第13話 デジタルの快感
そんな私にとって、救いとなったのは、一台のタブレットだった。
アナログ画材を前にすると、私はどうしても臆病になった。パレットの上で混ざり合う絵の具は、人の感情のように、一度混ぜてしまえば元には戻せない。キャンバスに置かれた一筆は、取り返しのつかない染みになる。その不可逆性が、私にはひどく恐ろしかった。
けれど、デジタルの世界は違った。
ガラスのように滑らかな画面の上を、専用のスタイラスペンが滑る。そのペン先から生まれる線は、現実のインクではなく、光の集合体――ピクセルだ。私が現実世界で「見て」いる感情の粒子と、同じ単位。その事実に気づいた時、私は雷に打れたような衝撃を受けた。
このタブレットの中なら、私は、あの制御不能な色の洪水を、完全に支配できる。
カラーピッカーを開けば、無限の色相が円環となって現れる。私は、葬儀の日に見たあの絶望的な藍色を、記憶の中から正確に選び出し、画面の上に再現した。そして、彩度と明度のスライダーを少し動かすだけで、その重苦しい悲しみの色は、穏やかな夜空の青へと姿を変えた。指先一つで、感情の色を意のままに作り変えられる。それは、神にでもなったかのような、抗いがたい陶酔感だった。
気に入らなければ、二本指でタップするだけですべてを元に戻せる。「Ctrl+Z」。現実世界には存在しない、魔法のコマンド。レイヤーを重ねれば、感情の複雑な層を傷つけることなく表現できるし、不透明度を調整すれば、その濃淡さえもコントロールできる。
私は夢中になった。現実の人間関係から距離を置き、ひたすらタブレットの光の中に没入した。ザラザラした紙の質感も、リアルな筆のタッチも、すべてデジタルで再現できる。何より、そこにはあの絵の具の匂いも、ユカリを失った美術室の記憶も存在しなかった。
私の目に見える感情のピクセルを、タブレットの中のデジタルのピクセルへと変換する作業。それは、この呪われた能力を、初めて自分の「武器」だと感じさせてくれた瞬間だった。私はもう、色に溺れる無力な少女ではない。色を支配し、創造する、作り手なのだ。その全能感が、私の孤独な心を少しずつ満たしていった。
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