涙とパン
平 遊
涙とパン
とある小さな町の小さなパン屋。
町にひとつしか無いそのパン屋の奥の壁には、人の胸の高さに小さな扉がある。
その小さな扉の向こうにあるのは、不思議なオーブン。
この町で、昨日誰かが悲しみの涙を流すと、その人のために、このオーブンで甘くて美味しいパンが焼かれるのだ。
カララン。
軽やかな音を立てて、パン屋のドアが開く。おずおずと入ってきたのは、この町に来たばかりの若い女性。俯いてはいるが、泣き腫らしたのか、目元のあたりが赤く見える。
「いらっしゃい」
パン屋の店主が声を掛けると、女性はハッとしたように辺りを見回し、慌てて店を出ようとする。その女性を、店主が引き留めた。
「あなたのためのパンが、美味しく焼き上がっていますよ」
「えっ?」
驚いたように、女性が足を止めて振り返る。
「私、予約はしていませんが」
「ええ。でも、何故かここに来たくなった。気づいたらここにいた。そうではありませんか?」
店主の言葉に、戸惑った顔で女性は小さく頷く。
「どうぞこちらへ」
そう言うと、レジの奥から出てきた店主は女性を促し、共に店の奥へと向かった。
「立ち入った事を伺うようですが、昨日、悲しい事があったのではないでしょうか」
「えっ? ……えぇ」
消え入りそうな小さな声で答える女性は、まだ戸惑った表情を浮かべたまま。
店主は、壁にある小さな扉を開け、中のオーブンから出来立てのパンを取り出す。
「さぁ、召し上がれ」
「えっ?」
「これは、あなたのためのパンですよ」
「私のための……?」
戸惑いながらも、女性の目は目の前の美味しそうなパンに釘付けだ。程なくして手を伸ばすと、女性はパンに齧りついた。
「美味しい……」
女性の顔に、微かな笑みが浮かぶ。
静かに女性を見ていた店主が、口を開いた。
「このオーブンは不思議なオーブンでねぇ……この町で、昨日誰かが悲しみの涙を流すと、その人のために、甘くて美味しいパンを焼いてくれるのですよ。涙を流した人に、少しでも笑顔が戻るように、って」
女性の手には、食べかけのパン。
ほんのりと甘くて温かなそのパンが、悲しみで凍りついた女性の心を少しずつ溶かしてゆく。
パンを食べ終わると、女性は丁寧に店主にお礼を述べて、店を出て行った。穏やかな笑みを浮かべて、軽やかな足取りで。
とある小さな町の小さなパン屋。
そこには、不思議なオーブンがある。
もし、あなたが悲しみの涙に暮れた翌日に、何故かわからないけれども無性にパン屋に行きたくなったら。
そこには、この不思議なオーブンがあって、あなたのために美味しいパンを焼いて待っているかもしれない。
【終】
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