【二】古典的モチーフの現代的変奏
◇取材記録:山奥の“電子音”
私が十数年にわたる取材の旅路で痛感してきたのは、古典的な狸譚に見られるモチーフが、決して過去の遺物として埋もれてはいないという事実である。序章の四でも触れたとおり、それらは時代と環境に応じて衣を替えながら、人々の語りの中にしぶとく息づいている。
言い換えれば、狸の風説は「過去の怪異」ではなく、今なお生成を続ける「現在進行形の怪異」なのだ。
その典型が「狸囃子」である。江戸時代の著名な随筆『耳嚢』には、真夜中にどこからともなく笛や太鼓の音が聞こえ、人々を不安にさせた例が複数記されている。
――「江戸近郊の林中にて、夜半、笛太鼓の音、しきりに聞こえしことあり。人の姿は見えず、怪をなすものと里人は噂せり」
(根岸鎮衛『耳嚢』)
かつては藪や峠道で耳にする木霊や、山中の祭礼の余韻として説明されたが、現代における証言はそれとは大きく様相を異にする。いま、人々が口にするのは「電子音の狸囃子」である。
街灯も届かぬ山道を歩いていた登山者が、ふいに規則正しいビート音を耳にしたという。まるで遠くでクラブ・ミュージックが鳴っているかのように、低く反復する電子音が山中に響く。しかし周囲を見渡しても、集落も施設も存在しない。
■取材記録:山奥の“電子音”
【取材日】平成二十七年九月
【聞き取り対象】M氏(四十五歳・東京都西多摩郡在住)
M氏は若い頃から登山やキャンプを趣味としている。証言は、都内某所の飲食店で行われた。話しながらも時折首をかしげ、「あれは本当に何だったんだろうな」と不思議がる口ぶりが印象的だった。
「もう何年も前だけど、仲間うちで奥多摩の林道を少し入った先にあるキャンプ場に行ったんです。時期は9月で、他に利用客もいなくてね。焚き火を囲んでのんびりして、そのままテントで寝てたんです」
異変が起きたのは、真夜中――午前2時ごろだったという。
「不意に、スピーカーから流れてるみたいな電子音が聞こえてきたんですよ。最初は誰かの携帯でも鳴ったのかと思ったけど、違う。仲間もみんな起きてて、みんな一様に『え? 何これ』って顔してる。誰も音の正体がわからない」
音は一定のリズムを刻みながら、谷の方角から響いてきた。
「なんて言うんだろう……ディスコみたいなっていうか、昭和のゲームセンターのBGMみたいな、妙にチープでノイジーな音。ビービー、ピコピコ、って感じの。だけど、音量が妙にリアルで、空間に“鳴ってる”っていうより、スピーカーか何かで“流されてる”感じだったんです。人工的な、あきらかに“意図された音”という感じ」
周囲は真っ暗で、人の気配などまったくない場所だったという。
「谷向こうに民家もないし、発電機の音もなかった。俺たちの誰もスピーカーなんか持ってきてない。なのに、あの音だけが、山の中にくっきり浮かんでる。気味が悪くて皆でテントに入って音が止むまで出なかったです」
音は、およそ5分ほど続いたのち、ふっと消えた。
「ぱったり止まって、しーんとしたんです。その静けさが、かえって耳に残ってね。あのときの仲間のひとりが言ってたんですよ。『あれって、呼ばれてたんじゃないのかな』って。……冗談で言ったのかもしれないけど、なんかぞっとしましたね」
M氏は、少し笑ってみせたが、その目は冗談とは思っていないようだった。証言の最後には「もうあそこには行ってないんです」とだけ、短く語った。
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この種の証言を耳にした人の中には「山中でのレイヴパーティーではないか」と推測する向きもおられるかもしれない。実際、現代においてはDJ機材や発電機を持ち込んで野外イベントを行う事例も存在する。
しかし、上記の証言がそういったものだとは私には思われない。
また、冒頭に紹介したほかの証言では、人里から数時間以上も離れた山間の谷、車両が入り込めない林道奥でクラブ・ミュージックのようなものをきいた、という体験であった。
――「あの林道は軽トラは狭くて通れない。道が悪くてバイクも普通は無理。大きなスピーカーなんか担いで上がれるわけがないと思う。」
(取材メモ・多摩郡旧峠集落 Y氏談)
スピーカーや発電機を担ぎ上げること自体が困難な場所。たとえ持ち込まれたとしても、電源の確保、夜通しの音響運営、撤収作業といった点で大規模な人員を要する。
したがって、レイヴやそれに近いイベントや遊びという可能性を完全に排除することはできないにせよ、証言の状況を踏まえるかぎり、現実的には極めて考えにくい。
また、そのような場合、数分だけ流れて無音になる、という状況がむしろ不自然だ。
私はこの「説明がつかない電子音」は、狸囃子という古典的モチーフが現代化して甦っているのではないかと考えている。
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