き延び、画家として生き、そして、あなたという孫娘の未来を案じ続けた、一人の男の」


自画像。その言葉に、私ははっとした。そうだ。だから、顔の部分だけが、空白だったのだ。自分のことは、自分では見えない。祖父もまた、自分自身の魂の色を、探し続けていたのかもしれない。そして、その最後の答えを、私に、私たちに、託したのだ。


私は、絵の前に一歩進み出た。そして、もう一度、その顔を見つめる。淡い紫の表情。それは、私の色であり、祖父の色でもあった。私たちは、時間を超えて、この一枚の絵の中で、確かに一つになっていた。


■価値観の衝突


「でも、これで、本当に完成なのかな」


ユカリが、ぽつりと呟いた。その言葉は、私たち全員が、心のどこかで感じていた疑問だった。顔は描かれた。けれど、周りには、まだ広大な白い余白が残されている。


完成とは、すべてを埋め尽くすことなのだろうか。


「この余白は……」


私は、無意識のうちに、言葉を紡いでいた。


「未完成、じゃないのかもしれない。この白い余白があったから、私は、おじいちゃんのメモを見つけた。この場所に来て、ミナトさんに出会えた。私のデジタルのピクセルと、ミナトさんのアナログのインクが、ここで出会うことができた。余白は、出会うための場所なんだ」


その言葉に、ミナトさんが静かに頷いた。しかし、ユカリは少し違う考えのようだった。


「でも、ハル。この絵は、もっと多くの人に見てもらうべきだよ。こんなに素晴らしい物語が詰まっているのに、私たちだけの宝物にしておくのは、もったいない」


彼女の目には、表現者としての強い光が宿っていた。彼女の周りには、その主張の正しさを物語る、澄んだ水色の光が輝いている。


「私には、そうは思えない」


私は、静かに反論した。


「これは、とても私的なものだから。SNSで消費されたくないし、誰かの評価の対象にもなりたくない」


私の言葉は、過去の傷からくる頑なさを含んでいた。私の周りには、内側を守ろうとする、薄紫の壁が生まれる。


「この物語を私たちだけで独占するのは、ただのエゴだよ、ハル」


ユカリの声が、少しだけ鋭さを帯びた。


「表現するってことは、誰かに届ける覚悟をすることじゃないの?」


「またそうやって、私の物語を自分の作品の『素材』にしたいだけでしょ?中学の時と同じように!」


売り言葉に買い言葉だった。言ってしまってから、はっとする。ユカリの顔が、一瞬、傷ついたように歪んだ。


「そうだよ! いつだってそう!」


ユカリの声が、震えた。


「あなたは特別な『色』が見えて、私はそれを見ることしかできない! あなたの物語の脇役でいるのは、もううんざりなの!」


「二人とも、やめてくれ」


ミナトさんの、低い声が割って入った。


「理想を語っている余裕はないんだ。影山さんの申し出を断った今、この展示会が失敗したら、うちは…」


彼は、そこまで言って、唇を噛んだ。


三者三様の、譲れない想い。表現の公開性、過去のトラウマ、そして、現実的な経営問題。それらが、狭い工房の中で、痛々しくぶつかり合っていた。

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