第8話 契約と血筋と揺れる正義 ― 兆し

第8話 契約と血筋と揺れる正義 ― 兆し




花霞地方裁判所桜都支部・執務室。


普段は穏やかな長峰敦子事務局長が、珍しく足早に入ってきた。

両腕には分厚い訴状ファイル。息を整える間もなく、桐生所長の机に置く。



「しょ、所長……重大案件が届きました……!」



桐生重信所長は眉間に皺を寄せ、ゆっくりとファイルを開いた。

静まり返った執務室に、低い声が響く。



「事件名――桜都市水族館建設請負契約 無効確認請求事件。

原告は桜都建設工業。地元で30年続く中小企業だ。

被告は……国内最大手の一角――東條カンパニー」



その名に、執務室はざわめいた。



「えっ、東條……!」


「水族館って、自治省の目玉事業じゃ……」



職員たちが顔を見合わせる。

桐生は訴状をめくり、要旨を読み上げた。



「契約不適合責任は10年の無償追加工事。遅延損害金は1日1%。

原告はすでに数百万円の負担を強いられている。

……工期が遅れた原因は、被告の設計変更や資材調達難もあると」



事務官たちの表情が引き締まる。

菊乃は血の気を失い、指先が冷たくなった。


(……姉様の会社が……訴えられて……!)


桐生は訴状の束を整え、ため息を吐く。



「地元の中小企業が国内最大手を訴える。自治省の事業まで絡んでいる……全国的な大事件だ。考えただけで胃が焼ける」



乱暴に引き出しを開け、常備の胃薬を水もなしに飲み下した。



「よりによって、うちの支部に……寿命が縮む」



その言葉に職員たちがひそひそと声を交わす。



「新聞社やテレビが押し寄せるぞ……」


「桜都支部が全国ニュースに……」



菊乃は唇をかみ、顔から血の気を失っていた。




――その空気を切るように、鼻歌が響いた。



「ふんふんふふ〜ん♪」



革ジャン姿の法子が、コーヒーカップを片手に入ってくる。



「おっはよ〜! なんかピリピリしてるね。プリンでも買い忘れた?」



執務室が凍りついた。

事務官たちは心の中で(空気読め……)と突っ込む。

桐生はこめかみを押さえ、胃薬を握りしめたまま天を仰いだ。



「……本庁から直々に指示が来ている。“世間の目があるから合議制でやれ”と。

結局、誰も一人で背負いたくない案件ってことだ。判事三名の合議制で行う」



桐生の声は重い。



「裁判長は私。左陪席は司。右陪席は真壁」



事務官がざわつく。



「やっぱり合議……」



不安が広がる中、法子は胸を張って笑う。



「質問係はわたしか! バリバリやっちゃうぞ☆」


「……頼むから静かに座っていてくれ」



桐生の声は疲れ切っていた。

そして菊乃に視線を向ける。



「書記官は……主任の東條菊乃、君に務めてもらう」



菊乃の喉が詰まった。



「っ……わ、わたくしが……!? で、ですが……!」


「事情は承知している。しかし他の者では荷が重い。君でなければ務まらない」



心臓の音だけが響く。

全身の血が逆流するような感覚。


(……逃げられない。相手はあの姉様……でも命令である以上……)


机の端を握りしめ、唇をかんだ。


法子はにやりと笑う。



「安心しなよ。おキクさんなら大丈夫。あたしがついてるし」


「判事っ……軽々しくおっしゃらないでくださいませ!」



条件反射のように返したが、いつもの不快感ではなく、不思議と胸の奥に安堵があった。




数日後。


訴状の確認作業を終え、発送の日。

長峰敦子が訴状一式を抱え、郵便局の窓口に差し出す。

手はわずかに震えていた。



「……これは、全国に報じられることになるかもしれない」



さらに数日後。


桐生の執務室に職員たちが集められた。

机の上に広げられた日程表。

緊張が張り詰める。



「双方代理人と調整した結果、第1回口頭弁論は二週間後の金曜、午前10時」



「二週間……」と誰かが呟き、ざわめきが広がる。


菊乃の胸に鉛のような重みがのしかかった。

耳の奥で時計の針がやけに大きく鳴る。


(……二週間。あと14日。

その時が来れば、わたくしは――この事件の書記官として法廷に座る)


背筋が釘で打ちつけられたように固まる。

カレンダーの赤丸が処刑台の刻印に見えた。


(……逃げられない。日付が決まった以上、針は止まらない)


深く息を吐き、万年筆を強く握り直した。



第1回口頭弁論の日。


桜都支部の大法廷は記者と市民で埋め尽くされていた。

傍聴席の最前列には全国ネットの報道陣。

職員の不安は現実となっていた。


合議体裁判官3名が入廷。

菊乃は書記官席で速記ペンを握りしめ、冷や汗を滲ませる。

視線を上げれば記者たちの好気の目が、こちらを狙っている。



「原告代理人、大河内俊郎。桜都建設工業を代理します」


「高梨悠人、同じく代理いたします」



「被告代理人、新堂亮。東條カンパニーを代理します」


「Shields & Gate法律事務所、補佐二名」



桐生の進行で弁論が始まった。



大河内が声を張る。



「本件契約は、業界の常識を逸脱しております。

契約不適合責任を10年間負うこと自体はあり得ます。

しかし本件は範囲が曖昧で、事実上“完成物全体を十年間全面保証”させるものです。

加えて無償追加工事、さらに遅延損害金は一日一%。

原告はすでに数百万円の負担を強いられ、倒産の危機に瀕しています!」


「さらに被告からの急な設計変更により、工期や資材の調達計画が次々と乱されました。原告はそのたびに振り回され、工事の進捗は大幅に遅れているのです」



彼の熱を帯びた言葉に、傍聴席からざわめきが起こる。

記者たちが一斉にペンを走らせた。


その隣で高梨悠人が静かに補足する。

冷静な口調で、法廷全体に落ち着いた響きをもたらす。



「公益性を掲げながら弱者を犠牲にする契約は、法秩序の理念にも反します」



淡々とした言葉が胸に重く響いた。



一拍置き、新堂が冷ややかに反論する。

黒縁眼鏡の奥の視線は冷ややかで、声は一切揺らがない。



「契約は自由。双方の合意に基づき、署名捺印の上で成立したものです。

特殊施設である水族館には、長期的な維持保証が不可欠。

追加工事条項も、施設完成度を高めるための合理的措置にすぎない。

遅延損害金1日1%も、観光施設開業の遅延による巨額損失を考えれば妥当です」



傍聴席がざわつく。

「確かに……」と呟く者もいれば、「理不尽だ」と憤る者もいる。



法子は机に頬杖をつき、にやりと笑った。



「でもさぁ、プリンに勝手にクラゲを乗せられて“無料トッピング”なんて言われたら、誰でも怒るでしょ☆」



場が凍る。

菊乃は即座に立ち上がった。



「判事っ! 甘味で司法を語るのは不適切ですわ!」



速記ペンを強く握りすぎ、カリッと音がした。

過度の緊張状態の中にいるとはいえ、これはもう条件反射。

緊張と怒りが一瞬で入り混じる。


記者席から笑いが漏れ、桐生が額に汗を浮かべて咳払いした。



「……本日はここまで。次回は証人尋問を行う。

原告側は桜都建設工業社長・山田修二氏。

被告側は自治省企画部長・榊原正規氏……それと、東條カンパニー取締役、東條雅乃氏」


雅乃――その名に、菊乃の肩が震えた。

ペンが転がり、その音が法廷に響く。

記者の視線が一斉に突き刺さった。



「……以上をもって、本日は閉廷する」




菊乃は執務室へ戻ったが、動きは乱雑だった。

机に資料を投げ、万年筆のキャップも閉め忘れる。

背筋は固く、今にも折れそうに。


法子は少し離れた場所から見つめ、小さく息をついた。



「……おキクさん――」



その声は喧騒に紛れ、誰の耳にも届かない。



終業のチャイム。

職員たちは安堵と疲労のため息をもらす。



菊乃は無言で資料をまとめ、足早に退庁した。

その背中には、重く長い影が落ちていた。


(つづく)



本件の解説は、近況ノートに掲載してます。

📒https://kakuyomu.jp/users/298shizutama/news/822139836265155539

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