高校生、うっかりマズローを論破してしまう

シンリーベクトル

明日から本気出す


昼休み。 廊下の隅でパンをかじっていると、クラスでも活発な小柄な女子・佐伯が勢いよくやってきた。

「ねえ、人ってなんでやらなきゃいけないことを後回しにするの? 前の数学の授業の宿題、先延ばしにしちゃって結局やらなかったんだけど……」

またお前か──そんな顔をしながら、俺はパンを噛みつつ教室を観察する。 スマホをいじるやつ、机に突っ伏すやつ、提出物を放置するやつ。 そして、父の姿がフラッシュバックのように浮かんだ。 「明日やる」と言いながら、何もしないで酒の缶を並べていたあの情けない背中。胸の奥がざわつき、苛立ちが込み上げてくる。

「知らねーよ! 防衛本能だろ!!」

俺は思わず声を荒げてしまった。佐伯が少しびっくりした顔で首をかしげる。 「それって?」

「人は未知な体験に不安を感じるようにできてんだよ! 勉強も仕事もほんとはやりたくない、やればどんな失敗やトラブルが待ち受けているかわからないだろ? だったら“やらない”ほうが安全だと体が勝手に判断するんだよ」

背後から声がした。 「現状維持で安全を保とうとする……」

髪が少しボサボサとした白衣姿の西村が立っていた。ポケットから巻尺がのぞき、明るい表情に理系女らしい好奇心が満ちていて、目がきらきらと輝いている。理系気質さえなければきっと人気者だろうに……

佐伯が「じゃあ行動するには?」と聞く。 俺はまだ苛立ちを抑えつつ、めんどくさそうに 「物と同じで、最大静止摩擦係数を超えるベクトルを与えてやるのさ」

佐伯がぽかんとする。 「つまり?」

「“やる気”とか“動機”とか“お金”、あらゆる物を足して摩擦の数値を超えた時、動き出すのは必然さ」

西村が口を挟む。 「電気の抵抗が電圧で超える感じか!」

佐伯は「ふーん……なんかわけわかんないけどカッコいい……かな?」と笑った。

俺は続けた。 「本来人は怠け者なのさ。逆に言えば、この動機とこの給料と社会的体裁やその他を足して動き出した数値が現在のお前の防衛値ってわけさ」

西村が頷く。 「ならば習慣ってのは、不安要素が割引されて抵抗の値が低いわけか!」

佐伯は「君たち……変人だねw」

西村は小さく笑い、手帳に何かを書き込んだ。 「不安除去のループ……いい実験になりそう」

佐伯は満足そうに「ありがと!」と言って去っていった。 ほんとうにわかってんのかね。

──春の日差しが暖かくのどかな校庭に、昼休みの終わりのチャイムが響いていた。

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