生き方を忘れてきた私たちは
奈良ひさぎ
第一章 降りしきる悪意の中で
一、いつの間にかいた隣人
船の上から実に二か月ぶりの帰宅。
志望したのは自分だし、こういうことがあると覚悟のうえで仕事に就いたのに違いはないのだが、「家になかなか帰れない」というのはそれだけでなかなか疲れさせてくれる。
「……まあ、帰るのは大した家じゃないんだけど」
郊外のマンションの一室。緊急事態があった時にすぐに出動できる、利便性の高い場所に住むことが定められているので、家賃は高いが仕方ない。せっかく幹部自衛官として入り、申請が認められさえすれば寮の外で暮らせるのだから、それを選ばない手はない。とはいえ、元から物欲が薄いのと、派手に飾ってもそれほど頻繁に帰るわけでもないので意味がないと思っているせいで、部屋は男一人暮らしなのを加味してもずいぶん殺風景だ。必要最低限の家具に、キッチンの調理器具や調味料は「味付けできる」ものしかない。整理整頓に気をつけているというより、散らかる要因がないので特に片付けようと意識しなくてもよい。女の子なんて家に入れても、汚部屋とは別のベクトルで失望されるだけというのがオチだ。
「(休みって言ったって、これといって何かするわけでもなし。……これでいい)」
全くの無趣味ではない。趣味が全部家の外で完結するというだけだ。筋トレはジムに行ってシャワーまで浴びて帰ってくるし、まとまった時間ができればドライブで景色のいい場所に行って気晴らしをする。女の子と遊ぶにしても最後に彼女がいたのは大学生の時で、今の家で俺以外に立ち入った人は一人もいない。大学時代の友人に誘われて時々合コンには行くが、「自衛官」までは響きが良くても「いわゆる船乗りで一度出たら2ヶ月くらい消息不明になる仕事」と言うと軒並み渋い顔になる。行き先は家族にすら言ってはならないのだから仕方ない。そんなわけで、残念ながら色恋の気配もない。
「……ん」
今日はのんびり家で過ごし、明日はジムに行って買い物するかと決めてテレビを見ていると、右隣の部屋で何かゴソゴソする物音が聞こえた。夕方ごろのことだ。二ヶ月前は空き部屋だったはずだが。
「誰か入ったんだろうな」
とはいえそういう端的な感想を抱くだけで終わりだ。律儀なひとはこういうマンションでも引っ越しのあいさつをするのだろうが、自治会や町内会のつながりが強いわけでもないし、隣人がどうとか以前に自分がいつ家にいるか分からないような職なので、最初から諦めていたりする。隣がいろんな意味で面倒な人ではないか、という点は気になるが。
「まあ、そのうち会うだろう……」
しばらくは今の家に住むつもりだし、そのうち顔を合わせることもあるだろう。あまり気にしていなかった。――三日目までは。
「今日もだ……」
よその生活を気にするとかつけて回るとかは性ではないが、野生の勘というやつが働いた。隣人は何か怪しいことをしている、と直感したのだ。
夕方にごそごそと物音を立てて、慌ただしく家を出ていく。夜中に帰ってくる気配はない。そして朝になって、そろそろゴミ収集車が来るかという時間になってようやく帰ってくる。交代勤務だとか大学の夜間部に通っているとか、いろいろ可能性を考えたが、一番しっくりきたのは夜職だ。あいにく行ったことがないのでどういう場所なのかは詳しくないが、キャバクラとかホストとか、夜も煌々と明るい繁華街を盛り上げる場所で働いているのだろう。しかし単なる夜職なら、野生の勘を働かせるほどではない。どこにでもあるような十階建てのマンションだし、昼に寝て夜に働く人なんていくらでもいる。
「……あ」
別に観察したいわけではないが、偶然とは起きるものらしい。それから少し経った日の朝、少し寝坊して慌てて階下にゴミを出しに行った帰り、エレベーターでその隣人と鉢合わせた。降りる階が同じだとは思っていたが、エレベーターホールから三方向に分かれた通路まで同じなあたりで、それとなく気にしていたその人だと気づいた。後ろをつけていると思われるのは嫌なので、少し距離をとって歩く。
「……あの」
たぶん向こうも、隣人がたまたま同じタイミングで帰ってきた、くらいの認識だったのだろう。家のドアの前まで着いたところで、その人がこちらを振り返ってきた。
「……一か月前に、ここに越してきました。よろしく、お願いします」
日本人なのだから、黒髪の女性なんてわざわざ探さなくてもたくさんいる。だがまずそれが視界に入って俺の気持ちを奪ってしまうくらいに、解けば肩まで届くであろう長さの、束ねられたその髪を美しいと感じた。そして自信なげにこちらを見る、ぱっちりとした目。わずかに紅潮した頬。艶があることで引かれていると分かる程度の、薄めな色のリップ。そのどれもが、「自然」と言い切れる薄い化粧でまとめられていた。派手とは真逆の見かけ。俺と同年代か、もう少し若いかと見えた。
予想通り最近やってきたことは分かったが、名前は分からないまま。彼女は用事は終わったとばかりに家へ引っ込む。俺も家に入って靴を脱ぎ、床にべたんと座る。
一度見ただけの彼女の顔が、妙に脳裏に焼き付いていた。
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