第8話 ドウケイ
あの日以来、再び日常はつつがなく進み始めた。冬も深まってきた、1月半ば。3年生は委員会も引退してしまい、顔を合わせる機会はめっきり少なくなってしまっていた。
放課後の図書室。たった1人で本棚の整理をしていた。ぎっしりと詰まった本棚がひしめき、いつもは狭く感じていた図書室が、やけにだだっ広く感じる。空に広がる鈍い鉛色の空が、校舎ごとゆっくりと押しつぶしてきそうだった。
夕暮れの冷たい光が細く差し込み、窓ガラスには外気の白さが薄くにじんでいる。触れる本の背表紙が、ひんやりと無機質な感触を伝えている。どれだけ部屋の明かりをつけても、図書室は暗がりを残し続ける。先輩の面影を探すように、埃っぽい背表紙を指先でなぞりながら、小さく1つ、ため息を溢した。
どれくらい時間がたっただろうか。ガラリと音を立てながら、扉が開けられる。来館者かと思い顔を上げると、そこには心のどこかで求め続けた笑顔があった。心拍が早くなる。だだっ広く感じられた図書室の密度が、急激に上がったような気がする。参考書やノートを抱えた碧先輩が、微笑みながら近づいてくる。
「やっほ。……前期日程そろそろだからさ、ちょっと気分転換に。」
そう言いながら、少し遠くにある椅子に腰を下ろす。その静かな落ち着きの中に、ほんの少しの不安や焦りを抱えたような姿が、ちらりと見えた気がする。図書室で見る碧先輩の姿が、妙にしっくりくる。ここの空間が、先輩にとって特別な「日常」なのだと、改めて思った。
碧先輩はノートを広げ、シャープペンシルを走らせている。手に握られたシャープペンシルは使い込まれており、文武両道な碧先輩が想像もできないような努力をしたことを物語っている。数式を見つめるその目線が、いつも藍に向けられている物よりも冷たいように感じた。藍は相変わらず本棚を整理しつつも、なぜだか心は五感を先輩の方に惹きつけられるように働かせていた。遠くの方で座る碧先輩の姿にこれまで何度も眺めてきたはずのものとは違う、少し不思議な特別感を感じていた。スコン、スコンと、抜き取っては入れる単純作業を繰り返す手が、いつもよりも早まった。
藍はいつもより早く本棚の整理を終わらせ、1冊の本を持ってそっと向かいの席に座る。手にしているのは、これまで何度も読み返してきたお気に入りの本。碧先輩をそばで感じられるこの席は、冬でも春の様にぽかぽかと幸福な暖かさを保っていた。本を手元に広げながらも、藍の目はなかなか手元の本に落ちない。
じっと藍に見つめられている事に気が付いた碧先輩が、ふっと笑いながら声をかけてきた。
「なんかこういうの……久しぶりだね。」
「……そうですね。」
再び碧先輩はノートに視線を移す。2人の間に響く紙とペンの摩擦音が、どうにも心地よかった。藍が手元の文字列に目を滑らせながら、先輩の気配を楽しんでいたその時、先輩の唇が微かに動いた。
「やりたいこと、ちゃんとやればよかったなぁ。」
独り言みたいにこぼしたわずかな声は、真剣さと少しの不安が混じっていて、胸の奥がちくりと痛む。先輩は何事もなかったかのように、再びノートに文字を刻み続けている。
本を開きながらも、ページの文字が頭に入ってこなくなった。わずかな息苦しさから逃げるように顔を上げ、窓の外に視線を逃がすと、校庭にはまだうっすらと雪が残っていた。
「もうすぐ春が来るんだよね。桜、ちゃんと見られるかな。」
先輩はいつの間にか顔を上げ、藍を見ていた。シャープペンを置き、水筒からお茶を飲んでいる。その水筒からは、仄かに桃の香りがした。不意に先輩の言葉に、思わず息をのむ。卒業、そして別れ。見えない影がすぐそこまで迫っているように思えて、心臓がきゅっと縮む。
「図書室は……飲食、禁止ですよ……。」
口に出した瞬間、藍自身も驚いた。絞り出すように言ったその一言が、藍の限界だった。声が震え、うまく息が吸えなくなった。
「そうだった、ごめんね。」
と笑う先輩の声が、妙に遠く聞こえた。
再び、近くでペンの音がする。藍に見えるのは、青緑色の瞳、小さく整えられたきれいな爪先、さらりと揺れる黒い髪。
そこから漂うシャンプーの心地よい香りに、どうしようもなく胸がざわめいた。
――どうして、こんなに追っちゃうんだろう。
問いかけた途端、心の中で言葉が結ばれそうになる。
もしかして、これって――。
自分でも怖くなるくらい、はっきりとした感情の輪郭が浮かびあがる。動悸が早く、強くなる。頬が熱くなり、慌てて視線を逸らした。耳の中で、自分の鼓動が責め立てるように響き続けている。
いつの間にか下校時刻を知らせるチャイムが鳴っていた。先輩はそそくさとノートを片付けながら立ち上がった。
「ありがとね。ここに来ると落ち着くんだ。」
帰り際に頭をぽんと撫でられ、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。碧先輩はにっこりと藍に微笑みかけると、そのまま図書室を後にした。
その温もりを胸の奥に抱えたまま、藍は思う。
――先輩がいなくなったら、私はどうなるんだろう。
自然と指先に力がこもる。窓の外では、白い粒が、彼女の胸のざわめきを覆い隠すようにしんしんと雪が降り始めていた。
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