11

俺は、幽霊になった。


高橋が喰われたあのホテルから、どうやって帰ったのか覚えていない。


気づけば、俺は夜の街を、目的もなく彷徨っていた。


街の喧騒は、分厚いガラスの向こう側のように、全く聞こえない。


熱いラーメンの湯気を吸い込んでも、何の匂いもしなかった。


俺は、世界から完全にログアウトしていた。


思考は、停止していた。


反撃? 告発? そんな単語は、もはや俺の辞書には存在しなかった。


戦うという行為そのものが、奴に新たな糧を与えるだけなのだ。


チェックメイト。完全に、詰んでいた。


公園のベンチに、崩れるように座り込む。


ここから、全てが始まった。そして、ここで、全てが終わる。


それで、いいのかもしれない。


「――こんな所で、何をしている」


声がした。顔を上げると、リナが立っていた。


「あんたの部屋にも、会社にもいなかった。半日探し回って、まさかとは思ったけど……。ここに来るしか、思いつかなかった。あんたが全てを始めた場所に」


「もう、終わりだ」


俺は、呟いた。


「勝てない。あいつには、勝てない。俺が動けば、被害が増えるだけだ」


「……」


「あんたも、もうやめろ。あんたまで、あいつの餌食になる必要はない」


リナは、何も言わなかった。


ただ、静かに、弟の、あの古いノートを取り出した。そして、俺の膝の上に、それを置いた。


「弟も、同じことを言っていた」


彼女の声は、静かだった。


「『もうやめてくれ、姉さん』って。あの子は、私が傷つくのを恐れて、一人で全部抱え込んで、壊れていった」


彼女は、俺の目をまっすぐに見据えた。


「あんたも、同じ道を選ぶの? 弟と同じように、一人で諦めて、喰われるのを待つのが、あんたの出した結論?」


その言葉が、深く突き刺さる。


俺は、膝の上のノートに、視線を落とした。


開かれたページ。そこには、あの言葉が書かれていた。


『真の成功者は夢など見ない。現実を創るのだ』


これは、弱点などではない。


これは、この世界の法則を記述した、創世記の第一章だったのだ。


「……現実を、創る……」


俺は、その言葉を、何度も反芻した。


そして、気づいた。俺たちは、致命的な誤解をしていた。


「なあ、リナさん」


俺は、顔を上げた。


「もし、あいつが、俺たちの夢を喰って、それを『自分の現実』として、この世界にアウトプットしているとしたら?」


「どういうこと?」


「あいつの成功、あいつのカリスマ、あいつの会社、あいつの財産……その全てが、俺たちから奪った夢の断片で、再構築されたものだとしたら? 俺が失った『修理する喜び』は、奴の会社の新しい福利厚生施設の設計思想にでもなったのか? 高橋の『温かい家庭』は、奴がまとう偽りの人格の、一ページを飾っているのか? 俺たちの魂は、奴の現実を彩るための、ただの素材だったのか!」


脳裏に、あの精神世界の光景が、鮮烈に蘇る。


俺たちの輝き。そして、中心で全てを吸収する、絶対的な『無』。


あれは、奴の正体そのものだったのだ。


「奴の弱点は、空っぽなことじゃない」


俺の声に、失われていた熱が戻り始める。


「奴の弱点は、俺たちの夢がなければ、何もできないことだ。あいつは、創造主じゃない。ただの、泥棒だ」


希望は、そこにあった。


俺は、立ち上がった。


高橋を失った絶望は、消えない。胸の穴は、塞がらない。


だが、その絶望が、怒りが、喪失感が、俺の中で、新しいエネルギーに変換されていく。


「リナさん」


俺は、彼女に手を差し伸べた。


「あんたの弟さんが遺してくれた、最後の武器を、使わせてもらう」


リナは、驚いたように俺を見ていたが、やがて、その口元に、かすかな、しかし鋼のように強い笑みを浮かべた。


彼女は、俺の手を取った。


その手は、もう、氷のようには感じなかった。


「奴が創り上げた、偽物の現実を、俺たちの手で、終わらせる」


最終決戦への、覚悟が決まった。

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