第10話「千里ちゃんにはときめかない」
6月19日(金曜日)
「本当にいただいていいんですか!」
「
食卓に並ぶ、不格好な卵焼き。
同期の人と一緒に作ると話していた、
「嬉しいです!」
「まー余っても困るしね」
カフェオレを啜りながら市河怜奈はずっと窓の外を見つめている。千里が述べる感想なんて今は興味ないようで、彼女は興味深そうに真っ直ぐ夜の景色を見つめている。
「何か気になるんですか?」
「んー……星」
「星?」
怜奈は徐に席を立ち、窓まで近づいて鍵に手をかける。
ガラリと開けると夜の匂いと生暖かい風が舞い込んできて、カーテンレールが大袈裟に揺れた。
「……天体観測でも始めようかなあって」
卵焼きを頬張る千里を残したまま、怜奈はベランダへと足を踏み出す。もぐもぐとしっかり愛しい人の手料理を堪能してから千里はゆっくりと箸を置いて席を立った。
「天体観測ですか?」
ベランダの手すりに肘をついて空を見上げる彼女に声をかける。星空を眺める市河怜奈はなんとも幻想的な、あと少しで夜空へ吸い込まれてしまいそうな不思議な儚さも備えていた。
「それは星座とか、ですか?」
「いや、天体の動きというか。とにかくこの前すごく面白い漫画を読んだから興味が湧いてる」
「わぁ! 素敵ですね!」
夜空を見上げるロマンティックなデートへ彼女を連れ出す口実になりそうだ。
怜奈の隣に千里も並び、ふたりで夜風にあたりながら空を見る。当たり障りのない普通の空が、隣に好きな人がいるだけで違って見えるから不思議だ。尤も、市河怜奈はそんなこと、微塵も感じていないだろうが。
「……怜奈さん……」
隣に並ぶ好きな人へ手を伸ばす。
涌村千里の手が、怜奈の綺麗な髪を梳かした。星空を見上げたまま市河怜奈は煩わしそうに千里の手を振り払う。ふわりとシトラスの香りが風に乗り、こちらへ届いた。
「やめて」
「怜奈さん、好きです」
「…………前にも言ったけど、千里ちゃんにはときめかない」
「でも、私が好きな気持ちは変わりません。いつか絶対、怜奈さんを振り向かせてみせます」
夜風がそよぐ中、怜奈の髪がふわりと揺れて星明かりに淡く光る。涌村千里は彼女の横顔を見つめ、心が静かに高鳴るのを感じた。月明かりは美しい人をもっと幻想的に映し出してくれる。
「恋愛はいいんだよ」
「どうしてですか……?」
「……私にとって恋愛は、自分を失う危険なものだから」
彼女の物言いに、自分との考え方の差をはっきりと感じ取る。そこに、彼女と自分との決定的な考え方の違いを目にした。
千里にとって恋愛は自分を豊かにする美しいものだから。
「なんか、嫌なんだよね、あの感覚。自分が自分らしくなくなるから」
はあ、と怜奈はため息を吐く。
月明かりに照らされる彼女の横顔が、これまで以上に儚く見えて、抱きしめたい衝動に駆られた。必死に抑えるように自分の拳をじんわりと握り締めくい止まる。
「そんな感情の揺らぎはよくない。恋愛なんて味見くらいがちょうどいい」
「…………」
「こんな感じに、切っても辛くない関係にするんだよ」
それは今の千里と怜奈との関係を指しているのだろうか。
「……素敵なことじゃないですか?」
夜風が吹き、ふたりの髪をさらう。
「自分じゃなくなるくらい好きになれる。そんな感情の揺らぎはとても素敵です」
「経験のない千里ちゃんに言われたくないよ」
彼女は素っ気なく千里の声を切り捨てる。
負けないように、必死で訴えるように怜奈を見つめていると、その視線に気がついたのか彼女の視線がまた千里に向けられた。
「恋は煩わしいものだよ」
そんなことはない。
恋愛は素敵なものだ。その道中、辛くて苦しいことはあれど、胸に抱いたこの気持ちが醜いものであるはずがない。
「……私は、そうは思いません」
怜奈へ身体を向けて、彼女へ手を伸ばす。
市河怜奈の小さな両手を自分の手のひらで優しく包み込み、想いを込めた。こんなやり方じゃ何も伝わらないと分かっていても。
「誰かのことを強く愛する気持ちが醜いなんてこと、あり得ません」
「恋愛は時に判断を誤らせる。自分が自分じゃなくなって、まるで何かに取り憑かれていたみたいにおかしくなる」
「……怜奈さんにも、そんな恋愛があったんですね」
今の淡白な彼女からは想像がつかない。至極冷静な彼女をここまで滾らせた人物は一体どんな人だったのだろうか。
「いい恋愛だったとは思えなかったけど」
「そんなに強く愛せる人がいたんでしょう?」
「…………」
市河怜奈は柄にもなく押し黙った。その沈黙を肯定と受け取って千里は話を続ける。
「だからやっぱり、素敵な恋愛だってんでしょうね」
言葉に芯を持たせて彼女へ伝える。
目を瞑って何かを考え込んでいた怜奈はゆっくりと目を開ける。人目を惹く魅力的な眼力が真っ直ぐに千里へ向けられる。
「…………千里ちゃんのいうことが正しければ」
顔へかかった髪を鬱陶しそうに耳へかける。
その仕草さえも刺激的で、千里の胸は場をわきまえずにドクンと音を立てた。
「きっと私は、
怜奈は千里の言葉と自分の言葉とを噛み締めるように。何かを咀嚼するようにこの言葉を口にした。
「……はい、きっとそうですよ」
市河怜奈の言葉を肯定する。
「
「…………」
「今でもまだ、その人のことが好きですか」
包み込んでいた怜奈の小さな手を緩慢な手つきで握り込む。指と指で絡め合うこの繋ぎ方は、今までよりも彼女の心層に深く入り込んでいる気がする。普段なら嫌がるこの触れ合いに彼女は嫌がる素振りを見せなかった。千里の手が触れている事実よりも過去の恋人との日々を思い出しているようだった。
「――ううん、終わった話だよ」
彼女の言葉に緊張がほぐれる。
市河怜奈は自分の気持ちに嘘をつくほどお人好しではないのだ。
「………………」
「怜奈さん?」
突如として黙り込む怜奈に一抹の不安は拭えない。
「……私が、終わらせたから」
ボソボソと彼女は呟いた。
その言葉の意味は分からなかったが、これ以上は何も聞かなかった。怜奈の小さくて冷たい手を握りしめて、ゆっくりと身体を引き寄せる。それでも彼女は嫌がらず、ただただ千里を受け入れるだけだ。
「いつか、塗り替えたいです」
「……
市河怜奈はどこか遠くを見つめる。
「手強い方が、燃えます」
ぎゅっと彼女を抱きしめた。
ふわりと怜奈の香りが千里の鼻腔をくすぐった。このシトラスの香りを嗅ぐだけでじんわりと心が暖かくなる。
「私と千里ちゃんは違うね」
「え?」
「千里ちゃんは何かを乗り越える強さがある。私は何かを諦める選択肢ばかりを選んできたから」
自分の興味を惹くものへ真っすぐに突き進む彼女には似合わない言葉。
はあ、と怜奈は腕の中で大きな息を漏らした。それは普段、千里の行動に呆れているようなニュアンスは含んでおらず、ただただ何か後悔を吐き出しているような重苦しいものに感じた。
「私はただ、自分の気持ちを大切にしてあげたいだけなんです」
「……へえ」
なんだか今日の相槌は、いつものものと違って感じられた。
――第1章『何かを諦める選択肢ばかりを選んできた』完。
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