第1部: 黎明編 エピソード2: 【筋肉(とも)との対話と最初の晩餐】

第11話 集いし魂

レオンが自らの意志で勝利を掴んだあの日から、街の空気は奇妙な熱を帯びていた。


表向きは何も変わらない。女たちは相変わらず威張り散らし、男たちは俯いて道を歩く。だが、水面下では、一つの噂が男たちの間で燎原の火のように広がっていた。




「聞いたか? あのレオンが、チンピラどもに絡まれて、一歩も引かなかったらしい」


「ああ。ボコボコにされたが、最後まで倒れなかったって話だ」


「あいつを変えたのは、最近街に現れた、やたらデカい男らしいぞ」


「男でも、強くなれるっていうのか…?」




その噂は、長年諦めに支配されていた男たちの心に、小さな、しかし無視できないさざ波を立てた。ほとんどの男たちは「どうせ作り話だ」「関わるとろくなことにならない」と自嘲気味に囁き合い、すぐに日常の無気力へと戻っていった。


だが、ごく一部の、心の奥底にまだ消えない熾火おきびを宿した若者たちにとって、その噂は暗闇を貫く一条の光のように感じられた。




その日も、ジョウイチとレオンは街外れの広場でトレーニングに励んでいた。レオンは今や、丸太を担いでのスクワットをこなせるまでになっていた。汗を迸らせ、苦悶の表情を浮かべながらも、その瞳には確かな充実感が宿っている。


「そうだ、レオン! 筋肉に語りかけろ! お前はまだやれる、とな!」


ジョウイチの檄が飛ぶ。その、いつもと変わらない光景を、物陰から窺う二つの影があった。




一人は、ひょろりと痩せた、狐のように目の細い男だった。年の頃はレオンより少し上だろうか。ずる賢そうな雰囲気を漂わせているが、その瞳の奥には、現状への苛立ちと、何かを渇望するような鋭い光が宿っていた。


もう一人は、その痩せた男の背中に隠れるようにして立つ、熊のような巨漢だった。岩をも砕きそうな立派な体躯を持っているにもかかわらず、その態度はひどく気弱で、常に何かに怯えているようにオドオドしていた。




「…おい、あれが噂の二人かよ、リック」


巨漢の方が、蚊の鳴くような声で、痩せた男――リックに話しかけた。


「ああ、間違いないな、ゴードン。あのガリガリだったレオンが、丸太なんぞ担いでやがる。それに、あのデカい男…噂以上の威圧感じゃねえか」


リックは腕を組み、値踏みするようにジョウイチたちを観察していた。彼は口が達者なことだけが取り柄で、いつも上手いこと言って面倒ごとから逃げてきた。だが、そんな生き方にも限界を感じていた。


巨漢のゴードンは、その体格ゆえに幼い頃から周囲に気味悪がられ、いつしか人と目を合わせることすらできなくなっていた。その気弱な性格が、せっかくの恵まれた肉体を宝の持ち腐れにさせていたのだ。




二人は、全く違うタイプの人間だったが、共通していた。自分を変えたい、と心の底から願っていることを。


リックは、意を決して物陰から姿を現した。


「よぉ、そこのお二人さん」


リックは、わざと軽薄な口調で話しかけた。ゴードンは、慌てて彼の後ろについてくる。


トレーニングを中断したジョウイチとレオンが、二人の方を向いた。ジョウイチの鋭い視線に、リックは一瞬たじろいだが、虚勢を張って言葉を続ける。


「あんたが、レオンをそそのかしたっていう噂の男か? 俺はリック。こっちはゴードンだ。で、一体全体、何の真似だ? 男が鍛えたって、どうせ女には逆らえねえ。そんなこと、ガキでも分かる理屈だろうが」


挑発するような言葉。それは、リックなりの問いかけだった。あんたのやっていることには、本当に意味があるのか、と。




ジョウイチは、リックと、その背後で怯えるゴードンを、頭のてっぺんからつま先まで、じろりと一瞥した。


その目は、まるで全てを見透かすかのようだった。リックの虚勢も、ゴードンの臆病さも、そしてその奥に隠された、魂の渇きさえも。


ジョウイチは、リックの問いには直接答えなかった。代わりに、彼は静かに、だが腹の底に響く声で言った。


「俺はコーチだ。ひ弱な男を、本物の男に鍛え直すのが仕事だ」


彼は、レオンを指差した。


「こいつは、その第一号だ。見ての通り、まだ発展途上だが、魂は燃え始めている」


そして、再びリックとゴードンに視線を戻す。


「お前たちはどうなんだ? そこに突っ立って、いつまでも評論家気取りで他人を眺めているつもりか? それとも――」


ジョウイチは、一歩前に出た。その圧倒的な迫力に、リックとゴードンは思わず後ずさる。


「――お前たちも、変わる覚悟があるのか?」




その問いは、二人の心の最も柔い部分を、容赦なく抉った。


変わる覚悟。それこそが、彼らがずっと持てずにいたものだった。


リックは言葉に詰まった。自慢の口八丁が、この男の前では何の役にも立たないことを悟る。


ゴードンは、ただブルブルと震えていた。だが、その瞳は、汗を流しながらも堂々と立つレオンの姿に、釘付けになっていた。羨望と、ほんの少しの嫉妬と、そして大きな希望が入り混じった、複雑な眼差しだった。




沈黙を破ったのは、レオンだった。


「…あの…」


彼は、おずおずと、しかしはっきりとした声で二人に話しかけた。


「辛いです。トレーニングは、本当に地獄みたいに辛い。でも…でも、僕は、コーチに出会ってから、初めて自分が生きているって、実感できたんです。自分の足で立ってるんだって…」


元は自分たちと同じ、いや、それ以上に惨めだった少年の、真摯な言葉。それは、どんな理屈よりも、リックとゴードンの心を揺さぶった。


リックは、天を仰いで大きく息を吐くと、観念したように両手を上げた。


「…はっ、降参だ。降参だよ。どうせこのまま燻って生きていくのも、もう真っ平御免だ」


彼はジョウイチに向き直り、深々と頭を下げた。


「…頼む。俺にも、教えてくれ。男のなり方を」


その姿を見て、ゴードンも、意を決したように、巨体を折り曲げて頭を下げた。


「お…お願いします!」




こうして、レオンの変化を見た二人の若者が、ジョウイチの元に集った 。




一人は口達者な痩身の男、リック。もう一人は気弱な巨漢、ゴードン 。






ジョウイチは、目の前に頭を下げる三人の弟子たちを見下ろし、不敵な笑みを浮かべた。


「いいだろう。だが、覚悟しておけ。俺のコーチングは、生半可な気持ちでついてこれるほど、甘くはないぞ」


チーム『ジョウイチ』結成の瞬間だった。彼らの起こす波紋が、さらに大きなうねりへと変わっていくことを、まだ誰も知らなかった。


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