第二話 黄泉への道標



 彼女のもとを訪れたのは、まだ二十代前半の青年だった。

 人目を避けるように深夜に現れ、声を震わせながら訴える。


「……夢で、同じ道を歩くんです。

 毎晩、必ず。

 暗い山道で、足元に灯りがないのに、どこを歩けばいいのか分かるんです」


 彼女は静かに耳を傾けた。

 青年は続けた。


「道の先に、川があって……向こう岸に人が立ってるんです。顔はよく見えない。

 でも、手を振っている。『早く来い』って……。

 毎晩、少しずつ近づいてしまうんです。もう川の手前まで来てしまった」


 夢で見る川――それはしばしば「黄泉への境」と呼ばれる。

 一度渡れば、二度と戻れない。

 彼女は危険を察し、青年の部屋へ足を運んだ。



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 夜。

 青年の寝室は、妙な湿り気に包まれていた。まるでどこかの沢から水気が流れ込んでくるような。

 畳の縁には小さな泥の跡までついている。


 彼女はすぐに布を広げ、九鈴鏡(れいきょう)を置いた。

 縁に付いた九つの鈴が、不気味な響きを放ちながら震える。

 鏡面は銀でも水面でもない。古代の遺物らしく曇り切り、黒ずんだ金属のような質感をしていた。

 そこに“映る”ものはない。

 だが、覗き込むと靄が立ちのぼるように影が浮かび、やがて揺らぎが形を成す。


 現れたのは――川だった。

 黒い水の気配が室内に広がる。

 その奥に、ぼんやりと人影が立っている。


 影はゆっくりと顔を上げた。

 それは、青年自身の顔だった。



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 母親に聞いた話では、彼には双子の兄がいたという。

 しかし出産のとき、兄は命を落とし、弟である彼だけが生き残った。


「半身を置いてきた者は、いつか迎えに来る」


 地方に伝わる古い言い伝えがある。

 彼女はそれを思い出し、九鈴鏡に向かって言霊を放った。


「半身よ、帰れ。

 この世に留まる器は、すでに満ちている」


 九つの鈴が同時に鳴った。

 骨の髄を震わせる古代の響き。

 曇った鏡面の靄が大きく波打ち、対岸の影は苦悶するようにのたうった。

 やがて、その姿は崩れ落ちるように闇へ溶け、跡形もなく消えた。



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 翌朝、青年は何年ぶりかに深い眠りから目覚めたという。

 夢で見た川のことも、もう思い出せない。


 だが、彼女は別れ際にだけ告げた。

「黄泉へ渡ろうとした者は、必ず何かを残す。

 あなたが選ばれたのは偶然ではない。

 その影が再び道を示さぬよう、祈りを絶やさぬことです」


 青年は深々と頭を下げた。

 その目にまだ怯えの色は残っていた。



---


 やがてその地方では噂が広まった。

 ――ある若者が、夢に導かれて川を渡りかけた。

 ――だが、どこからともなく現れた女が古い鏡を取り出し、闇を断ち切った。


 名も知られぬまま、ただ 「鈴鏡の女(れいきょうのひと)」 と呼ばれる存在の噂が、またひとつ土地に刻まれた。



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