第22話 祖父の葛藤と手掛かり
「どうして、顔だけ描かなかったんだろう……」
私の呟きに、母は「さあ……」と首を傾げた。そして、何かを思い出したように、はっとした表情になる。「そういえば、おじいちゃんも、よく悩んでいたわ。戦争で見た、あまりにも強烈な記憶を、どうやって一枚の絵に定着させればいいのかって。すべてを描き切ってしまったら、その記憶の重みに、絵そのものが耐えられなくなるんじゃないかって、怖がっていたのよ」
祖父の葛藤。それは、本物の感情の質量を描けずに苦しんだ、私の悩みと、不思議なほどに重なって聞こえた。世代は違えど、私たちは同じ壁にぶつかっていたのかもしれない。
「あの子が亡くなる少し前、あなたのことも話していたわ」母は、私の目を真っ直ぐに見つめた。「『見えすぎるあの子に、見えないものの大切さを教えてあげたいんだがなあ』って。何度も、そう言っていたのよ」
見えないものの大切さ。その言葉が、雷のように私の胸を貫いた。私は今まで、見えるものばかりに囚われていた。人の感情の色、SNSの数字。目に見える評価に一喜一憂し、その結果、自分自身という、最も見えにくいものを見失ってしまった。祖父は、そんな私の未来を、とうに見抜いていたのだろうか。
その時だった。画材箱の底で、何かがこつりと音を立てたのは。
絵筆や絵の具をかき分けてみると、箱の底板の一部が、わずかに浮き上がっていることに気づいた。爪を引っ掛けて持ち上げると、そこには小さな隠しスペースがあった。そして、その中に、一枚の黄ばんだメモが、ひっそりと収められていたのだ。
震える指で、そのメモを手に取る。そこには、万年筆のインクで、古風な住所と、一つの名前が記されていた。
『湊谷活版印刷所 ミナトという青年を訪ねなさい』
ミナト。湊谷活版印刷所。聞いたこともない名前と場所。けれど、その文字を見た瞬間、私の心の中に、今まで感じたことのない色が、静かに芽生えるのを感じた。
それは、夜明け前の空のような、淡い紫色だった。恐怖と希望が混じり合った、予感の色。これから何かが始まる、という静かな期待に満ちた、薄紫の光。
「活版印刷……?」母が、不思議そうにメモを覗き込む。「お父さん、晩年は油絵だけじゃなくて、版画にも凝っていたみたいだから。きっと、その関係の方なのね」
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