八月二十八日

 創作をしていても、虚しい。これがなんになる、誰も読みやしない。そんな思いばかりが先行して、もはや上手く書けぬ。気がつけばウケるためには、閲覧数を伸ばすためには、など考えている。不敬。創作において、そのような考えは禁忌である。読めれるか否か、ウケるか否か、どうでもよいことである。それら皆、偶然の産物である。作者にはコントロールできぬ結果なのである。そうと知っていながら、それを不随意に求める惨め。結局は私も多数の気を引きたいだけの俗物にすぎないのだ。ただ、書きたいものを書きたいように何の注釈も無く書く、それだけのことなのだ。リアクションを得ようと考えること自体、創作低迷の呼び水である。そうと知っていてなんのやる気も出ないのは私が弱いのか病気の所為か、どっちなのだろう。

 もう最近ではやたら全てのことが面倒でやる気が起きない。行動を起こそうとすると過去の失敗や自身の至らなさばかりが思い返され、上手くいかない未来しか見えずに二の足を踏むのだ。いっそこれが全て病気の所為であれば、幾らか諦めが生まれるのかもしれないものの、そんな筈はないと分かっている。ただ、私が怠け者なだけなのだ。早くもっと働かなくてはならないと分かっていながらそうできないのは私がこれ以上苦労したくないというだけなのだ。嗚呼、みっともない。

 少しはこの愚か者の良い所も挙げてみるとしよう。こういう時の描写の仕方を、私は知っている。一度自身を第三者として見返すのである。この男、幾らか敬虔に創作に向き合っている。誰かの決めた基準に沿う物語でなく、自身の内面から歓喜と共に湧いた物語を書いている。これは幾らか、いい。今の世の中、創作者は星の数ほどいるだろうが、自己顕示欲や承認欲求よりも本来の創作の在り方を追及しようという姿勢は、今の世の中において、悪くない。

 他にも何かいい所を上げてみようと試みたが、駄目だ。これ以外に取り柄のない男だ。しかし、それでも、悪くない。取り柄など、ひとつあればたくさんだ。世の中には己で己の取り柄ひとつ取り上げられずに苦労している人間が多いと聞いた。それを考えれば、私は幾らか恵まれている。

 またどうしようもなく明日は来るだろう。それでも何とか、甘き死への憧憬を越えて生きてゆかねばならないのだ。今、もうひとつ、この男の取り柄を見つけた。彼はまだ、生きている。

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