河川敷にて
いもたると
第1話
「帰りに備蓄米買ってくるから」
妻の明子は、そう言って仕事に出かけようとした。
「買えるかな」
と、私は他人事みたいにぼんやり言った。
政府が重い腰をようやく上げて市場に出回るようになった備蓄米だが、大手スーパーでは開店前から行列ができ、すぐに売り切れてしまうとのことだった。
普段ニュースを見ない私だが、そのくらいのことは知っていた。
明子は、
「コンビニにも小さい袋が並ぶようになったんだって」
と、まるで小さな子供に教え諭すかのように説明的に言った。
「買えるといいね」
と私は言ったが、明子はそのまま出て行こうとしたので、
「気をつけて」
と、私は慌てて彼女の後ろ姿に向かって言った。
玄関のドアが閉まりかけて、二人暮らしの小さな家にぽっかりとした静寂が訪れるかと思いきや、またドアが大きく開いて、明子の半身が現れた。
「あなたは?」
「何?」
「今日の予定」
「あれ、まだ言ってなかったかな」
私は今日これからの私の行動予定を説明したが、聞いた割に明子はあまり興味がなさそうだった。
代わりに彼女の視線は、一定時間、部屋の押し入れの襖に注がれていた。
それから、ため息でもつくように外を向いた。
それきり、明子はバタンと扉を閉めて出ていった。
私は慌てて、
「暑いから気をつけて」
と言ったが、聞いていたのは扉だけかもしれなかった。
私はしばらく期待してそのままぼんやり扉を眺めていた。もしかしたら何か忘れ物でもあって、また明子が顔を出すかもしれないと思ったのだ。でも、今度は扉が開くことはなかった。
諦め悪くそのまましばらく待ってはみたけど、やはり扉は閉まったままだった。
明子の顔はしばらく見えないのだな、と思い、少しがっかりしている自分に気づいた。
彼女は美人だった。
すでに齢50の峠が、すぐそこまで迫ってきている。
年相応の疲れと諦念は隠すべくもなかったが、明子はまだ美人だと言えた。
ふと、私は彼女の顔が好きなんだろうか、と思った。
タイプ云々、ということを言えば、明子は私のタイプではなかった。
彼女は私が学生時代に恋心を抱いた、どんな女の子とも違っていた。
二人は同い年であったが、もし学校の同級生にいても、私は明子に恋をするということはなかったであろう。
それどころか、お互いに一言も言葉を交わすことなく、卒業していたに違いない。
それが、いろんな偶然とタイミングが重なり、我々は結婚することになったのだ。
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