第3話 最初のクライアント

「お前は、このままでいいのか?」




その言葉は、呪いのようにレオンの心に絡みついた。


路地裏に一人残された後も、その問いが何度も何度も頭の中で反響する。いいわけがない。だが、どうしろというのか。この世界で、男であるというだけで、生まれた瞬間から価値が決まっているというのに。




レオンの脳裏に、幼い頃の記憶が蘇る。


彼には、三歳年上の姉がいた。姉は、誰もが認める才能の塊だった。幼くして剣の才覚を示し、十歳になる頃には大人顔負けの剣技を身につけ、街の期待を一身に背負っていた。人々は姉を「女神の寵児」と呼び、その輝かしい未来を疑わなかった。


一方で、弟であるレオンにかけられる言葉は、いつも決まっていた。


「レオンは男の子だから、仕方ないわね」


「お姉様と違って、か弱いのだから、守っていただかないと」


悪意のない、当たり前の言葉。だが、その一つ一つが、幼いレオンの心を少しずつ蝕んでいった。姉と比べられるたびに、自分の無力さを突きつけられる。男であるという、どうしようもない事実が、彼の存在価値そのものを否定していく。努力しようにも、その術を知らない。男が剣を握れば「お遊び」、本を読めば「生意気」。何をしても、世界は彼を認めてはくれなかった。


いつしか、彼は諦めることを覚えた。期待することをやめ、ただ息を潜めて生きることだけを考えるようになった。男であることへの自己嫌悪が、彼の魂を覆い尽くしていた 。




そんな彼にとって、ジョウイチの問いは、忘れていた傷口を抉るような響きを持っていた。


(このままじゃ、ダメだ…)


心の底では分かっている。だが、どうすればいいのか分からない。恐怖が足に絡みつき、一歩も前に進めない。レオンは膝を抱え、ただ無力に震えることしかできなかった。




翌日、レオンが日雇いの水汲みの仕事を終えて家路につくと、信じられない光景が広がっていた。


あの男――ジョウイチが、彼の家の前で腕を組んで仁王立ちしていたのだ。昨日と同じ、薄汚れたタンクトップ姿で。


「なっ…なんで、ここに…」


「お前のことだ。少し調べればすぐに分かる」


ジョウイチはこともなげに言った。レオンは恐怖で後ずさる。昨日、あれだけ反発したのだ。きっと、怒鳴りつけられるに違いない。


だが、ジョウイチの口から出た言葉は、予想とは全く違うものだった。




「才能ある姉との比較。男であるというだけで向けられる、不当な評価。それによって形成された自己肯定感の欠如。お前の問題点は、そんなところか」


淡々と、しかし的確に、ジョウイチはレオンの心の傷を分析してみせた。レオンは息を飲む。誰にも話したことのない、心の奥底の痛みを、なぜこの男は見抜けるのか。


「ど、同情しに来たんですか…? だったら、やめてください! あなたに僕の何が…」


「同情?」


ジョウイチは、レオンの言葉を鼻で笑った。


「勘違いするな、少年。俺はお前の過去に一ミリも興味はない」


その言葉は、突き放すような冷たさがありながら、不思議とレオンの心を軽くした。同情でも、憐憫でもない。ジョウイチは、レオンの境遇を「ただのデータ」として見ているだけだった 。






「俺が見ているのは、お前の過去じゃない。お前の未来だ」


ジョウイチはレオンの前に一歩近づいた。その巨大な影が、レオンの全身を覆う。


「昨日の、あのチンピラどもに囲まれた時。お前の瞳の奥に、ほんの一瞬だけ光が宿った。消えかかってはいたが、それは確かに『悔しさ』という名の闘志の炎だった。お前は、まだ死んではいない。その内に、とんでもない可能性を眠らせたまま、燻っているだけだ」




可能性。


レオンが、生まれてから一度も向けられたことのない言葉だった。


彼の心臓が、ドクンと大きく脈打つ。目の前の男は、自分の何を見ているのか。なぜ、そんな馬鹿げたことを信じられるのか。


レオンが混乱していると、ジョウイチはフッと笑みを浮かべ、その灼熱の瞳でレオンの魂を真っ直ぐに射抜いた。そして、高らかに宣言した。




「俺は、城之内譲一。ひ弱な男を『男の中の男』に鍛え上げる、プロのメンズコーチだ」




メンズコーチ? 聞き慣れない言葉に、レオンは目を瞬かせる。




「いいか、レオン。お前は今、自分のことを無価値で、無力な存在だと思っている。だが、それは違う。お前は、まだ本当の自分を知らないだけだ。鍛え方を知らないだけだ。磨き方を知らないだけだ!」


ジョウイチの言葉が、一つ一つ、レオンの心の壁を打ち砕いていく。


「俺がお前のトレーナーになる。肉体の鍛え方から、精神の在り方まで、俺の持つ全ての理論と技術を叩き込んでやる。お前が諦めさえしなければ、お前は変われる。いや、俺が変えてみせる!」




そして、彼は最大の決め台詞を放った。雷鳴のような声で、魂を揺さぶる一言を。




「俺がお前を、男にしてやる! 」




その言葉は、もはや暴力的なまでの説得力を持っていた。


レオンの全身に、鳥肌が立つ。恐怖ではない。それは、武者震いに近かった。


目の前の男が言っていることは、常識外れで、荒唐無稽だ。信じられるはずがない。だが、彼の力強い瞳を見ていると、心の奥底で眠っていた何かが、熱く疼き始めるのを感じた。


(この人なら、もしかしたら…)


(俺も、姉さんのように、胸を張って生きられる日が来る…?)




半信半疑だった 。だが、それ以上に、目の前の男が放つ圧倒的な自信と、自分の中に眠る「可能性」を信じてみたいという衝動が勝っていた。彼の言葉によって、レオンの絶望に支配されていた心に、初めて希望という名の光が差し込んだのだ 。






レオンは、震える唇で、かろうじて言葉を紡いだ。


「…僕を…僕を、変えてくれるんですか…?」


「俺じゃない。お前自身が変わるんだ。俺は、そのための道を示すコーチにすぎん」


ジョウイチは不敵に笑った。


レオンは、溢れそうになる涙を必死にこらえ、震える足で一歩前に出た。そして、人生で初めて、自分の意志で深く、深く頭を下げた。


「…お願いします! 僕を…あなたのクライアントにしてください!」




その言葉を聞き、ジョウイチは満足げに頷いた。


「契約成立だ、レオン。お前が、俺のこの世界で最初のクライアントだ 」






こうして、絶望の街の片隅で、一人のカリスマコーチと、一人の希望を見出した少年との間に、世界を変えるための最初の契約が結ばれたのだった。


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