第10話《青衣の少女》
1 青い衝撃
展示室に入った瞬間、玲奈の目に鋭い青が飛び込んできた。
壁一面を支配するのはタマラ・ド・レンピッカ《青衣の少女》。
深いコバルトブルーの衣、メタリックに光る肌。頬や鎖骨にはクロームのようなハイライトが走り、線は鋭く引かれていた。曲線もあるが、すべてが幾何学的に制御されている。
少女は画面の中で自らを演出する。艶やかな唇、半ば伏せた視線。だが柔らかさはない。輪郭はまるで鋼で切り出したかのように硬い。
「……硬いな」悠馬が小さく呟いた。「絵のくせに、刃物みたいだ」
玲奈は頷く。
「シャルダンが柔らかい空気で均衡を描いたのに対して、レンピッカは線で世界を切ってる。存在と不在を、輪郭で選別してるのよ」
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2 絵画解説 ― レンピッカの線
玲奈は展示キャプションを指先でなぞるように読み上げた。
「タマラ・ド・レンピッカ。20世紀前半、ポーランド出身でパリで活躍した画家。アール・デコを体現する存在。女性の解放と自己演出を、硬質な輪郭とメタリックな質感で描き続けたの」
悠馬は頬をかいた。「要はカッコつけてる女をカッコよく描いた、ってことか」
「……そうとも言えるけど、それだけじゃない」玲奈は真剣だった。
「この《青衣の少女》では、青が彼女の身体を包み込みながら、輪郭線が自己の存在を“切り出す”。線は曖昧さを許さない。“ここまでが私、ここからは世界”と宣言してるの」
少女の顎のエッジをなぞりながら、玲奈は続けた。
「シャルダンのカードの塔は、空気の中で揺らぎ、崩れる均衡だった。けどレンピッカの線は、均衡を切断するナイフ。虚構の塔を崩すための刃よ」
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3 報告書の縁
資料室に戻った二人は、兄の事故死報告書を広げた。
玲奈はページの端に目を凝らす。
「この時刻、数字のフォントが微妙に違う」
「……境界か」悠馬がすぐに気づいた。
玲奈は指で示した。「本文の“21:43”と、付表の“21:43”で、3の曲率が違う。つまり、誰かが一部を差し替えた可能性がある」
悠馬は口の端を上げた。「文字の縁に嘘が出る。ブリューゲルの足跡と同じだな。残したくないから、境界をいじった」
「兄はそれを“輪郭”って呼んだのよ」玲奈の声は震えていた。「線を強調すれば、嘘の継ぎ目が浮き上がるって」
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4 来館者の声
再び展示室に戻ると、一人の若い女性が《青衣の少女》を見つめていた。
「……輪郭って、私が私になる線なんですね」
彼女は誰に言うでもなく呟き、立ち去った。
玲奈はその言葉を胸に留めた。
「兄も、自分が自分であるために“線”を探してたんだわ」
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5 仮説の立案
悠馬は椅子に深く腰掛け、報告書のコピーを広げた。
「仮説A:映像の一部差し替え。カットの縁を境に合成している」
「仮説B:時系列の切り貼り。線の位置で順序を入れ替えている」
玲奈は頷きながら兄のノートを開いた。
そこには鉛筆で走り書きされたメモ。——「エッジ検出/境界強調」。
「兄は、すでに気づいていたんだ……」
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6 感情の突端
「線一本で、人は救われもするし、切り捨てられもする」玲奈の声はかすれていた。
「兄は救われなかった」
悠馬は静かに言った。
「だから俺たちが、切り直すんだ。嘘を線で断つ」
玲奈の胸に、冷たい決意が芽生えた。
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7 次の扉
展示室を出ると、次のポスターが視界に入った。
カルパッチョ《聖ウルスラの夢》。
夜の寝台。カーテンが垂れ、窓から差し込む光。足元に降りる天使の姿。
柔らかな寝息と、迫る危機の予兆。
「……線で切った先に、残るのは夜」玲奈は呟いた。
「夢は何を告げる?」悠馬の声が続いた。
二人は視線を交わし、次の謎へと足を踏み入れた。
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作者コメント
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
第10話ではレンピッカ《青衣の少女》を通して、「輪郭=世界を切り分ける線」というテーマを描きました。
兄の死を覆う虚構の報告書も、その縁に矛盾を残している。次回はカルパッチョ《聖ウルスラの夢》。
夢の寝台が告げるのは予兆か、それとも警告か。どうぞご期待ください。
湊マチ
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