第8話《狩人の帰還》

1 冬の画面に入る


 展示室に入った瞬間、玲奈の頬を冷たい空気がかすめた。

 空調はどの部屋も同じはずなのに、この空間だけが冬の気配を帯びている。


 壁一面に掛けられた大画面。

 ブリューゲル《狩人の帰還》。


 狩人と犬の群れが斜面を下り、雪に覆われた村へ向かっている。背中に吊るされた獲物は痩せた狐一匹だけ。雪原に刻まれた足跡が、列を引き延ばすようにのびていた。

 村人たちは焚き火を囲み、凍った池では子どもたちがスケートを楽しんでいる。空は灰緑色に沈み、冷え切った大気が画面全体を支配していた。


「……寒いな」悠馬が腕を組んだ。「見てるだけで凍えそうだ」


「でも、凍えるより怖いのは足跡よ」

 玲奈は視線を落とし、雪に刻まれた細い列を見つめた。「足跡は、消えるからこそ、存在を強く語る」



2 ブリューゲルと《季節画》


 玲奈は少し声を整え、解説を始めた。


「この絵は1565年に描かれた《季節画》シリーズのひとつ。フランドル地方の農村の1年を6枚で表現した大作群です。今に残るのは5点で、これは冬を象徴するもの」


 悠馬が顎を引いて画面を見渡す。「狩りに失敗してるんだな。背中の狐だけか」


「ええ。狩人たちは疲弊して、犬もやつれている。つまり“冬の厳しさ”を描いてるの」


 玲奈の指先が画面をなぞる。

「でも見て。前景の労苦に対して、中景の村では人々が焚き火を囲み、子どもたちは氷上で遊んでいる。ブリューゲルは“死の寒さ”と“生の営み”を対照的に並べたのよ」


「だから絵が静かだけど、妙にざわついて見えるのか」悠馬の声は感心よりも観察者の響きを帯びていた。



3 足跡の寓意


「そして重要なのは、この斜めにのびる足跡」

 玲奈の視線は雪に刻まれた痕を追った。

「足跡は存在を証明するけど、同時にやがて消えるもの。時間が経てば雪は溶け、風が吹けば形は崩れる」


「証拠は残る。だが、残り続けるわけじゃない」悠馬が言った。

「そう。だからこそ、足跡は“今”を証言してる。過去と未来の境界線の上に残された文字みたいなもの」


 玲奈の胸に痛みが走った。兄の死。報告書に記された「事故死」という短い文字。その下に、誰かが通った足跡が隠されているのではないか。



4 来館者の証言


 そのとき、年配の男性が立ち止まり、絵を見ながらつぶやいた。

「子どもの頃、雪の朝は足跡を追うのが楽しみでね。誰がどこを通ったか全部わかった」


 玲奈は振り返った。「……宝物のような記録だったんですね」

「そうだよ。でも昼になると消えてしまう。だから朝一番に読むのがコツだった」


 男性は微笑み、立ち去った。


 悠馬が静かに言った。

「兄さんの残した粉も、足跡みたいなもんだな。読めば軌跡が見える」

「でも、今は消されている」玲奈の声はかすれた。

「問題は、どうやって復元するかだ」悠馬が短く答えた。



5 ノートの解読


 夜、資料室。

 玲奈は兄のスケッチ帳を開いた。走り書きされた文字が並ぶ。


 ——「雪面/風向/踏圧/溶解速度」。


「兄さんは、足跡がどう消えていくかを条件ごとに記録していたんだ」悠馬の声は推理の調子を帯びていた。

「つまり“消えた足跡を再現”する方法を探っていた」


 玲奈の指先が震える。

「……事故現場に、第三者がいた可能性を?」


 悠馬は頷きも否定もせず、ただ目を細めた。



6 感情の爆発


「じゃあ兄は殺されたの?」

 玲奈は声を荒げた。


「まだ断定はできない。ただ——事故死と処理された夜に“通った足”が別にあった可能性は高い」

 悠馬の声は冷静で、それが逆に玲奈の胸を締めつけた。


 涙が滲みそうになり、玲奈は唇を噛んだ。

「均衡を保つために、痕跡を消したのね……」


「均衡は長く続かない。無理に保てば、必ずどこかで崩れる」悠馬の声は淡々としていた。



7 次の扉


 展示室を出ると、次の案内パネルが目に入った。

 シャルダン《カードの家》。


 テーブルの上で少年がカードを慎重に積み上げている。塔は美しく整っているが、風が吹けば一瞬で崩れる危うさをはらんでいた。


「……虚構の均衡も、いずれ崩れる」玲奈はつぶやいた。


 兄の死を覆っている「事故死」という言葉も、同じように脆い塔ではないか。

 彼女の視線は静かに次の展示へ向かっていた。



作者コメント


ここまでお読みいただき、ありがとうございます!

第8話ではブリューゲル《狩人の帰還》を詳しく解説し、「足跡=残る証拠/消える証拠」というテーマを追いました。

そしてラストでは「均衡」という新しいキーワードを提示しました。無理に保たれた均衡は、必ずどこかで崩れる——それが次回の核です。


次回はシャルダン《カードの家》。

脆く不安定な均衡の中に隠された真実の揺らぎを探ります。どうぞお楽しみに。


湊マチ

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