鱗片記

総領甚六

八月二日

 日記を書くことにした。およそ健康的な理由からではない。睡中都市という長編が完成してからというものの、私は心のよりどころを失くしたのである。なんとしても生き抜かねば不都合である、というあの生を肯定する生き方はもうできぬ。あとに残されたものはゲノムに組み込まれた空腹と渇きを阻止する意味での労働だ。日々したくもないバイトをして客の顔色を見て動悸を誘発させ、イヤミばかり言ってくるあの五十男と会い、取り立ててすべきでない創作を夢みることなど、もう、したくない。一体、私には社会が、世間が合っていないのだ。もう充分苦労はした。どうしてこの上要らぬ情報と感情を身に受けて生きていられようか。全てがもう、面倒なのだ。余暇一日あっても脳髄が見せるのは世間体を保つための労働が紐づけられた退屈する程長い道程なのだ。

 苦労をせねば生きられないのであれば、生きたくない。

 いかにも私らしい結論だ。確かに、私はそうやって生きてきた。自らにないものを発見する度、それなしで生きてゆくために選択肢を切断してきたのだ。あるものだけで生きてゆこうと。しかし、とうとう進退窮まった。選択肢は統合され、今目の前にあるのは生と死の二つ道。結局、度胸がないから動く歩道みたいな生に流されているのだ。今日死んだっていいのだが、それすら面倒なのだ。嗚呼、悪い方ばかりに思考が走る。それを抑制しようと思って日記を書き始めてみればこのザマだ。しかし、これでもしないよりはマシだ。私はどうやら何かを書いている時だけ、精神のピントが合うらしい。生まれ持っての作家気質? 馬鹿な。生まれついての怠け者、意気地なしにそんな気の利いた性質などありはしない。

 もう最近では駄目なのだ。どんな作品を書いていても頭の中でそれをせせら笑う声がするのだ。“それがなんになる”“まともに働け”“のたれ死ぬ他仕方なし”これに蛮勇が勝っているうちは良かった。“知ったことか。信じる創作を来ないかもしれない読者のために残すのだ”そんな虚勢、張るのももう疲れた。何を考えても悪い未来しか思い浮かばない。私は病気か? 主治医は言うだろう“その通りだ”。でも私は心の中で分かっている。私は病気ではない。怠け者の精神が病気と呼ばれなければの話だが。病気とは明確な理由がないにもかかわらず、気分が落ち込み、思考が抑圧、制限される事象のことではないか? 私には明確な理由がある。私の基準でまともに生きていたとて、生活ができないからである。誰だって生活がままならない状況に置かれては私と同じようなことを考えるだろう。断言できる。私は病気ではない。怠け者なだけなのだ。仮に週に五日でも働けば、生活は何とかなるだろう。しかし、それでは駄目なのだ。残った経った二日で創作を考え生きるのでは息が詰まる。ほら、な。やっぱり私は人類のバグなのだ。皮肉なものだ。ゲノムに刻まれた生命の息吹の集積が、ゲノムには絶対に記されていない自死への羨望へと私を導くのだ。

敬愛するアーティストが言った“良いこと未来と悪い未来はそれぞれ五十パーセントの確率である”という指針を私は未だ、実感を伴って理解できていないらしい。今の私にとって良い未来など訪れる筈がないと自身で納得してしまっているのだ。

 別段、悪いことをした記憶はない。家族以外の者に取り立てて迷惑ばかりかけてきたとも思えない。その私がどうしてこんなにも思い悩んで生きてゆかねばならないのかを考えると、いよいよ世の中というものが馬鹿馬鹿しく思える。

 それでも生を手放さなければ、いつか“生きていてよかった”と思えるのだろうか。

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