第52話「千里ちゃんは私の恋人」

3月13日(土曜日)



やかんの音。

コップにお湯を注ぎ、スプーンでくるくるとかき混ぜる金属音。

涌村千里はゆっくりと重たい瞼を開け、人の気配の方へと顔を向けた。


「……れーなさん」


部屋のなかをちょこまかと動く恋人・市河怜奈に声をかける。千里の覚醒に気の付いた怜奈は、美しい顔でほほ笑んだ。


「おはよう千里ちゃん」


ベッド内で伸びをして、身体を脱力させる。

カーテン越しに太陽光を浴びて、愛しい恋人を視界に入れて。何もかもが幸せで胸がキュンキュンと締め付けられた。


「歯磨きして5分後にベッド集合、急いで」

「え、え?」

「早く!」


寝起きで混乱しているというのに、恋人は構わず千里を急かす。恋人の言うことは絶対なので、涌村千里は勢いよく洗面台へと走り出した。


「これ広げて」


市河怜奈が視線を送った先には、小さな折りたたみ式のテーブル。部屋にはすでにテーブルがあるというのに、なぜだろうか。疑問を抱きつつも言われた通りにテーブルを広げた。


「そこじゃない。ベッドの上に」

「え」

「昨日の映画で出てきたじゃん。あれ実践しようと思って前々から買っていたことを思い出したから、今日実践する」


ああ、なるほど。

ベッドの上に置かれた小さな木製テーブル。市河怜奈はご丁寧にトレーにモーニングをのせてこちらへ運んだ。


「うふふ、怜奈さんの特製モーニング」

「料理できないけど、パン焼いたりスクランブルエッグくらいはできるよ」

「天才です……!」


トーストの香ばしい匂い。隣では温かいカフェオレの湯気がゆらゆらと立ち上る。トースト、スクランブルエッグ、カフェオレ。なんて心踊るモーニングセットなのだろうか。


「よし食べよう」

「いただきます!」


パジャマのまま、枕を背中に当てて座る。足は毛布にくるまったまま、まるで秘密基地みたいだ。


「ベッドでご飯なんて不思議ですね」

「確かに面白い体験だけど、安定感がないし、現実的じゃないね」

「あは、でもすごく面白いです」


市河怜奈と一緒にいると飽きることがない。彼女はいつだって新しい何かを探している。遠く先を見やる瞳がいつも美しくて、その横顔を眺めるのが好きだ。


「楽しいですね」

「うん、千里ちゃんはなんでも楽しんでくれるから嬉しい」

「うふふ、怜奈さんさえ隣にいれば、ずっと私は幸せですよ」


ぶりっこモードですり寄ると、怜奈は小さく笑った。


「ふ、私も千里ちゃんがいると結構楽しく過ごせているよ」

「くぅ幸せすぎて死んじゃいそうです!」


心臓を抑えて文字通り悶える。


「それは困るなぁ」

「え!? 困ってくれるんですか!?」

「だって千里ちゃんは私の恋人なんだから」

「ぎゃあ!」

「あはは、何その声、めっちゃウケる」


ケラケラと口を開けて笑う市河怜奈は、たまらなく可愛らしい。端的に言えば天使だ。


「来週から瞑想をしてみようと思っていて」

「へえ!」

「ストレスホルモンを減らせたり、注意力・感情調整能力が向上したり。とにかく色んなメリットがあるらしいんだよ」

「それは素敵ですね。私も一緒に家でやってみようかなぁ」


好きな人と同じことをして、共有する。それはとても素敵なことだ。


「……千里ちゃんはいいね」


首を傾げて恋人の声に耳を傾ける。市河怜奈は目を細めて、柔らかく笑った。


「私の実験に付き合ってくれて、嬉しい」

「本当ですか?」

「うん、私はもっと、千里ちゃんといろんなことを共有したいかも」

「……怜奈さん!」


腕を広げて恋人を抱きしめようと思った。だがふたりを隔てる木製のテーブルに邪魔をされ、それは叶わなかった。


「怜奈さん好き、可愛い、大好きです」

「あはは、詰め込みすぎ」

「それでも足りないくらい。毎秒好きって伝えても足りないくらい私の気持ちは」

「んは、あはは」


市河怜奈は身体を小刻みに揺らす。美しい黒髪が揺れて、彼女の顔を時折隠した。スッと通った鼻筋や上品な唇が、朝の柔らかな光に照らされて、より一層輝いて見える。


「私も、千里ちゃんのそーいうとこ、好き」

「きゃあ!」

「あはは、かわいー」


ここ最近は、市河怜奈の方からも歩み寄りを感じるようになった。

それが堪らなく嬉しくて、涌村千里は今日も、思う存分、恋人と笑い合った。

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