第6話 すれ違う心と、ひとりぼっちの浜辺

「私、行きます」

 瑠璃色の海に向かってそう誓ったユイナの決意は、朝の光のように清々しく、迷いのないものでした。けれど、どんなに強い決意も、それだけでは船にはならないし、道しるべにもなってはくれません。カフェ「南十字星」のテラスで腕を組み、水平線を睨みつけてみても、伝説の〝果ての島〟は、相変わらずおとぎ話の向こうに霞んでいるだけでした。

「うーん……」

ユイナは、ぷくーっと頬を膨らませて、自分の月光色の髪の先を指でくるくるといじりました。考えなければならないことが、まるでふわふわの綿菓子みたいに、頭の中でどんどん大きくなっていきます。でも、大丈夫。絡まった釣り糸をほどくように、一つずつ、ゆっくり片付けていけばいいんだから。

 まず、一つ目の問題。それは、ソファで眠り続ける客人さんのこと。自分が島を離れている間、いったい誰が看病をしてくれるのでしょう。薬草を煎じて飲ませて、汗を拭いてあげて……。それは、ただ置いておけばいいというものではありません。

「そうだわ!」

ユイナはぽんと手を打ちました。思いついたのは、島で一番優しい、しわくちゃの笑顔です。彼女は急いで坂道を駆け下り、いつも散歩をしている金城のおばあの家へと向かいました。

「おばあ、お願いがあるの!」

縁側で気持ちよさそうにうたた寝をしていたおばあは、ユイナの切羽詰まった声にゆっくりと目を開けました。

「おやまあ、神様の娘(こ)が、そんなに慌ててどうしたのかねぇ」

「あのね、私、しばらく島を離れなくちゃいけなくなったの。それで、お店にいるお客さんのことなんだけど……」

 ユイナは、これまでの経緯と、〝果ての島〟へ薬草を取りに行かなければならないことを、一生懸命に説明しました。自分のわがままでお店を空けてしまうこと。そして、おばあに大変な役目を押し付けてしまうこと。話しているうちに、申し訳なさで声がどんどん小さくなっていきます。

 けれど、金城のおばあは、黙ってユイナの話を聞き終えると、そのシワの刻まれた手で、ユイナの手を優しく握ってくれました。

「あんたは、優しい子さねぇ」

おばあは、ふんわりと笑いました。

「お父さんの言いつけを、ちゃんと守ろうとしてるんだねぇ。『力は、本当にそれを必要とする人のために使いなさい』って。おばあは、あんたのお父さんもお母さんも、よーく知ってるさ。あんたがやろうとしてることは、きっと正しいことだよ」

「おばあ……」

「お客さんのことは、心配いらないさ。この金城ハル、85年この島で生きてきたんだ。薬草の一つや二つ、あんたに教わった通りに煎じてみせるさね。だから、あんたはあんたのやるべきことを、まっすぐやっておいで」

「ありがとう……! ありがとう、おばあ!」

ユイナの目から、ぽろりと涙がこぼれ落ちました。不安でいっぱいだった心に、温かい光が差し込んだようでした。これで、一つ目の問題は解決です。安心して、旅に出ることができます。

 けれど、もっと大きくて、どうしようもない問題が、まだ残っていました。

どうやって、〝果ての島〟へ行くのか、です。

海図にも載っていない、嵐と霧に閉ざされた伝説の島。普通の船乗りでは、辿り着くことすらできません。

 ユイナは、カフェに戻る道すがら、浜辺へと足を向けました。潮風に悩み事を相談するように、とぼとぼと砂浜を歩きます。

 その時、遠くから威勢のいい声が聞こえてきました。

「そら、もっと引け!」「今日の網は重てぇぞ!」

目を凝らすと、島の若き漁師たちが、力を合わせて地引き網を引いています。その中心で、日に焼けた肌を輝かせながら、誰よりも大きな声で仲間を鼓舞している青年がいました。海人(かいと)さんです。

(そうだ、海人さんなら……!)

彼は、この島で一番、海のことを知っている人。潮の流れも、風の機嫌も、彼の肌は誰よりも敏感に感じ取ります。彼なら、〝果ての島〟への道筋を知っているかもしれない。ユイナの心に、再び希望の灯がともりました。

 網を引き終え、仲間たちと笑い合っている海人の元へ、ユイナは駆け寄ります。

「海人さん!」

「お、ユイナか。どうしたんだ、そんなに慌てて」

ユイナの姿を見つけると、海人は仲間たちに向けるのとは少し違う、照れくさそうな、それでいて優しい笑顔を向けました。

「あのね、海人さんにお願いがあるの」

「なんだよ、改まって。俺にできることなら、何でも言ってくれ。お前は俺たちの福の神なんだからな」

海人はニカッと笑って、自分の胸をどんと叩きました。その頼もしい姿に、ユイナは少しだけ勇気をもらいます。

「私、〝果ての島〟へ行きたいの」

ユイナは、まっすぐに彼の目を見て言いました。

「お願い。海人さんの船で、連れて行ってはもらえないかな?」

 その言葉を聞いた瞬間、海人の顔から笑顔がすっと消えました。彼の周りの空気までが、ひんやりと冷たくなったように感じられます。

「……果ての島、だと?」

海人の声は、さっきまでの快活さが嘘のように、低く、硬い響きを帯びていました。

「なんでだ。あそこがどんな場所か、あんただって知ってるだろ。じいちゃんたちの話じゃ、一度入ったら二度と帰ってこれねぇっていう、呪われた海域だぞ。そんな場所に、なんであんたが行く必要があるんだよ」

「どうしても、行かなくちゃいけない理由があるの。あそこにしかない〝月影草〟っていう薬草がないと、助けられない命があるのよ」

「助けられない命……?」

海人は、怪訝そうに眉をひそめました。

「島の誰かか? 誰がそんな大怪我を……」

「ううん、島の人じゃないわ。今、私のお店にいる、お客さんなの」

 その答えは、まるで引き金でした。海人の瞳に、今までユイナが見たことのない、怒りのような、悲しみのような、複雑な色が燃え上がりました。

「……お客さん、だと?」

彼は、吐き捨てるように言いました。

「この間の嵐の夜に、あんたが担ぎ込んだっていう、あの男か」

「え、どうしてそれを……」

「島は狭いんだ、噂くらいすぐに広まるさ。どこの馬の骨とも分からねぇ、傷だらけの男の看病のために、あんたが店まで閉めてるってな」

海人の言葉は、一つ一つが氷の礫(つぶて)のように、ユイナの胸に突き刺さります。

「違うの、海人さん! あの人は、ただのお客さんじゃなくて……私にとって、大切なお仕事なの! お父さんの言いつけを守るための……」

「お仕事だと!?」

海人の声が、浜辺に響き渡りました。周りにいた仲間たちが、何事かとこちらを見ています。

「そんな、得体の知れない男一人のために、あんたが命を懸けるって言うのか! ふざけるな!」

「海人さん……!」

「俺は行かねぇ! 絶対にだ!」

海人は、ユイナから顔を背けると、きっぱりと言い放ちました。

「あんたをそんな危険な場所に連れて行くなんて、死んでもごめんだ。ましてや、そんな男のために、あんたを危険な目に遭わせるなんてこと、俺が許さねぇ!」

「でも、私、行かなきゃ……! あの人を助けるって、約束したの!」

 ユイナが食い下がろうとすると、海人は一度だけ、苦しそうな顔でこちらを振り返りました。その瞳には、怒りだけではない、深い痛みが滲んでいるように見えました。

「……勝手にしろ」

それだけを言うと、海人はもう振り返ることなく、砂浜を乱暴に蹴りながら去っていきました。仲間たちが何か声をかけていましたが、彼はそれに答えることもなく、どんどん小さくなっていきます。

 一人、浜辺に取り残されたユイナは、呆然と立ち尽くすしかありませんでした。

一番頼りにしていた人に、拒絶された。それも、あんなに激しい怒りと共に。

自分のやっていることは、正しいはず。お父さんの教えを守って、困っている人を助ける、大切なお仕事のはずなのに。なのに、どうして? どうして、海人さんをあんなに怒らせて、あんなに悲しい顔をさせてしまったんだろう。自分の決意が、誰かを傷つけてしまうなんて、考えもしなかった。

 ざあ、と波が足元を洗い、ユイナの決意の足跡を静かに消していきます。さっきまで希望の光でいっぱいだった心に、冷たい夕暮れの影が落ちてきました。

船もない。道しるべもない。そして、一番の理解者だと思っていた人にも、背を向けられてしまった。

「私……これから、どうしたらいいの……?」

 呟いた声は、寄せては返す波の音に吸い込まれて、誰の耳にも届くことなく、ひとりぼっちで消えていきました。

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