第3話《鞭打ち》

分断された視線


 午前の展示室。照明が整えられた一角に、ピエロ・デラ・フランチェスカ《鞭打ち》の高精細複製が掛けられていた。

 幅の狭い画面の左には、柱の並ぶ室内。鞭で打たれるキリストと、その刑を見守るローマ兵とピラトが描かれている。だが画面の右半分には、全く別の場所のように三人の人物が立って談笑していた。背景も奥行きも繋がっていない。まるで二枚の絵を一枚に無理やり貼り合わせたようだった。


「なんだこれ。二つの絵を合成したんじゃないか?」

 悠馬が目を細め、腕を組んだ。

「それが《鞭打ち》の最大の謎です。前景と背景が分断され、視線が交わらない」

 玲奈は答えながら、兄のノートを思い出す。——“見ているのに、見えていない”。この絵はその言葉の具現に見えた。


「こっちは聖書の場面でしょ? で、右は……普通の町人?」

「そう。右の三人は聖書の登場人物ではなく、ピエロと同時代の人物とも言われています。モデルの特定も諸説あって、何を意味するのか決着していない」

「二つの物語を同じフレームに? いや、二つの“現実”を並べてるのか」

「解釈の余地は広い。政治的寓意と見る説もあるし、ピエロが幾何学的な構図実験をしただけという説もある」


 悠馬は顎に手を当てた。「つまり、断絶を意図した?」

「そう。視線が交わらない構図は“分断”を描いている。あえて統一を拒んでいる」


     ◇


 そのとき、展示室に足音が響いた。

 中年の女性が、杖をつきながらゆっくりと入ってきた。首にスカーフを巻き、目は絵に吸い寄せられるようだった。

「……この右の三人。どうしてキリストを見ないの?」

 独り言のような声に、玲奈は寄り添った。

「不思議ですよね。視線が交わらない。描かれていながら、互いを無視している」

「……うちの家族みたい」


 女性は小さく笑った。

「兄が倒れたとき、私は隣の部屋にいたのに、何も気づけなかった。視線は交わっていたはずなのに、見ていなかった」

 玲奈の胸が痛む。自分も、兄の死の夜、ただメッセージを見過ごした。光の中にいながら、気づかない断絶。


「絵は、過去と現在を同時に描こうとしたのかもしれません」

「そうか。私にとっては、未練の断面だわ」


 女性は微笑み、展示室を去った。

 残された余韻が、玲奈の心をさらに重くした。


     ◇


 午後、資料室。

 玲奈と悠馬は《鞭打ち》の構図をコピーで並べ、定規を当てていた。

「見ろよ。パースが完全に別なんだ。奥行きの向きが揃ってない」

「ピエロは数学者でもあった。幾何学を絵に応用した。ここまで正確なパースを、あえて“ずらして”いる」

「わざと?」

「そう。視線を断ち切るために」


 玲奈は兄のノートを取り出した。

 三つの円と“0.618”。黄金比。

「黄金比の配置は、人の目を自然に誘導する。兄はその逆を描こうとしたのかもしれない。人の視線を“交わらせない”設計」

「つまり、兄さんは“分断の構図”を追っていた?」

「贋作や隠蔽の現場で、“見ているのに、見えていない”状況を作るのに応用できる。光に加えて、視線の断絶も利用できる」


 悠馬は真剣に頷いた。

「光で誘導し、構図で断絶する。ダブルで人を“見落とさせる”。兄さんはそれを突き止めた?」

「……分からない。でも可能性はある」


     ◇


 夕刻、オンライン会議。

 イタリアの美術史教授ロッシが画面に現れた。

「ピエロの《鞭打ち》? これはイタリアでも長く論争が続いている作品です。右の三人については、ある公爵家の追悼だという説もある」

「追悼?」玲奈が聞き返す。

「鞭打ちの場面は“苦難”。右の三人は、失われた者を悼む家族や友人を暗示しているのかもしれません」


 画面越しにロッシは笑った。

「構図の分断は、絵の内部で二つの時間を同時に存在させる試みとも言えます。——記憶と現実、あるいは生者と死者」


 玲奈の胸に衝撃が走った。

 生者と死者。兄と自分。

 断絶は“見えていない”だけで、本当は同じ画面に立っているのかもしれない。


     ◇


 展示室に戻った夜。

 玲奈は《鞭打ち》の前に立った。

 左のキリストは苦難に晒され、右の三人は互いに会話している。二つの場面は視線を交わさず、まるで別世界だ。だがキャンバスは一枚。断絶の線は、同じ布地の上に共存している。


「……兄も、ここにいるのかもしれない」

 思わず声が漏れた。

 分断された視線。その隙間にこそ、失われた者の影が息づいている。


 悠馬が横に立った。

「光の次は、断絶。兄さんのノート、ますます現実味を帯びてきたな」

「次は、“結びつける力”を探さなきゃ」

「結びつける力?」

「春を呼ぶ力。ボッティチェリ《プリマヴェーラ》」


 玲奈の目が輝いた。

 断絶のあとに来るのは、再生を描く春。

 物語の次の扉が、静かに軋みを上げていた。



作者コメント


ここまでお読みいただき、ありがとうございます!

第3話ではピエロ・デラ・フランチェスカ《鞭打ち》を通して、「視線の断絶」「分かたれた時間」というテーマを掘り下げました。

光が選び取る《夜警》の構図から一歩進み、断絶そのものが人の記憶や喪失をどう映すのかを描きました。


「絵画で謎解きするの、面白い」「次も読んでみたい」と思っていただけたら、

評価と♡いいね、フォロー をぜひお願いします。皆さんの一押しが、物語を続ける大きな力になります。


次回はボッティチェリ《プリマヴェーラ》。

春の寓意に込められた再生の力が、どんな謎を語るのか。どうぞお楽しみに。


湊マチ

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