ドリーム・イーター『夢を預けてはいけない』
伝福 翠人
プロローグ
終業時刻は、九時間前に過ぎ去っていた。
天井の蛍光灯が、白い光を均質に撒き散らしている。
フロアには俺、田中ユキだけだった。
俺のデスクの上だけが、資料の山と空のエナジードリンク缶で構成された、小さなスラムを形成していた。
PCが静かな音を立ててスリープモードに移行する。
真っ暗になった画面に、男が映る。
青白い顔。覇気のない目。猫背気味のシルエット。
それは、俺ではなかった。
少なくとも、俺が知っているはずの、田中ユキではなかった。
三日前、全てが決定した。
俺が半年間、心血を注いできたプロジェクトの企画。その最終プレゼンで、リーダーに指名されたのは俺ではなく、同期の鈴木だった。
それだけではない。鈴木が提示した企画書の根幹は、俺が深夜のブレストで彼にだけ打ち明けたアイデアそのものだった。
俺の魂の一部が、アイデアという形で抜き取られ、目の前で他人の手柄に変わる。
俺はただ、黙って見ていることしかできなかった。
会社を出て、冷たいアスファルトの上を歩く。
ガラス窓の向こう、居酒屋から漏れる暖色の光と笑い声が、まるで分厚い水槽の壁越しのように遠い。
俺の世界とは、違う。
誰もいない公園のベンチに、逃げ込むように腰を下ろした。
コンビニの袋から、小さなラジオを取り出す。
近所の粗大ゴミ置き場に捨てられていた、時代遅れのガジェット。
持参した精密ドライバーで裏蓋を開ける。腐食した端子、切れかけた配線。
指先が、錆びたハンダに触れる。冷たく、ざらついた感触。
この作業をしている間だけは、無心になれた。
数時間後。カチリ、と小さな音を立てて、ダイヤルが回る。
――ザー……ジジ……こんばんは、深夜のミュージック・……
ノイズ混じりの音楽が、死んでいた機械から流れ出す。
誰に評価されるわけでもない。
ただ、壊れたものが、再び命を吹き返す。
その事実だけが、今の俺を支える唯一のものだった。
ラジオをしまい、再び歩き出す。その時だった。
「ユキか? 田中ユキだよな?」
声の方を向くと、大学の同級生、斎藤がいた。
SNSで見る彼は、いつも高級腕時計をつけ、華やかなパーティーにいた。現実の彼も、寸分の違いなく成功者のオーラを放っている。
「ユキ。お前、今の人生、満足してるか?」
核心を突く質問に、言葉が詰まる。
斎藤は、一枚の黒いカードを差し出した。
上質な紙に、金色の箔押しで一つの単語が刻まれている。
『METAMORPHOSE』
「人生、変わるぜ。マジで」
手の中に残された、一枚のカード。
その光が偽物だったとしても、今はもう、手を伸ばす以外の選択肢はなかった。
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