箱入氷菓の完全密室

広野鈴

第一話 完璧な密室の誘い


 白い天井が視界いっぱいに広がる。身体は、ぴくりとも動かせない。僕は部屋の中央で、胸に刺さったナイフの感触がありながら、仰向けに倒れていた。床に血溜まりが広がっている。


 頭の向こう側で、ガチャリとドアに鍵がかかる重い音が響いた。続いて、壁に立てかけた何かを倒したような鈍い音が一つ。キュルキュルと何か細いものが引きずられるような音が近づいてきて、僕の胸ポケットに硬いものが押し込まれた。


 つまり、鍵を持ったまま密室に閉じ込められた死体──これこそが、密室殺人の完成だ。



 ◇



 時は大正。和の伝統と西洋のモダンが入り混じる、文明開化の華やかさと旧態依然とした価値観が渦巻く激動の時代。しかし、女性の生き方はまだ旧態依然としており、箱入財閥の箱入り娘である箱入氷菓(はこいり ひょうか)お嬢様にとって、外の世界の喧騒など取るに足らないことだった。彼女の世界は、日に三度のアイスクリームと、密室殺人の謎で満たされている。


 密室殺人の完成から数分後、再びガチャリと鍵が回る音がして、書斎の重厚な扉がゆっくりと開いた。差し込む光の中に、華奢な影が立つ。


「ねえ。密室殺人に必要不可欠なものは何だと思う?」


 部屋に入ってきた彼女は、僕のそばまで歩み寄り、胸のナイフを覗き込むように屈むと、真剣な眼差しで僕を見つめた。その表情に、血の生々しさを喜ぶような冷酷さは微塵もなく、ただ純粋な好奇心だけが宿っている。


「死体だよ。これがなければただの密室だ。何も珍しくない」


 そう言い放った彼女こそ、箱入氷菓(はこいり ひょうか)。箱入家の現当主で日に3度のアイスクリームよりも謎解きが好きな、完全無欠の箱入りお嬢様だ。彼女は洋装だが、部屋の片隅には美しい大島紬(おおしまつむぎ)が丁寧に畳まれている。歳の頃はちょうど女学院生であり、所属はしているが帝都の学び舎には通っておらず、執事長から学問や礼儀作法を習う、私塾生でもある。外界から隔絶されたこの屋敷でのみ、彼女の世界は完結している。


 彼女は特に密室ミステリーをこよなく愛しており、いつか自身が「完璧な密室トリック」に出会うことを、人生最大の願いとしている。


 まるで子供が新しいおもちゃを見つけた時のように、彼女は密室の謎を解くことに夢中だった。その翡翠石のように綺麗で大きな瞳は、鍵がかかり、誰も立ち入れない閉ざされた空間を前にすると、キラキラと輝きを増した。


 僕の口には厚いテープが貼られ、四肢は縛り上げられていた。万が一にも動いたり、声を発したりしては「密室」の条件を崩してしまうからだ。氷菓の実験は、常に完璧を求める。


「執事業務などしなくていいよ。君の役目は死体だから」


 彼女は以前、僕がうっかり書斎の埃を拭きそうになった時、真顔でそう言った。僕は、彼女の密室トリック実験の死体役として、この屋敷に勤めていた。


「大丈夫、しばらく身体を動かせなくなるけど命に別状はないから」


 氷菓は僕の口元のテープを指先でそっと確認する。本格派の彼女は、死体役に身動きを一切許さない。僕はいつも、身動きできないよう縛られ、声を出せないよう封じられた状態で密室に閉じ込められていた。氷菓がここで学ぶのはミステリー研究ばかり。この邸宅は、実践を通して謎の真髄を学ぶ、お嬢様専用のミステリー学園のようだった。そんなお嬢様との奇妙な日々を、僕は送っていた。


「よし、今回の密室も、実に巧妙だったわね。ふふ、完璧よ」


 満足げに微笑む氷菓は、胸ポケットから鍵を取り出すと、それを指先で器用に弄んだ。僕の視界の端で、彼女の白い手がキラリと光る。


 僕は、まだしばらくこの奇妙な日常が続くのだろうと、天井を見上げたままぼんやりと思った。その日常が、まさか本当の密室殺人事件へと一変するとは、この時の僕には想像すらできなかった。




 ◇




 箱入邸は、時間の流れから取り残されたかのような場所だった。


 門をくぐると、外界の喧騒は一瞬でかき消された。耳に届くのは、風が古い木々を揺らす微かな音か、屋敷のどこかで木材がきしむ鈍い響きだけだった。


 照明はガス灯と電灯が併用されており、廊下にはまだガス灯の微かな燃焼音が響く。陽光すら遠慮がちに差し込むような分厚いカーテンの向こうには、重厚な家具が影を落とし、磨き上げられた床板が広がる。


 壁に飾られた肖像画の瞳は、訪れる者全てを値踏みしているかのように、暗い光を宿している。屋敷の空気は、常に淀んでいた。古い紙と、長い間開け放たれていない部屋特有の、カビにも似た重い匂いが鼻腔をくすぐる。それは、この家に染み付いた秘密と、積み重ねられた年月そのものの香りでもあった。


 外部からの訪問者はほとんどない。たまに郵便物が届く程度で、人の出入りは極端に少ない。そのためか、屋敷の周囲に住む人々も、この箱入邸を『近寄りがたい場所』として認識しているようだった。


 以前、町に買い出しに出た際、僕が箱入邸の人間だと知った途端、露骨に顔をしかめる住民がいた。それはまるで、屋敷が持つ異様さを、肌で感じ取っているかのようだった。僕はこの屋敷で感じる奇妙な物音や、得体の知れない気配の正体が、単なる老朽化や風の音ではないことに、漠然とした不安を抱き始めていた。



 ◇



 密室実験が終わった後の書斎から場所は変わり、洋館の一角にある広々とした食堂。柔らかな陽光が差し込むこの部屋で、僕は執事服のまま、氷菓と向かい合ってお茶をしていた。


 僕は紅茶、彼女は煌びやかな銀の器に入ったアイスクリーム。ひんやりとした空気がそこから微かに漂っていた。


「パンがなければお菓子を食べればいい……そう言った王妃は批判されたそうだね。菓子でなくアイスクリームなら、きっと皆に喜ばれたのではないかしら」


 氷菓は優雅にスプーンを動かし、透き通るような白いアイスクリームを口に運んだ。その小さな唇が、僕にはなぜか眩しく見えた。日に3度のアイスクリームよりも密室トリックが好きと公言している彼女だが、そもそもアイスクリームを日に3度も食べる人間はそういない。


 今日の氷菓は、心なしか退屈そうだ。


 食堂には、僕たちの他に給仕を行うメイドの愛里(ありす)がいた。黒髪色白で氷菓と同じくらいの年齢に見える彼女は、可愛らしいメイド服にいつもマスクを着用している。


 給仕の際の彼女は、常に控えめで、表情のほとんどがマスクに隠れているだけでなく、その澄んだ瞳の奥底にも、決して他者を寄せ付けない、深い静寂が横たわっていた。


 そして、厨房からは香ばしいパンの匂いが漂い、二十歳くらいの若き料理人、フランス料理を得意とするジャンが腕を振るっている。


 また、部屋の隅では、初老の医者、ドクター・シュヴァルツが静かに医学書を読んでいた。


 彼らもまた、この箱入邸の奇妙な日常の一部だ。


 その時、愛里が僕たちのテーブルに近づいてきた。白い手袋に包まれた彼女の手には、一枚のシンプルな封筒が握られている。


「お嬢様、こちらに手紙が。差出人不明でございます」


 氷菓はわずかに眉を上げた。差出人不明の手紙など、この閉ざされた屋敷には滅多に届かない。彼女は無造作に封を開け、中身を一瞥した。その視線が、紙面に踊るたった一言で止まった。


『完全密室を贈る』


 その言葉を見た瞬間、氷菓の顔に退屈の色は消え去り、宝石のような瞳がキラリと輝いた。彼女は小さく笑みをこぼす。


「ふふ、執事長(じいや)でしょう。退屈しのぎに、私に暗号をくれたのだわ。いつもの筆跡なのに、なぜだか震えているような、歪んだ文字だわ。まるで急いで書いたかのようね。だけど私が欲しいものをよく分かってる。

 しかし、こんな単純な暗号では、夏場のアイスクリームより早く溶けてしまうわね」


 氷菓は手紙を僕に見せもせず、そう結論付けた。屋敷で氷菓の奇妙な情熱を理解し、見守っているのは、僕と執事長だけだ。執事長が退屈するお嬢様にミステリー学園としての課題を出してくれたのだろう。彼女は紙面を指で辿る。


 そういえば、いつも食事の時間を共にしている執事長の姿が見えない。

 使用人たちによる朝食前のミーティングには参加していたから、ついさっき姿を消したばかりというわけになる。

 そんな執事長が、わざわざ席を外して氷菓に手紙を送る意味はなんだろう。


 氷菓の言う通り、繰り返す日々に退屈していたお嬢様へのプレゼントなのだろうか。


「『かんぜんみっしつをおくる』を『おぜんをつくるかみんしつ』に並びかえる……ただのアナグラムね。お膳を食事と読み替えれば、おそらく料理人ジャンの仮眠室だわ」


 氷菓は宣言通り、手紙の暗号をさらりと解いて見せる。


 僕たちは、この時、まさかこの謎解きの先に、本当の「死体」が待っているとは夢にも思っていなかった。




 ◇




 僕たちは、氷菓、僕、そして愛里の三人で食堂を後にして、屋敷の長い廊下を進んだ。壁には年代物の肖像画が等間隔に飾られ、僕らの足音だけが静かに響く。愛里は一歩下がって僕たちの後を追っている。


「ジャンの仮眠室なんて、来たことがなかったわね」


 氷菓はそう言って、目的の扉の前に立ち止まった。扉には、料理人らしく、木製のスプーンとフォークが彫り込まれている。

 厨房とは対照的に、この部屋からは全く物音がしない。氷菓はドアノブに手をかけたが、固く閉ざされたまま、びくともしない。鍵が掛かっているのだ。


「あら、鍵が掛かっているわ」


 氷菓は楽しげに呟くが、眉根はわずかに寄せられている。想定外の展開に、愛里がすかさず進言した。


「料理人を呼んできます、お嬢様。ジャンならば鍵を持っているはずです」


 愛里は素早く踵を返し、厨房へと向かった。間もなく、ジャンの朗らかな声と共に、愛里が彼を連れて戻ってきた。二十歳くらいの若き料理人、ジャンは首を傾げている。


「仮眠室に鍵ですか? いや、私は鍵をかけた覚えはありませんが……。いつも開けっ放しですよ。それに、鍵はいつも部屋の中にあるんです」


 ジャンの言葉に、氷菓の瞳が一瞬、鋭く光った。


「なるほど……。これで中で誰か倒れていたら、それこそ密室殺人ね」


 氷菓は楽しそうに僕を見た。その顔には、新たな謎への興奮が満ちている。


「死体くん。手伝ってくれるかい? ドアを破るわ」


 僕は頷いた。僕とジャンが並んで扉に体当たりすると、古い木製の扉は鈍い音を立てて内側に開いた。


 部屋の中は、簡素な仮眠室だった。簡素なベッドと小さな机、そして壁にはエプロンが掛かっている。ジャンの私物らしい生活感がそこにある。


 だが、部屋の壁に、僕たちの視線は釘付けになった。白壁に大きく、そして鮮血を思わせるような赤い文字で、不気味なメッセージが書かれていたのだ。


『時が止まる場所 光が差す場所。

 過去への扉は、時間と光の狭間に開かれる』


 まるで血文字のようなそのメッセージは、部屋の簡素な雰囲気に全くそぐわず、場違いなほどの異様さを放っていた。


「手の込んだイタズラだね。退屈しのぎにはよいけれど」


 氷菓は、その禍々しい文字を見ても涼しい顔で呟いた。ジャンが困惑したように首を振る。


「俺が書いた覚えはありませんよ、こんなもの……」


 その時、僕の視線が、机の上の小さな棚の隅に留まった。そこには、仮眠室の鍵が確かに置かれていた。


 鍵の閉まった部屋の中に、鍵があったのだ。氷菓もそれに気づき、僅かに目を見開いた。彼女の顔に、いつものゲームを楽しむような笑みとは違う、深い思考の色が浮かぶ。


「ふむ……少し、頭を冷やしたいわ。愛里、悪いけど、いつものアイスクリームを取ってきてくれるかしら」


 氷菓は愛里に頼んだ。愛里は素早く頭を下げ、「かしこまりました」と応じて食堂へ向かった。


 仮眠室と厨房の距離はそれなりにある。少し時間が経ち、アイスクリームを手に戻って来た愛里からそれを受け取ると、氷菓は、


「味は良いけれど、シャリシャリが弱い」


 すぐにアイスクリームの感想を述べた。


 大正時代、電気冷蔵庫はまだ一般に普及していない。箱入邸では、厨房の地下に設けられた特別な冷室で、大きな氷の塊を使い食材を冷やしていた。アイスクリームを常に一定の低温で保存するためには、料理人のジャンがこまめな調整を必要としていた。


 銀の器に盛られたアイスクリームの表面は微かに溶け、そのシャリシャリとした氷の粒感が少し失われていたようだ。


 しかし、氷菓は先ほどの赤いメッセージに再び視線を戻し、思考を巡らせる。彼女の頭脳がフル回転しているのが、僕には分かった。やがて、氷菓はフッと小さく笑みを浮かべた。


「そうか。そういうことね」


 彼女は赤いメッセージに書かれた言葉の意味をまた瞬間で解き明かした。氷菓の視線が部屋の中を巡り、ある一点で止まる。彼女が指差した先には、古びた金属製の小箱が隠されていた。鍵穴が一つだけ付いた、手のひらに収まるほどの小さな箱だ。


「この箱の中に入っている、というわけね。本当の『完全密室』の鍵が」


 氷菓は躊躇なくそれを取り上げ、箱を振った。カチャカチャと中で何かがぶつかる音がする。


「『過去への扉は、時間と光の狭間に開かれる』……。ふふ、またもやじいやからの贈り物ね。凝り性なのだから」


 僕にはさっぱり分からない暗号を、氷菓はまたしても涼しい顔で解き明かしていく。


「『過去への扉』……そう、屋敷の奥底に閉ざされた、あの『開かずの間』のことね。そして、その扉を開くための鍵が、『時間と光の狭間』に隠されている、というわけだわ。」氷菓はそう呟くと、


 小箱の特定の箇所を触り、窓から差し込む光の角度と、部屋の小さな置き時計の針の位置を確認した。そして、カチリと音を立てて、小箱の蓋が開いた。


 中にあったのは、複雑な形状をした真鍮製の鍵だった。鍵には、使い込まれたような古びた輝きがあり、ただならぬ雰囲気を醸し出している。


「これだよ、死体くん。屋敷の地下にある、『開かずの間』の鍵だ。複製の難しい絡繰り仕込みの本格的な鍵だね。ずっと誰も開けられなかったはずだけど、じいや、これを見つけていたのね」


 氷菓は僕に鍵を見せながら言った。その言葉に、僕は思わず息を呑んだ。


 屋敷の地下には、いつから存在するのか誰も知らない「開かずの間」がある。鍵が隠され、かつ触れるべきではない曰くがあり、語られることのないその部屋は、屋敷の使用人たちの間では、一種の禁忌のように扱われていた。


「それからもう1つ。単純な謎を解き明かしておこうか。こちらは、ひどくくだらないものだけど。

 ジャンの証言が正しければ、彼は鍵をかけていない。でも仮眠室のドアは鍵がかかっていて、しかも鍵は部屋の中、棚の上にあった」


 氷菓の言うとおりだ。誰もいなかった仮眠室のドアの鍵は部屋の中にあるのに、外から鍵をかけられていたのだ。

 一体、どうやって鍵がかけられたのか。


「死体くん。こちらはさすがに疑問に思うレベルじゃないよ。

 誰もいない鍵のかかった部屋の中で鍵が見つかったというだけで、密室殺人じゃない。このトリックは真夏の炎天下のアイスより簡単に溶けてしまう」


 鍵のかかった室内の壁にメッセージを残し、鍵を部屋の中に置いたまま鍵をかけて外へ出る。それだけを聞くと不可能そうに思えるけれど……。


「答えは単純だよ。仮眠室を施錠した犯人は部屋の外から鍵をかけただけさ」


「え? まってよ、お嬢様。仮眠室の鍵は閉ざされた部屋の中にあったんだ」


「素直だね、死体くんは。事実は、仮眠室のドアに鍵がかかっていて、私たちが入ったあとに仮眠室の鍵が部屋の中で見つかっただけだよ。……犯人は鍵を部屋の中に置けるタイミングがいくらでもあっただろう?

 私たちは仮眠室に入るなり、皆、壁に書かれたメッセージに注目したのだから」


 そうか。僕たちが壁に書かれたメッセージに注目している隙に、部屋の外から掛けた仮眠室の鍵を部屋の中に置けばいい。


 僕たちの同行者にメッセージを残して施錠した犯人がいるのなら容易だ。……って、同行者に犯人がいるってことだけど。


 密室トリックにご執心の氷菓にとって仮眠室の鍵の謎は、確かに取るに足らないものだった。重要なのは、開かずの間の鍵のほうだ。こちらは、長年にわたり屋敷の禁忌とされていた密室の扉を開けられる可能性がある。


「さあ、急ぎましょう。じいやからの最高のプレゼントを、早く解き明かさなければ」


 氷菓は鍵を握りしめ、まるで遠足に行く子供のように無邪気な顔で仮眠室を後にした。


 僕たちは、この時、知る由もなかった。僕たちのこの奇妙な「日常」が、本当の惨劇の扉をこじ開けようとしていることを。扉の先に、衝撃的な真実が待っていることを。




 ◇




 僕たちは、ジャンの仮眠室を後にし、屋敷の地下へと続く階段を降りた。石造りの通路はひんやりと冷たく、湿った空気が肌を撫でる。


 この邸宅の廊下の隅々まで張り詰めた冷気は、肌を刺すようで、まるで屋敷全体が生きているかのように呼吸をしていた。


 地下通路の突き当たりに、目的の扉が現れた。それは、他の扉とは一線を画す、分厚い鉄製の扉だった。表面は錆びつき、まるで時間が止まったかのように重々しい存在感を放っている。これこそが、屋敷の使用人たちの間で禁忌とされてきた「開かずの間」の扉だ。


 禁忌とされ、忌まわしい印象さえあったその部屋。しかし今は、屋敷に隠された長年の秘密が解き明かされようとしていた。氷菓は、手にした真鍮製の鍵を、その古びた鍵穴に差し込んだ。


 禁忌とされ、触れてはいけないはずの部屋だが、僕たちの誰もが扉を開こうとする氷菓を止めようとはしなかった。


「さあ、じいやからの最高の密室を、解き明かしましょう」


 ガチリ、と重い音が響き、硬く閉ざされていた扉の閂が外れる感触が伝わってきた。氷菓がゆっくりと扉を押すと、キーー……と、何年も開けられていなかったことを示すような、錆びた悲鳴のような音が地下通路に響き渡った。


 扉の隙間から差し込む光が、部屋の内部を微かに照らす。その瞬間、僕たちの呼吸は一斉に止まった。


 部屋の中は、何十年も時間が止まったかのような空間だった。天井や壁には蜘蛛の巣が張り巡らされ、床には分厚く埃が積もっていた。踏み入れた瞬間に、足音が吸い込まれてしまうかのような静寂。


 その部屋の中央に、僕たちがよく知る人物が倒れていた。


 執事長(じいや)だ。


「ああ……」


 僕の喉から、軋むような音が漏れた。目の前の光景は、あまりにも現実離れしていて、脳が処理することを拒否する。胸に突き刺さったナイフ。だらりと投げ出された腕。


 背筋に冷たいものが這い上がり、足元から急速に体温が奪われるような感覚に襲われた。これは、密室実験ではない。


 本物の、取り返しのつかない「死」だ。反射的に、僕は氷菓お嬢様の前に立つように半歩踏み出した。目の前の惨劇から、彼女を守らなければならない、という本能的な衝動が、僕の身体を突き動かしていた。


 執事長は仰向けに倒れ、その胸には、僕が今日の実験で使ったものと寸分違わぬ、銀色のナイフが深く突き刺さっていた。その顔は既に血の気を失い、凍り付いたような表情をしている。まるで何か重大な秘密を抱えたまま、永遠の沈黙に囚われたかのようだった。


 だが、僕の目を奪ったのは、その凄惨な光景だけではなかった。


 執事長が倒れているのは、何年も何年も積み重なった埃の上だ。それなのに、その分厚い埃には、不自然なほどに足跡一つなかった。まるで、執事長がそこに忽然と現れたかのように。


 誰も出入りできない、完璧なまでの閉鎖空間。愕然とする僕の横で、氷菓は肩を震わせる。それは興奮なのか、それとも悲しみなのか、はじめ僕には判別できなかった。


 瞳は、確かに悲しみに揺れていた。しかし、それ以上に、僕には彼女の目が、今まさに目の前にある「完璧な密室」という、これ以上ない謎に魅入られているように見えた。哀悼よりも先に、探究心が勝る。


 それが、氷菓お嬢様の、常識とはかけ離れた「偏愛」の証明であり、同時に、彼女の天才性の片鱗でもあった。


 その異常なまでの冷静さに、僕の心臓はさらに強く締め付けられたが、同時に、彼女だけがこの謎を解き明かせるのだという、漠然とした信頼もまた、僕の中に芽生え始めていた。


「これは……密室殺人だわ」


 氷菓は一度、大きく深呼吸した。彼女の視線が、僕、そして愛里へと向けられる。


「執事長は、死体くんたちとのミーティング後、誰にも目撃されていないよね。屋敷は、外部との接触はほとんどない閉鎖的な環境だ。今朝から、屋敷の関係者以外の人間が訪れた形跡は一切ない」


 そこで、氷菓は再びじいやの遺体に目を向け、静かに言葉を続けた。


「つまり、私、愛里、ジャン、ドクター・シュヴァルツ、そして……死体くん。この中に犯人がいる」


 僕たちは、本当に「死体」を目の当たりにした。そして、この屋敷の奇妙な日常は、この瞬間、完全に終わりを告げたのだ。


 第一話 完


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