第8話:マクロ経済の嵐

 文字の学習に行き詰まり、私が深い溜息をついたのを見かねてか、シスターは「少し休憩にしましょうか」と優しく微笑み、お茶を淹れてくれた。図書室の窓から差し込む午後の光が、卓上の湯気をキラキラと照らしている。


「ナツキさんは、物覚えがとても速いですね。難しい文字も、一度教えればすぐに形を覚えてしまう。」


「……ですが、使い方が、まるで」


「ふふ、文法は慣れですよ。焦ることはありません」

 シスターの言葉は純粋な善意からくるものだろうが、私のプライドは静かに傷ついていた。前世では、受験の片手間でTOIEC満点を取れたのに。


 シスターは私の内心を見透かしたように、穏やかに話題を変えた。


「この街……商業都市エルドラドは、初めてですか?」

 私がこくりと頷くと、彼女は窓の外に広がる街並みを愛おしそうに見つめながら語り始めた。


「ここは、このあたり一帯で最も大きな国、『エルドラド王国』の首都なのですよ。見ての通り、たくさんの人が行き交う、とても活気のある街です」


 彼女の話によると、エルドラドはその地理的な利点から、古くから交易の中心地として栄えてきたらしい。北の山脈からは鉱物資源が、南の平原からは豊かな穀物が集まり、それらを求めて様々な人々がこの街を訪れる。人間だけでなく、山脈に住む屈強なドワーフや、森と共に生きるエルフといった、他の種族の姿も珍しくないという。


「街の安全は、王城にいらっしゃる騎士団の方々と、冒険者ギルドの皆さんが守ってくださっています。だから、こうして私たちも安心して暮らせるのですよ」


 なるほど。国家の正規軍である「騎士団」と、民間の傭兵組織である「冒険者ギルド」。二つの組織が治安維持という公共サービスを提供することで、市場の安定性が担保されているわけか。実に合理的なシステムだ。私の脳が、心地よい情報と共に活性化していくのを感じる。


 だが、話はそこで終わらなかった。シスターの表情が、少しだけ曇る。


「……ただ、一つだけ、大きな問題がありまして」

彼女は東の空を指差した。窓からは何も見えないが、その先にあるものを幻視するかのように、彼女は目を細める。


「この街から東へずっと進んだ先に、『黒の山脈』と呼ばれる場所があります。そこは……魔王軍との、最前線なのです」


 魔王軍。 その単語が、私の思考を鋭く穿った。ファンタジー世界の常套句。だが、それはこの世界では、紛れもない現実なのだ。


「魔王は、この世界に生きる人間社会そのものを憎み、滅ぼそうとしています。騎士団や冒険者の皆さんが、命を懸けてその侵攻を食い止めてくださっているおかげで、エルドラドの平和は保たれているのですよ」


 シスターは胸の前でそっと十字を切った。その瞳には、戦う者たちへの深い祈りと、魔王という存在への純粋な恐怖が浮かんでいた。


 その瞬間、私の頭の中で、沈黙を守っていたスキルが、これ以上ないほど楽しそうな声を上げた。


《魔王軍! なるほど、戦争ですか! 戦争は、経済に巨大なインパクトを与える一大イベントです! 軍需産業の活性化、技術革新の促進、そして戦時国債の発行による莫大な資金の流動……いやあ、これはビジネスチャンスの匂いがプンプンしますねえ!》


 《リスク管理》の不謹慎な解説に、私は内心で同意していた。 戦争。それは確かに、最大の破壊行為だ。だが同時に、最大の創造行為でもある。莫大な需要を生み、供給を刺激し、停滞した市場を一気に活性化させる劇薬。前世の歴史が、それを証明している。


「……ナツキさん?」

 私が黙り込んでしまったのを、シスターが心配そうに覗き込む。彼女は、私が魔王の話に怯えているとでも思ったのだろう。


「いえ、なんでもありません」

私は静かに首を振った。



「とても、興味深いお話でした」



 その言葉に、嘘はなかった。 恐怖ではない。純粋な、知的好奇心。 魔王軍という巨大なリスクに対し、エルドラド王国はどのような経済政策で立ち向かっているのか。軍事費はGDPの何パーセントを占めるのか。兵站は、どのように維持されているのか。 私の脳は、冷徹なアナリストのように、次々と分析テーマをリストアップしていく。


 どうやらこの世界は、私が想像していたよりもずっと、複雑で、ダイナミックで、そして——儲け話に満ちているらしい。



◇◇



 エルドラドでの生活が始まってから、私は一つ歳をとった。


 この一年は、私にとって新たなインプットの日々だった。シスターたちの根気強い指導のおかげで、私はこの世界の複雑怪奇な言語を、日常会話や簡単な契約書なら問題なく読み書きできるレベルまで習得していた。前世の記憶がなければ、11歳の子供がここまで到達するのは不可能だっただろう。


 一方、モンスーンの成長は、私のそれとは全く違うベクトルで目覚ましかった。彼は孤児院の雑用を手伝う傍ら、毎日のように森へ出かけては、スライムやゴブリンといった弱い魔物を狩っていた。その成果は彼の体格の変化に顕著に表れている。一年前に比べて背はぐんと伸び、しなやかな筋肉がその全身を覆っていた。


「最近のモンスーン、なんだかすごいわよね。この前なんて、一人でオークを仕留めてきたのよ」


 シスターの一人が、感心したようにそう噂していた。オークはこのあたりの森では比較的強い魔物だ。それを13歳の少年が一人で? 奴隷だった頃の彼に、そこまでの戦闘技術はなかったはずだ。


 その答えは、ある夜、偶然判明した。


 中庭から聞こえる金属音に気づき、そっと窓から様子を窺うと、月明かりの下で剣を振るうモンスーンと、彼に指導するチャードラルの姿があった。どうやらチャードラルは、神父としての顔の裏で、モンスーンに剣術を指南していたらしい。彼の善意は、どこまで底が知れないのだろうか。


 もちろん、私も何もしなかったわけではない。シスターから魔法の基礎を教わってはみたものの、結果は惨憺たるものだった。


「ナツキさん、いいですか。魔力を指先に集めて……そう、ろうそくの火を灯すイメージで……」


 言われた通りに試みるが、私の指先からは魔力のかけらも現れず、ただ虚空を掻くだけ。一年間、様々な魔法を試したが、私ができたのは「指先をほんのり温める」ことだけ。それも、全力で集中してようやく、だ。


「はは、ナツキはやっぱり魔法は苦手なんだな」


 訓練の後、私の落ち込んだ様子を見て、モンスーンが笑いながら言った。


「でも、気にすんなよ。お前ができないことは、俺が全部やる。だから、お前は俺の後ろにいればいい。俺が、守ってやるから」

 そう言って笑う彼の横顔は、一年前の少年ではなく、一人の男の顔つきをしていた。


《キャーーーーッ! 出ました! 出ましたよお客様! 「俺が守ってやる」いただきました! これはもう確定です! 恋愛イベント発生確定でございます! さあ、ここは頬を赤らめて恥じらうのが正解のムーブですよ!》


 頭の中で騒ぐ《リスク管理》の声に、私は内心で悪態をつきながらも、不思議と悪い気はしなかった。


 そんなある日のことだった。


 孤児院の子供たちが全員、食堂に集められた。何事かと思っていると、シスターが満面の笑みで私の前に一つの小さな布袋を差し出した。


「ナツキさん、少し遅れてしまったけれど、お誕生日おめでとう」

「……誕生日?」

「ええ。あなたがここに来た時、7月7日だと教えてくれたでしょう?」


 すっかり忘れていた。一年前にここへ来た当初、身元を聞かれた際に、咄嗟に前世の自分の誕生日を答えたのだった。まさか、それを覚えていてくれたとは。


 袋の中を覗くと、鈍い銅色の輝きが見えた。銅貨が、10枚。孤児院の子供たちに与えられる、けして少なくはないお小遣いだ。高価な飴玉が数個買える金額。


「ありがとう……ございます」


 私は、自分でも驚くほど素直な声でお礼を言っていた。


 チャードラルとシスターたちの、どこまでもお人好しな善意。それは、私が一年前に捨て去ったはずの感情を、少しだけ思い出させる。


 だが、手のひらの上の銅貨10枚の重みは、それ以上に、私の心の奥底で眠っていた別の感情を呼び覚ましていた。


 それは、歓喜。

 そして、渇望。

 一年ぶりに手にした、確かな「資本」。


 この銅貨10枚が、私の新たな帝国の礎となる。


 私の脳は、再び冷徹な計算を始めていた。

 

 この10枚をどう運用し、いかにして最大限の利益を生み出すか。

 

 私の本当の戦いは、ここから始まるのだ。


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