第48話 拳という名の対話

「コーチ! 何を考えてるんですか!?」


レオンが、思わず制止の声を上げた。目の前の巨漢は、確かに自分たちの命の恩人だ。だが、同時に、その力は、底が知れない。下手に刺激すれば、どうなるか分からない。


「そうだぜ、コーチ! 相手は、あのロックハウンドの群れを、一人で…! 話が通じる相手じゃねえ!」


リックも、慌ててジョウイチを止めようとする。


だが、ジョウイチは、そんな弟子たちの心配を、背中で制した。


「黙って見ていろ。これは、戦いではない。対話だ」


彼は、目の前の巨漢――バルクから、一切、目を離さない。


「言葉を捨てた男と、魂で語り合うための、唯一にして、最高の、コミュニケーションだ」




ジョウイチの、その常人には理解しがたい理論を、バルクは、正確に理解したようだった。


彼は、その巨大な鉄棍を、ゆっくりと、しかし、凄まじい威圧感を放ちながら、構えた。それは、対話の申し出を、確かに、受け入れたという、無言の返答だった。


渓谷の、血と死臭に満ちた静寂の中で、二人の規格外の男が、静かに、対峙する。




最初に動いたのは、バルクだった。


予備動作は、一切ない。ただ、その岩のような両腕に、全ての体重を乗せ、鉄棍を、ジョウイチの頭上めがけて、振り下ろした。


風を切る音ではない。空間そのものが、悲鳴を上げるかのような、轟音。地面に落ちていたロックハウンドの死骸が、その風圧だけで、数メートルも吹き飛んでいく。


それは、技などという、生易しいものではなかった。ただ、純粋なまでの、質量の暴力。直撃すれば、ジョウイチの鋼の肉体とて、ただの肉塊と化すであろう、必殺の一撃。


だが、ジョウイチは、その場から、一歩も動いていなかった。


彼は、常人離れした動体視力で、鉄棍の軌道を、完璧に見切っていた。そして、その一撃が、自らの体に届く、ほんの数瞬前。彼は、まるで、舞いを舞うかのように、しなやかなステップで、その場から、スッと消えた。


バルクの鉄棍は、空しく、大地を叩き、凄まじい地響きと共に、地面に、巨大なクレーターを穿った。




「…なるほどな。それが、お前の挨拶か」


バルクの背後に、いつの間にか回り込んでいたジョウイチが、静かに呟く。


空振りさせられたバルクは、驚く様子もなく、その巨体に似合わぬ、俊敏さで、体を反転させ、再び、ジョウイチへと襲いかかった。


言葉ではなく、拳を交えるスパーリングが、始まった。


それは、あまりにも、対照的な二人の戦いだった。


バルクの攻撃は、全てが大振りで、一撃必殺の威力を持つ、パワーの化身。その動きは、荒々しく、そして、予測不能。長年の、過酷な自然環境の中での、生存競争だけで磨き上げられた、野生そのものの戦闘術だった。


対するジョウイチは、一切の無駄を削ぎ落とした、武の化身。彼は、バルクの猛攻を、紙一重でかわし、柳のように受け流し、そして、最小の動きで、最大の効果を生む、カウンターを、的確に叩き込んでいく。


それは、まるで、荒れ狂う嵐と、それを受け流す、巨大な岩山との戦いのようだった。


弟子たちは、もはや、声も出せずに、その、神々の戯れにも似た、異次元の攻防を、ただ見守ることしかできなかった。




彼らは、確かに、戦っていた。だが、そこに、殺意はなかった。


バルクの、荒々しい一撃は、ジョウイチに問いかけていた。「お前の強さは、どれほどのものだ?」と。


ジョウイチの、的確なカウンターは、それに答えていた。「お前の野生の力の本質を、見抜けるほどの、強さだ」と。


拳を交えるたびに、互いの魂の強さを、その身に刻み込んでいく。彼らは、互いを認め合っていたのだ。




スパーリングは、どれほどの時間、続いただろうか。


やがて、バルクの動きが、ふっと、止まった。そして、ジョウイチもまた、それ以上、攻撃を仕掛けることはなかった。


二人は、数メートルの間隔を空けて、互いを見据える。バルクの、岩のような肉体には、ジョウイチの的確な打撃によって、いくつかの痣が浮かんでいた。ジョウイチの額にも、汗が、光っていた。


勝敗は、つかなかった。


だが、彼らの間には、勝敗以上の、確かな「理解」が、生まれていた。


バル-クは、その虚ろだった瞳で、初めて、ジョウイチという人間を、はっきりと捉えた。そして、その巨大な頭を、こくりと、わずかに、縦に振った。


それは、彼が示した、初めての、そして、最大の、承認の証だった。


ジョウイチもまた、不敵な笑みを浮かべると、バルクに向かって、力強く、頷き返した。




対話は、終わった。


ジョウイチは、弟子たちの方へ向き直ると、何事もなかったかのように、言った。


「行くぞ。王都は、まだ先だ」


レオンたちが、戸惑いながらも、その言葉に従い、歩き始める。


一人、その場に残されたバルク。彼は、しばらく、その場で、ジョウイチたちの背中を見つめていたが、やて、その巨大な鉄棍を、ゆっくりと、その肩に担ぎ上げた。


そして、無言のまま、一行の後を、一定の距離を保ちながら、ついて歩き始めたのだ。


バルクもまた、仲間に加わった。


彼の意志は、誰にも分からなかった。だが、ジョウイチという、自らが認めた、強者の行く末を、その目で見届けるまでは、この集団から、離れるつもりはない。その、無言の、しかし、絶対的な意志だけが、彼の巨大な背中から、確かに、伝わってきていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る