ファンタジー異世界ですけど、資本主義で暴れます。

ヤシさ

第1章:炭鉱のカナリア

第1話:私の価値、プライスレス……では、ない。


 私の名前はナツキ。

 天際莫迦てんさいばか大学経済学部に籍を置く、ごく普通の女子大生。


 ……いや、今の言葉は撤回しよう。


 我が天際莫迦大学は、偏差値・就職率・ノーベル賞受賞者数、その全てにおいて他の追随を許さない、正真正銘、日本一の大学。その門をくぐった時点で、私は「普通」なんていう平凡な枠からはみ出している。入学は、私の価値が世間に認められ、その価値が天井知らずに跳ね上がった瞬間だった。


 そう、私は選ばれし者。未来の社会を動かすエリートなのだ。


 この価値観は、幼い頃から自然と育まれたものだ。

 小学生の時、大好きだったアニメ「魔法少女バレンタインズ」の杖が欲しくて、父に「買ってほしい」とお願いしたことがある。だが、父は頑固なもので、「月500円のお小遣いを貯めて、自分の力で買いなさい」と言った。


 私はその日から、必死にお金を貯め始めた。不思議と、嫌ではなかった。父の言うことは、いつだって合理的で正しかったからだ。幼稚園の遠足に持っていくお菓子を選ぶ時ですら、父は真剣な顔で「最も効率の良い駄菓子ポートフォリオ」について熱弁してくれた。そのおかげで私は、限られた予算で最大の満足感(質量とカロリー)を得るための「うまい棒全力投資」という、子供ながらに画期的な手法を編み出せたのだ。


 段ボールで作った手製の貯金箱に500円玉が増えていく。「総資産」が日々増えていく過程そのものが、何よりの楽しみになっていった。今思えば、それが私の運命を決定づけた、最初の「投資」だったのかもしれない。


 そして半年後、ついに目標の「5500円(税込)」を達成した時の喜びは、今でも忘れられない。でも、それは杖が手に入るからではなかった。自分の力で目標を達成したという事実。そして、父という最も信頼する格付け機関から「文句なしのAAA(トリプルエー)」、つまり最高の評価を得られた自分が、何よりも誇らしかったのだ。


 そんなわけで、私はごく自然に経済学の道へ進んだ。両親は、私がより良い教育を受けるための投資を惜しむことはなかった。彼らにとって私は、愛情を注いだ分だけ、将来輝かしい成果で応えてくれる、最高の投資先だったのだろう。それが、何よりも嬉しかった。


 大学に入ると、私のエリート意識はさらに強固になった。周りの学生たちが、将来の価値上昇が全く見込めない、価値の低い株のように見えたからだ。


「昨日見たドラマがさー」「今度のサークルの飲み会、どうする?」


 ラウンジに響く会話は、何の価値も生まない情報ばかり。「恋愛」だの「友情」だの、会社の財産リストには載せられない、数字にできないフワフワしたものばかり。彼らはよくも飽きずに語れるものだ。だが、それも仕方がない。世の中とは、持つ者がさらに豊かになり、持たる者はさらに貧しくなるようにできている。その**越えられない格差**は、このキャンパスからすでに始まっているのだ。


まあ、一人だけ、例外はいるけれど……。



 その日の私は、いつにも増して上機嫌だった。月に一度の、心躍る給料日。コンビニバイトを終え、店長から手渡された薄茶色の封筒の厚みを、指先で愛おしむように確かめる。


「ナツキさん、今月もご苦労さん。はい、これね」

「ありがとうございます、店長。……失礼して、金額を確認します」


 私は店長の目の前で封を開け、慣れた手つきで紙幣を数える。時給1450円で、ぴったり60時間。無駄な残業は一切なし。中身は8万7千円。一円の狂いもない。完璧な計画によって生み出された、美しいお金の流れだ。


「お疲れ様でした。来月もよろしくお願いします」


 スキップでもしたい気持ちをぐっと抑え、無表情を装って店を出る。一歩外の空気に触れた瞬間、もう表情を取り繕う必要はない。私は夜道で一人、抑えきれずに吊り上がる口角をそのままにした。これだけの金額だ。あのケイとのバイト対決、という名の資産増加レースは、今月も私の圧勝だろう。


 このお金で何を買おうか? いや、衝動的な消費は悪だ。未来への投資こそが正義。着実に資産を増やせる投資信託に回すべきか、それとも会計士の資格取得という自分自身への投資に使うべきか。ああ、悩ましい! お金の悩みというのは、いつだって最高に甘美なものだ。


「結局、お金が世界を動かしているのよ」


 経済学部の教授の言葉を口ずさみながら、慣れた十字路に差し掛かる。あたりはすっかり暗くなり、まるで買い手も売り手もいなくなった真夜中の市場のように静まり返っていた。給料袋をまるで王笏(おうしゃく)のように持ち、ニヤける口元を手で隠す。私の輝かしい未来、いつか築き上げる経済帝国の第一歩。この給料は、その礎となる記念すべき最初の一塊……。


 その時だった。


キキーーッッッ!!!


 耳をつんざくブレーキ音と、視界の端から猛スピードで迫る光。角から飛び出してきたピンク軽トラックが、私の人生の収支報告書に、物理的な強制終了を告げた。


「え」


 ドンッ、という鈍い衝撃。


 体が紙切れのように宙を舞う。手から滑り落ちた給料袋が、スローモーションのように夜空に舞うのが見えた。ああ、私の8万7千円……。私の資産、私の未来、私の……。


(ケイ……)


 そこで、ナツキとしての私の意識は、ぷっつりと途切れた。


◇◇


 次に訪れたのは、奇妙な浮遊感と、微かな光だった。


(……どこだ?)


 ゆっくりと、本当にゆっくりと、意識が浮上する。だが、視界はひどくぼやけていて、何もかもが巨大に見えた。コンタクトが外れたのかと思い腕を動かそうとするが、腕が顔まで届かない。自分の手を見ようとしても、なぜか体が言うことを聞かない。助けを呼ぼうにも、「あー」とか「うー」とか、意味をなさない音しか喉から漏れなかった。


 混乱する思考の中、私は必死に情報をかき集めた。アスファルトの道路じゃない。薄暗い木の壁、床に敷かれた藁くず、そして、私を見下ろす煤けた顔の女……。そのどれもが、私の知る日本の風景ではなかった。


 やがて、私は絶望的な事実を理解した。


 体が動かないのも、視界がぼやけているのも当然だ。今の私は、自分の意思で首を動かすことすらままならない「赤ん坊」なのだから。


 そして、ここは病院や保護施設のような、最低限の安全が保障された場所ではない。女が私を抱き上げるその腕には、焼きごてで付けられたような醜い印があった。それは、近世ヨーロッパを舞台にした映画で見たことがある。


 所有物であることを示す、奴隷の刻印だ。


——目が覚めたら、そこは物置同然の小屋の中。

——そして私は、名前も持たない、奴隷の子供だった。


◇◇


 それからどうやって生き延びたのか、記憶は曖昧だ。いや、思い出したくもない、というのが正しい。確かなのは、気づけば私は10歳の奴隷少女になっていたということだけ。


 陽の光もろくに届かない石切り場で、私はただ黙々とツルハシを振るう。汗と埃にまみれ、手足は傷だらけ。爪の間には砂が食い込み、息をするたびに肺が軋む。食事は日に一度、水で薄められた麦粥だけ。私たちの命は、この石切り場の運営者にとって、元手ゼロで利益を生み出し続ける、最高の金融商品だった。


 それが、ナツキ・カナリア――いいえ、名前すらない奴隷の「私」の日常。


 カナリア、という名前は私が自分で付けた。かつて危険を知らせるために利用されたという「炭鉱のカナリア」。私も、この地獄で生き延びるための危険を察知し続けなければならない。命の危機という究極の状況に追い込まれると、人間は自分の名前にすら、意味を求めて必死に縋りつくものらしい。


 今はそう言って、この世界での理由を思考に貼り付ける。


 エリート意識も、経済学の知識も、とうの昔に価値を失い、記憶の奥底で埃をかぶっていた。生きるためには、考えることをやめなければならなかった。感情を殺さなければならなかった。隣の奴隷が鞭で打たれても、病で倒れても、私の心はもう何も感じない。同情なんていう贅沢な感情は、この生存競争において真っ先に切り捨てるべきコストだった。


 その日も、疲労で崩れ落ちるように物置小屋に転がっていた時だった。不意に、脳裏に懐かしい光景がよぎった。煌々と輝くコンビニの照明。温かい肉まんの匂い。そして、給料袋のざらりとした感触……。


「……パンが、食べたい」


 10年間、一度もこぼしたことのなかった涙が、乾いた頬を伝った。贅沢なんて言わない。ただ、あの頃は当たり前だった、焼きたての、温かいパンが少しでもいいから食べたい。心の底から、腹の底からそう願った、その瞬間だった。


《――お待たせいたしました! お客様からのご要望、確かに受理いたしました!》


 頭の中に、突然、鈴を転がすような明るい女性の声が響いた。


(……なんだ? 幻聴?)


 あまりの空腹に、とうとう頭がおかしくなったのか。私の精神状態は、ついに返済不能なほどに追い詰められてしまったのか。


《いいえ、幻聴ではございませんよ! 正真正銘、お客様の脳内に直接語りかけております!》


 声は私の思考を読んだかのように、陽気に答える。


《《スキル:リスク管理》、ただいま起動いたしました! いやー、ここまで過酷な環境ですと、なかなか意識の表面に浮上できなくて! ごめんあそそばせ!》


「スキル……? リスク管理……?」


 訳が分からず呆然とする私に、声はマシンガントークを続けた。


《お客様のように、天文学的な確率を乗り越え、前世の記憶を保持したまま転生されたラッキーな方には、特典としてスキルが与えられるシステムなんです! ですが、お客様の初期設定が、前代未聞のハードモードでして! システムの起動が大幅に遅延してしまいました! まったく、この世界の運営はどんな危機管理をしているんでしょうね! きっと少女を痛めつけるのがお好きな、サディスティックな神様なんでしょう!》


「……他人事みたいに言うな。私の10年を、なんだと思ってる」


 か細く、掠れた声で呟くのが精一杯だった。


《大変申し訳ございません!》声は心底楽しそうに謝罪した。《さて、自己紹介も済みましたし、早速お仕事の時間です! お客様の願い――『パンを食べる』。その願いを叶えるための、最大効率かつ最適なプランをご提案しますね! まずは、こちらのスキルをお使いいただきましょう! その名も……》


 声はもったいぶるように一度ためて、高らかに宣言した。


《――《スキル:投資信託》!》


 投資、信託。

 その単語は、10年間の奴隷生活で錆びついていた私の脳を、無理やりこじ開ける鍵だった。前世の私が信じて疑わなかった、世界の真理。それを名乗るスキルとは、一体……。


《はいはーい! ご説明いたしますね!》

 私の疑問を先読みし、声――《リスク管理》は明るく解説を始めた。


《《スキル:投資信託》とは、お客様が「これだ」と決めた物体に、お客様にしか見えない特別な『刻印』をつけることで発動します!》


「刻印?」


《さようでございます! そして、その刻印がつけられた物体は、なんと! **1日ごとに2%ずつ増加していく**のです!》


 日利、2%。


 その数字が持つ意味を、私の頭脳は瞬時に理解した。もし銅貨1枚に刻印をつけたら、次の日には1.02枚に。その次の日には、1.02枚がさらに2%増える。雪だるま式に、爆発的に資産が増えていく。かつてアインシュタインが「人類最大の発明」と呼んだ、複利の魔法そのものだ。


《しかも、増えた部分にも刻印は自動で付与されますので、一度発動してしまえば、あとは寝て待つだけで資産が増え続けるのです! どうです? まさにチート能力でございましょう!? 現実世界の市場利回りなんて、もはやゴミのようですね!》


「……そんなうまい話があるか。必ず欠点リスクがあるはずだ」


 世の中に、ノーリスクで大きな見返りが得られる話などない。それは経済の鉄則だ。私の冷静な問いに、《リスク管理》は「おっ」と感心したような声を漏らした。


《素晴らしい! さすがお客様、リスクへの感度が高い! ご名答です! もちろん、欠点(リスク)もございます。まず、この刻印をつけるには、お客様の『魔力』が必要となります》


 魔力。この世界に存在する、万物を動かす不思議な力。そして、私には全く縁のないものだ。転生してすぐの頃、淡い期待を抱いて何度か魔法を試してみたが、何も起きなかった。この地獄に、魔法なんていう救済はないのだと、とっくに諦めていた。


《さらに! 刻印をつけた物体の総額……つまり、お客様の『総資産』が増えれば増えるほど、刻印を維持するために必要な魔力量も、どんどん増えていく仕組みです!》


 なるほど。無限に物が増え続けないための、安全装置というわけか。


 だが、それなら……。


「問題ない。その魔力とやらを鍛えて、私の資産を増やせる上限を引き上げればいいだけの話だ」


 そうだ。まだ希望はある。そう思った、のだが。


《あ、それなんですが……》


《リスク管理》の声が、初めて少しだけ申し訳なさそうにトーンダウンした。


《まことに、まことに申し上げにくいのですが……お客様、魔法の才能が、壊滅的なまでにございません》


「……は?」


《はい。もう、びっくりするくらい、見事に。この10年間で魔力がほとんど成長していないのが、その何よりの証拠でして……。同年代の奴隷市場の平均値と比較しますと、約87%も劣るという、大変残念な結果でございます……》


 チート級の能力と、それを動かすエネルギー源の、絶望的なまでの欠如。


 脳裏に、前世の記憶が再び鮮明に蘇る。煌びやかな未来。築き上げるはずだった私だけの帝国。そして、その全てを無に帰した、一台の軽トラック。何よりも、焦がれてやまない、焼きたてのパン。


 どうやらこの異世界でも、私の人生計画は「理想のゴールテープを切る直前で、必ず何かに横槍を入れられる」という、予測不可能な市場の大暴落に見舞われる運命らしい。

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