川底で光れ

micco

流れる

 夏の繁華街はべったりと暑くて変な匂いがする。

 いま彼氏のミッくんは、あたしの友だちとバーか居酒屋かホテルに行ってる。三人で飲むと最近はいつもこうなる。「ヨリ、お前は先に帰るんだろ」慣れ親しんだその予備運動かくにんにあたしは「うん」と返す。けせらせら。

 それで面倒で黙認してたらミッくんとは半年レス、気づいたら同じ職場のサノちゃんとそういうことになってる。知らないフリも結構大変。ミッくんにとっては、私にも羽振りよく飲ませて二次会行くフリしてよく分からんアリバイづくりで「自分ち帰る」ってLINE寄越すまでが遠足、じゃなくて謎の配慮。

 「じゃあ」「おやすみ」反対方向に三歩だけ歩いてから、本当は二人と同じ道だってことに気づく。はぁ。どっかにゆっくりコーヒーとか飲めるところないかな、ないや。

 とりあえず目の前にあったビル居抜きの狭いコンビニに入った。パン棚の前まで行って、百三十八円のあんバターコッペパンか百五十二円のハムたまごトーストかで迷ってるうちに急に全部いやになった。朝パンなんか知るか。どっか行こう。川がいい。あそこは涼しいから。


 地図アプリを見ながらコンビニから離れて知らない住宅街を進む。二十三時、静かで自分の靴の音が一番煩い。七センチのヒールがカツカツ鳴る音に謎に煽られて、あたしはずんずん歩く。点々と白いまだ起きてる部屋を通り過ぎて何度か曲がって、ローカルな道路に出た。まっすぐ行く。ごみごみした場所から離れると蒸し暑さもマシ。その辺の草むらからはか細い虫の声なんかも聞こえてきて結構秋っぽい。夏も終わるんだ良かった、長けりゃいいってもんじゃないからさぁ。

 ほろ酔いに風が吹いて心地いいなんて思ってたら、あのいけ好かない音楽ばかり流れる硬くて座り心地の悪い椅子の店の景色が目蓋に映った。『ロマンス 洋楽』あたりで検索ヒットしそうな安っぽい曲の雰囲気と、丸テーブルでトライアングルな配置のおかげで、あたしが口を開くと目くばせし合うのがはっきりと見えたことまで。

「はぁ、くだらな……」

 帰ったら白シャツを畳もう。こう見えてあたしは服をきちっと畳むのが大好きだ。ストレス解消になるレベルで。洗濯機に洗剤を入れるのも干すのも大嫌いだけど、乾いた服をぴっちり美しく畳むのだけは好きこそものの上手なれ。浮気してる彼氏のシャツだとしても楽しいから趣味としては本物だと思ってる。なんでクリーニング屋に就職しなかったのってサノちゃんにも言われた。だってハンガーに掛けて終わりでしょ。 

 あぁサノちゃんを思い出した。今頃きゃっきゃうふふしてんのかな。彼女はあたしより二歳下でとにかく身綺麗っぽくしている――っぽいというのはミッくんの他にも相手がいそう――から会社でもモテる。あたしはと言えば同棲もそろそろ三年目に突入で、恰好は気が抜けてると言われればその通りだし肌も荒れ気味。予定がある三日前くらいから慌ててパックしては、何とか潤いをキープしてる。

 寝取られるのは時間の問題だったかぁ?

 いやいやおかしいのはミッくんだよな。それとも寝取られてもそのままにしてる、あたし?

 考えないようにしていた問題とか場面が細切れに頭に浮かんでは消える。 

 人と飲むときは羽振りがいいミッくんだけど、家ではカップ麺ばっかり食べてて「節約してんだよ」って鼻に皺を寄せる。一番安いし腹もあったまるってそればっかり食べてる。一緒に住んでたって時間帯が合わないからそれぞれ楽に好きな物食べてるあたしたち。

 毎日手料理作れってうるさい男と浮気する男のどっちが世間的には煩わしいんだろ? たぶん浮気、一般論は知ってる。ミッくんが調子に乗って頼んだフィレ肉もっとちゃんと食べとけば良かった、彼女面してあともう一切れだけでも。ってか彼女ってあたし? もはや浮気恋愛のスパイスでは。そっちを普通の恋愛にすればよくない? なんで間にあたしを挟むの、別れるって言えばはぁいって返事してやるのになぁ!

 三角錐に夜を照らす外灯がチカチカするのを過ぎたとき、名案が浮かんだ。

 そっかあたしもヤるか。

 あいつらが好きなようにしてるなら、あたしも好きにしていいんじゃん?

 何の疑問もなく貞操を守っていたけど、そんな義理はないんじゃない? だってあたしたち結婚してなかったわ。

 ヒールが小石に当たって、ガッと鳴った。あ、今のは傷ついちゃったな、気に入ってるのに。思った途端、怒りが沸いてきた。むかむかして踵を打ち鳴らす速度を上げる。体中が熱い。

 昨日まで、いいやさっきのさっきまでのあたしは諦めとか悲しさばかりで、星占いとか見て「あーぁやっぱり運気悪いのかぁ」「仕方ないやどうしようもない」って暮らしてきた。けどそうだよ単に自分を慰めてただけ、気持ちよくもない上っ面だけの言葉で誤魔化して、ちょっとイイ感じだった過去を何度も擦って。ミッくんと一緒に果てる日はもう来ないのに。

「次、会った人と絶対セックスする」

 何だっていい、人間の形をしてれば。痛くたってなんだって。そうすればすっきりする気がする。ううん、そうしないと一生すっきりしない。そんでシャツ洗濯して寝る。あたしは足音を殊更鳴らして歩いた。



 ようやく土手らしき山っぽいシルエットが見えた頃には運動不足の足裏がへばっていた。残念ながらここまで誰にも会わなかった。

 自治体に散歩コースに認定されてるのか等間隔で外灯が立っている。人が住んでるのか怪しい民家の隙間をぬって土手に上がる方法を探した。子どものときならともかく、普段なら不法侵入になるとか思って通らない隙間も。ふん、不法侵入がこわくて人が襲えるか。訴えてやるって出てきた瞬間しなだれかかってやる、来るなら来い。――あったあった、古いひとり分の幅しかないコンクリの階段が、スマホのライトを灰色に照り返した。まるで夜の空に続く階段みたいに見えた。上がりきるとざあざあと水の音がしていた。

 蚊に刺されて痒いのとか最悪だから、透け感ゼロのデニムで正解。でも半袖だから腕は刺されるかも。

 土手っ原は真っ暗。道を垂直に外れて坂を下りたら、いつのまにか腰のあたりまで埋もれてた。水の音が大きい。ざざぁざざぁ。そういえば昨日は雨だったっけ。

 かき分けて前に進むと急に足元の感触が変わった。ヒールが引っ掛かる。虫が来るからと封印してたライトを点けてみると地面はコンクリじゃなくて、大きめの石が敷き詰められて針金で留めてある、たぶん第一次的な堤防。本当の川っぺりに出ていた。

 Googleに導かれて来た川だからどんだけ広くて深いのかも知らない。土手上の明かりも届かないし手元のライトも光が吸収されてるみたいに暗くて役に立たない。

 ただ、水が動くせいか時々風が吹いて気持ちが良い。どっかに座って堪能したい。十月だってのにまだ暑い。真夏には職場のマリーゴールドが枯れた、一日水をあげなかっただけで。雑草も生えない地面じゃ人間だってまともに生きてらんない。

 あ、もしかしたらミッくんが浮気症になったのは暑くておかしくなったのでは。違うわ冬からだった、ダメだこりゃつける薬はねぇな。

 なんとなく左に進む、川上のような気がして。地面がでこぼこして歩きづらいけど繁華街より住宅街より空気がいい。「涼しいすずしい」と声に出して進む。川上に向かってるならいつか山に着くかな。

 あたしの生まれた家は川沿いの土手の上で、大雨が降ると冠水しそうになる場所にあった。今はもうマンションに越したからないけど、川の側は落ち着く。

 もし川下に向かってるなら海に着くのかな。いやここ内陸県だった。さすがに無理か朝になるのが先か。海は好きじゃない、しょっぱいから。

 どうせなら河童とか出てくればいい、引きずり込んでくれてもいい。待てよそうなると河童と致すことになるのか、それはさすがに異種格闘技すぎるかな。まぁ人の形はしてるし、いける?


 たぶん五十メートルごとの外灯の土手下はちょっとだけ明るくて、あたしは灯りを背にして立ちどまった。しゃがんで水面を覗きこんだ。あぁ川下。

「クソが」

 口にしたことない悪態が出た。黒い水面が時々光る、あたしはそれをじっと見た。

 ミッくんは別にイケメンではないけど意地の悪い男じゃない。普通だ。手を繋ぐタイミングもキスも、セックスも。よくある出会いに付き合い。物足りないなと思うことはあっても優しいからいいか、ちょっと変わってるけどまぁいいか、サノちゃんとヤり友になったのかまぁいいか、まぁいいか、いいか、まぁ。

 いいか?

「いっ……歩きづらいんだよ!」

 立ち上がった瞬間、左足がぐにゃった。石敷の針金が引っ掛かるし、草の生えてるところは地面が緩くてなにを踏んで歩いてるのか知れない。

 汗がうなじを撫でるように落ちてった。さっきまであんなに涼しかったのに酷い。痛い。

「クソぉ」

 足首の痺れにじっとしているとスマホが鳴った。することもないからのろのろと見た。

『今日は自分んち帰るわ』

 ぽちゃ。ざざぁ――――。

 空になった右手を見下ろした。まだ画面で網膜が灼けてるから短い生命線も見えない。スマホって平べったいから水切りみたいに飛ぶのかな、試せばよかった、ライト点けて飛ばしたらきれいだったかも。光ってたはずのあたしのスマホはもうどこにも見えない流されたんだ、川の力はすごいから。

 左足を引きずってそのまま、少し悩んで川下に向かった。



 五十メートルくらい歩いたところであたしは一度目を擦った。おもちゃみたいな小さいポップアップテント。一瞬夢かと思ったけど、それはあたしの歩くコンクリの道を塞ぐようにしてかすかに揺れていた。吹けば飛びそうな薄さで、中には誰かいる。スマホの明かりが安っぽい水色のナイロンに人影を浮かべていた。

 酔いが覚めかけていたあたしは俄然元気を取り戻して「こんばんは」と声をかけた。そうだあたしはヤらなきゃ。でも恐ろしいほどのがらがら声が出た。そのせいか中の人は返事をしない。

「こんばんはってば! いるのは分かってんのよ」

 どっかで聞いた陳腐な台詞で、そのファスナー式の入口は開いた。ぬっと顔らしきものが出てきて「何ですか」と言った。男の声だ。あたしは「ちょっと入らせてよ」と近づいて手探りでファスナーを下げた。

「えっ! ちょっと!」

「お邪魔……もっとそっち寄って入れない」

「いや入るなよ! おいッ」

 男が暴れてあたしは中腰の体勢を崩して転んだ、手を伸ばしたけど頼りないテントは当然倒れて、あたしはナイロン越しに草の感触を味わった。……ぽちゃ。何か落ちたらしいけど関係ない、もがいて仰向けになった。わっと一後転した隣の人と肩がぶつかる。頭にごついリュックか何かが当たった。腹や足にクッションみたいな軽いものが降ってきた。狭いし、頭の方に傾斜して微妙に気持ち悪い。

「はぁ、何なんだよあんた。……酒くさ。酔ってんのか?」

 男がうんざりした声で言った。男のスマホの明かりが宙を向いた入口を照らしていた。目を凝らしても星なんか見えない泥みたいな空の下。

「たぶんね」

「最悪」

 すると横になったせいか視界が回り始めた。ぐるぐるだ。

 「おい、テント起こすからどけよ」ダメだ体が急に重い。「無理」「はぁ? ふざけんなよ」腕をとられて引っ張られると、ぐらんと脳が水に浸かって浮いたみたいな感覚がきた。あぁワイン飲むとなるんだよな。反対の肩を男の手が支えて無理やり起こされた。腰は据わってるけど上半身はまるでタコかイカで、自分でも制御できない。重いとか、ほらとか言われながらあたしは手伝ってもらいながらお尻をずらした。そこであたしは眠ってしまったらしい。

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