紅華四季恋浪漫譚 蛍夏の章

浅葱ハル

第一章 黒宮火花

或る夏の日

 二人が刃を向け合ったその日は、茹だるような暑さだった。


 和洋の文化の交わる国、紅華帝国こうかていこく

 帝都の中心に聳える高等学院の、闘技場。

 その中央で、蒼い空の下、黒い詰襟の制服を着た二人が向き合っていた。



 西に立つのは、黒宮火花くろみやひばな

 十七歳にして、第二皇子の侍衛を志す少女である。

 まだ学生の身ではあるが、すでに皇子の信頼は厚く、その剣才は学院内外で有名だった。


 夜の闇を思わせる艶やかな黒髪と、吊り目の鋭い漆黒の瞳。獰猛どうもうな光を宿した火花は、目の前の青年を睨み見据えていた。


 東に立つのは、紫苑玲しおんれい

 同じく十七歳だが、年齢には似合わず、落ち着き払った気配を纏う青年だった。


 彼が数年前に滅んだ隣国の王子であることは、表立っては語られぬ、誰もが知る事実である。

 風になびく柔らかな黒髪の間からは、鮮やかな紫を帯びた瞳が覗いていた。


 その涼やかさの最奥に、確かな熱が潜む。彼は無表情のまま、対峙する火花を見つめていた。



 夏の熱が、陽炎となって立ち込める。


 ひとつ、太鼓の重厚な響きが広がった。

 模擬戦闘の開始を知らせる合図だ。


 観客席を埋め尽くし、興奮する観客たちは水を打ったように静まり返った。

 空気を読まぬ虫の声だけが、闘技場を覆う。

 仄かな風が砂を巻き上げ、二人の制服を小さくはためかせた。


 再び、太鼓が鳴る。


 火花と玲は、腰の刀を抜いた。

 刃は引かれているが、真剣と変わらぬ鋭さを帯びている。


 お互いに切っ先を相手へと向け、構えの体勢を取った。


 やがて、三度目の太鼓が鳴り響く。

 同時に、二人は地を蹴った。



 先に攻勢に出たのは火花だった。

 躊躇なく間合いに飛び込み、突きを繰り出す。

 刃の軌跡が夏の空気を裂くと、その銀線の鋭さに観客がどよめいた。


 待ち構える玲に、動揺はない。

 火花の攻撃へ視線を残しながら、身体を真横に逃す。 

 玲にかわされ、体勢を崩された火花は、すぐさま反転し、身体を低くした。


 地を蹴る音が鳴る。

 直後、火花が斬り上げた刀を、玲は横に払って弾いた。

 金属音が高く響く。


 続けて怒涛のように、火花は攻撃を畳み掛けた。

 この閃光のような太刀筋に、大抵の相手は、なすすべなく刀を弾かれていく。


 しかし、玲は違った。


 すべてを読まれている――刃を交えながら、火花は強く感じた。


 視線、足の運び方、手首の角度、呼吸。そういったところから、動きを察知され、ことごとく封じられている。


「っ……このっ……」


 悪態を漏らしながら、さらに踏み込んだ。

 表情ひとつ乱さず受け流す彼に、憎たらしさが募っていく。冷たい彼の紫水晶の瞳に、殺気も、焦燥も、全てを飲み込まれていくようだ。


 だからこそ、身体を巡る血液が、どんどんと熱を帯びていく。その温度が心地良いなんて、絶対に認めたくはなかった。


 素早い上段からの斬り下ろしも、半歩だけ滑るように後退してかわされる。

 続けた突きも、軽く刀を押し当て逸らされたが、そこで火花は鋭く刀を返した。


 二人の刃が、ついに正面からぶつかった。

 衝突音が弾け、肉薄する二人に、観客席から悲鳴のようなどよめきが上がる。


 視線が交錯する。瞳と瞳の、距離が近い。


 間違いなく玲の眉が寄っていたのを、火花は見た。

 鮮やかなほど、彼の苛立ちが滲んでいる。


 玲の足が、不意に砂を跳ね上げた。

 視界が奪われる。それを嫌い、火花は大きく飛び退いて、再度刀を構えようとした。


 ――刹那。


「なっ……!」


 火花の刀の鍔に向かって、玲の刃が正確に叩きつけられた。

 予想外の衝撃に、なすすべなく、火花の掌中から刀が弾け飛んでいく。


 咄嗟に刀を追おうとするも、その指は空を掻いた。


 喉元に、冷たい刀が突きつけられている。冴えた波紋に、思わず唾を飲み込んだ。


 敗北。

 悟ると、膝が力なく崩れていく。

 忘れていたように汗が噴き出し、足元の乾いた砂を濡らしていった。


 観客席から息を呑む音が広がっていく。

 遠くで、終焉を知らせる太鼓の音が鳴り響いた。


 火花は地面に爪を立てた。砂が爪の間に入り込んでいく。

 体の熱を逃がそうする本能が、呼吸を深くした。


 弱い風が吹きぬける。

 仄かな土の匂いが、火花を慰めるように優しくまとわりついた。



「……本気でやれよ」


 唐突な、玲の低い呟き。

 鼓膜にへばりつく、どうしようもなく苛立ちを孕んだ彼の声音に驚いて、思わず顔を上げた。


 在ったのは、絶対零度の瞳。

 その奥に、確かに感じる、憤怒とごく微量の情の熱。



「はあ?」


 予想外の言の葉に、火花のたぎる血が、沸騰した。



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