さみしい夜にのむ薬

@hoshiroku

第1章

第1話 予感

 日本一の繁華街と言われる歌舞伎町。その薄汚れた路上に、一人の少女が横たわっている。いわゆる地雷系ファッションに身を包んだ少女の様子は、明らかに異常だった。

 顔からも、手からも、足からも、水分のほとんどが失われたかのように肉が萎み、骨に皮膚が貼りついたような状態になっている。肌は赤黒く変色し、皺だらけだった。表面は脆くなってしまっているのか、ところどころにヒビ割れがあり、触れれば簡単に裂けてしまいそうだった。

 その姿はまるで、映画に出てくるミイラのようだ。

 だが少女はかろうじて生きていた。呼吸の度に胸が上下し、ひゅうひゅうと音がする。

 少女を数人の若者が取り囲んでいる。真夜中三時、彼らが少女を発見した。いつもこのトー横近辺にたむろしている彼らにとって、歌舞伎町の路上に誰かが寝転んでいることは日常のことだった。だがこのような状態の人間は、見たことがない。


「ねえ、これ、もしかしてハナぴ?」


 取り囲んでいた少女の一人がそう言った。他の者たちも、服装や近くに落ちているバッグから、時々ここに来ていた「ハナぴ」と自称していた少女かもしれないと同意した。

「ハナぴ」は二日前にもトー横に来ていた。だがその時は、このような状態ではなかった。痩せているどころか、むしろ肉付きが良かった健康な少女は、たった二日でここまで変わり果てた姿になってしまった。

 ハナぴは仰向けに寝転んだまま、震える腕を上に伸ばした。中空にある何かを掴もうとでもするように、指が動く。


「そらと……」


 それが新大久保にあるメンズコンセプトカフェの店員「空兎」のことであると理解できる者は誰もいなかった。

 ハナぴは目を見開き、涙を一粒流すと、全身から力が抜けそのまま動かなくなった。

 


 少し離れた場所から、その様子を眺めている少女がいた。紫のパーカーを着て、フードで頭を覆っている。

 少女は笑っていた。可笑しくて可笑しくてたまらなかった。口元に手を当て、笑い声が少年たちに聞こえないよう必死にこらえた。

 限界だと感じた少女は走ってその場を離れた。走りながら、声を上げて笑った。酔ったサラリーマンや、ホストや、風俗嬢の間を縫い、少女は歓喜のままに走り抜けた。

 深夜三時、眠らぬ街の闇に、その狂気の笑いは違和感なく溶けていった。



                 ***



 須磨愛果が高校で一番好きな場所は美術室だ。人の作品や画材がたくさんある雑然とした雰囲気もいいし、絵の具のむっとするような独特な匂いも好きだ。

 だから退屈な授業が終わって、美術部の活動のために美術室に向かう時は、体重が五キロは軽くなったように弾んだ足取りだった。

 この日の活動内容はデッサン。イーゼルに立てかけた画用紙の上に、カッターで削った鉛筆をリズミカルに走らせていく。四人しかいない部員のうち、来ているのは三人。愛果と、親友のひかりと、一学年上の三年生の幾人。静まり返った美術室に、画用紙と鉛筆の摩擦音が三人分、折り重なって響いている。

 デッサンの対象は水の入った二リットルのペットボトル。水の透明感や透過する光の表現が難しく、愛果は苦戦しながら何度も鉛筆を走らせた。

 横の二人を見ると、ひかりは真面目にデッサンに取り組んでいたが、幾人は雑にペットボトルを描き終え、画用紙の空いたスペースにアニメのキャラクターを描いている。いつもそうだった。

 愛果は内心腹立たしく思いながらも、その気持ちを言葉にすることはできなかった。

 入口の引き戸が開く音がして、愛果は顔を上げた。美術部顧問の真崎が入ってきたところだった。真崎の気だるげな視線が愛果に向けられ、慌てて画用紙に目を戻した。体がかあっと熱くなり、心拍数が上がる。


「なんだ、今日は三人だけか」


 そう言って、真崎は部活中の定位置である窓際の席に腰を下ろした。いつもと同じブラックの缶コーヒーを開け、一口飲む。


「さおちゃんは珍しく風邪でーす。それより先生、デッサン用の壺、新しいの持って来てくれました?」


 ひかりが言った壺とは、デッサン用のモチーフとして美術室に置かれていた備品で、先日幾人が誤って割ってしまい、真崎が代わりのものを調達すると言っていたのだった。


「あー、忘れてた。うーんそうだな、やっぱ来週持って来るわ」

「先週もそう言ってましたよね? ほんとに持って来てくれるんですか?」

「おー大丈夫大丈夫。実家に良い感じのいらない壺があったからな。それまでは、なんかその辺の適当なの描いといてくれ。この空き缶でも後でやろうか?」

「いりません」


 ひかりが顔を顰めながら愛果を見た。


「聞いた? ほんっと無責任な先生」


 愛果は小さく「うん」と言ったが、真崎を責めることはなかった。

 美術室が好きな理由の一つに、部活の日は必ず真崎に会えるというのもあった。

 デッサンに集中するフリをしながら、愛果は時折真崎を盗み見た。真崎は現代文の教師であり、絵の知識は全くと言っていいほどないため、美術部の活動中に指導をすることはほとんどなく、やって来てももっぱら本を読んでいた。

 愛果の高校にも美術の授業はあったが、授業を受け持つ教師は非常勤だった。そのため美術部の顧問には、常勤の教師のなかから門外漢の真崎が選ばれたのだった。

 真崎が手にする文庫本には、お気に入りの七宝模様のブックカバーがつけられていた。頬杖を突き、熱心に読みふけっている。

 真崎は常に無精ひげを生やし、髪は癖っ毛な上寝癖を直すこともほとんどないため、まるで鳥の巣のようだった。あの人は清潔感がないと女生徒からは酷評されていたが、愛果は真崎から毎朝シャワーを浴びていると聞いていたため、実際には清潔であることを知っていた。使っているハンカチは毎日洗濯されているし、口臭だって、他の男の先生に比べたら全然ない。不評の理由が全くわからなかった。

 顔はイケメンというわけではないが、味のある顔だと思っている。背も高いし、睫毛が長くて素敵だった。声も低くて渋く、アンニュイな雰囲気の真崎によく似合っていた。

 高校に入学し美術部に入部してしばらくは、適当で変な先生だと思っていた。だがそのうち、実は生徒のことをよく見ており、人を気遣い尊重できる優しい人なのだと気が付いた。

気づけば愛果は真崎のことを好きになっていた。

 頻繁によそ見していたので、ペットボトルのデッサンが終わったのは愛果が最後だった。それは今日だけではなく、いつものことだった。



 愛果が住む青梅市は、東京の西の外れに位置していた。目と鼻の先に山が迫り、町なかには多摩川が流れている。東京、という言葉から多くの人が連想する都会的なイメージとはかけ離れた、田舎そのものの町だった。

 高校も同じ町にあった。平凡な公立高校で、学力が高くもなく、低くもない者が集まっている。家から近いからと、親に勧められたこともこの高校を選んだ理由の一つだが、一番は美術部があったからだった。

 結果として、愛果はこの高校を選んで良かったと思っている。真崎に出会うことができたからだ。

 この日、登校すると教室の雰囲気がいつもと違っていた。ざわざわしているはずの教室が少し静かで、皆が何かを意識しているように感じられた。

 原因がなんなのか、すぐにわかった。

 畑中乃亜が登校していたのだ。

 乃亜は五月のゴールデンウィークの後から高校に来なくなった。今はちょうど十月になったばかりなので、五カ月近く不登校だったことになる。それがなんの前触れもなく、急に現れた。

 乃亜の髪には紫色のメッシュが入っており、学校の制服の上からは紫色のパーカーを着ていた。誰とも話すことなく、つまらなそうな顔でスマホを操作している。

 学校に来なくなる前、乃亜はクラスの一軍女子からイジメに遭っていた。直接的な暴力こそなかったが、物を隠されたり、テーブルの上にゴミを置かれたり、見えるところで陰口を叩かれたりなど、見ていて心が痛くなるような扱いを受けていた。

 平穏だった日常がまた荒れる気配を、愛果は感じた。

 現在、愛果の席は運の悪いことに乃亜の隣だった。近づくのには抵抗があったが、このまま着席しないわけにもいかない。

 恐る恐る近づき、着席すると横目で乃亜の様子を窺った。乃亜は変わらず、スマホを見続けている。


「お、おはよう」


 愛果は勇気を振り絞って挨拶した。

 乃亜はじろりと横目で愛果を見た。そのまま数秒経ってから、乃亜はにやりと笑って「おはよう」と言葉を返した。リアクションがもらえた嬉しさよりも、むしろ気味の悪さを感じた。


「あれえ、もしかして乃亜?」


 よく通る高い声が響いた。このクラスのカーストトップに君臨する片桐莉緒だ。美人で成績が良く、教師受けも良いが、気に入らない相手には何をしても構わないと思うタイプだった。

 乃亜に嫌がらせをし、不登校のきっかけとなったのが莉緒だった。

 莉緒は取り巻きを引き連れ、一直線に乃亜の席まで向かった。


「久しぶり。どうして学校来なかったの? 会えなくて寂しかったよ」


 覆いかぶさるような体勢で話しかける莉緒を、乃亜は薄ら笑いを浮かべて見上げた。


「うちも、会いたかった」


思いがけない言葉に莉緒は驚いたように目を丸くし、一歩退いた。だがすぐに強気な表情を取り繕う。


「ねえ、あんたトー横キッズになったって聞いたけど、あれ本当? 本当ならマジでウケるんだけど。トー横キッズって道路で寝たり薬やったりするんでしょ? あとおじさんに体売ったりとか。あんたも売りやったの?」


 乃亜はそれには返事をせず、莉緒を完全に無視して再びスマホを操作していた。


「おい、無視? 聞いてんだけど」


 もはや莉緒がいないかのように乃亜は振る舞っていた。莉緒は舌打ちし、「感じ悪っ」と吐き捨てると、乃亜の机を軽く蹴ってから自分の席に座った。

 真横で繰り広げられた寒々しいやり取りを、愛果は俯いたまま存在感を消して、なんとかやり過ごした。

 こんなことがこれからまた始まるのかと思うと、暗澹とした気持ちになった。

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