ギャルの取り巻きその2と、お気に入りのサボり場で。
紙城境介
〈前編〉ギャルの取り巻きその2
人生には、逃げ出したくなるようなときがある
例えば、テスト前日なのに全然勉強してないとき。
例えば、せっかくの修学旅行なのに班に全然馴染めてないとき。
例えば――
「でさー! そいつマジありえなくて! ウチになんて言ったと思う!?」
――合コン相手の悪口を大声で披露しているギャルのデカケツに、自分の机が占拠されているとき。
俺は自販機で買ってきた缶コーヒーを片手に、すっかり尻に敷かれてしまっている自分の机を見つめた。
昼休みにほんの少し教室を離れただけだっていうのに……とんでもねえハイエナがいやがるもんだ。
そもそも、他人のものを何の遠慮もなく尻に敷けるその神経は一体どうなってんだ? 一度なってみたいぜ。こいつみたいなメンタルに。きっと毎日、さぞ楽しいことだろうよ。
この女――
すべてを照らし、すべてを惹きつけ、そしてすべてを自分中心に回す。
ただ声がでかいだけのギャルじゃない。独特の人懐っこさと性格の明るさで、学年に友達じゃない奴なんていないんじゃないかってくらいの交友網を構築している。
だからきっと、俺の机を私物扱いしているのも、『友達のものをちょっと借りてる』ぐらいの感覚なんだろう。
俺からすると、特に話したこともない奴に教室の居場所を占拠されて、まったく居心地が悪いったらない。
多分、そういう感覚はわかんねえんだろうな。こういうタイプの人間には。
どうするべきか。声をかけるべきか。それもめんどくせーな――と思っていると、ようやく先光寺の目が俺の方を向いた。
「んー? あれ? あ、もしかしてここ、君の席だった?」
「……一応そういうことになってるな」
教室の席に権利書があるとすれば、間違いなくこの机は俺のものだと記載されているはずだ。
「ごめんごめん! ちょっと借りてるねー! ――で、続きなんだけどー」
悪びれもしなかったし、ケツをどける気配もなかったし、当たり前のように雑談に戻っていった。
さすが恒星は伊達じゃない。自分中心に世界を回すことに何の遠慮もない。
哀れ、俺たち惑星はその名の通り、周りを惑うばかりである。
あー……めんどくせえ……。
先光寺をどかすのを半ば諦めたとき、ちょうど言い訳を与えるように、黒板の横に掲示された時間割が目に入った。
次の時間……体育か。
俺の中のめんどくせえゲージが振り切れる。
そう、人生には逃げ出したくなるようなときがある。
それが今なのだ。
俺は缶コーヒーを手にしたまま、先光寺に背を向けて教室の出入り口に足を向けた。
と、そのとき。
俺の視界の端に、気になる動きが引っかかった。
先光寺が雑談に興じているということは、当然ながらその話し相手がいるということだ。
俺が惑星だとすれば、そいつらは衛星――まあ太陽に衛星はないと思うが(あるとすれば、それは太陽系すべてだ)、それはおいといて。
先光寺には、『取り巻き』と言ってもいい女子がふたりいる。
取り巻きその1は髪を明るくした、いかにもギャルっぽい……というか、ほとんど先光寺のコピーみたいな女子。
そしてその2は、それとは反対にダウナー系というか、物憂げな雰囲気をたたえているウルフカットの女子だ。
そいつが――その2の方が。
先光寺に見えないところでこっそり、俺に向けて顔の前で手を立てていた。
『ごめん』
声もなく、口の動きがそう言う。
どう対応するのが正解かわからずに、俺はただ会釈をして教室を出た。
まさか、謝られるとは思わなかった。
ああいう連中はグループまるごと、自分たち以外の人間はおもちゃだと思ってるもんかと思っていた。
特にあいつは、いつもつまんなそうな顔をして、近づきがたいっつーか……はっきり言っちまえば、ちょっと見た目が怖い。
悪い友達と夜遊びでもしてそうな雰囲気なのだ。
なんて名前だったっけ、あいつ。
確か――そうそう。
それが俺の、ギャルの取り巻きその2を個人として認識したきっかけだった。
この高校では、昼休みと放課後に屋上が生徒に開放される。
風がよく通り、腰を落ち着けるベンチもあり、真夏と真冬以外にはそこそこの人気を誇る空間だ。
まあつまり、春と秋がほぼ消滅した令和の日本においては、そこまでの人気はないってことなんだが。
俺は嫌いじゃない。
学校にいながらにして、授業も生徒も教師も現実も何もかもが遠ざかり、束の間の孤独に浸ることができる。
だからまあ、チャイムが鳴って体育の授業が始まってからも、こうしてベンチに身を横たえて、青い空を眺めているわけだ。
「ふあーあ……」
ワイヤレスイヤホンから聞こえてくるオーディオブックの音声に耳を傾けながら、俺はでかめのあくびをした。
屋上が生徒に開放されるのは昼休みと放課後だけ。
つまり、授業中は生徒も来なければ教師も来ない。絶好のサボり場所だ。
授業中だと屋上に出るドアが施錠されちまってるっていうのが玉に瑕だが、それにも実は抜け道があった。
校舎の外壁についてる非常階段から上がってくれば、施錠されたドアをスルーして屋上に入ってこられるのだ。
それに気付いてからというもの、俺は仮病を使って保健室に行くのをやめ、ここで空を見上げながら読書をしたり動画を見たりするようになっていた。
こうしている間もモリモリと内申点が減っているわけだが、まあ、それは今更の話だ。
1年以上先の受験のことは、1年以上先の俺が考えるだろう。
そうしてぼんやりとオーディオブックを聞き流していると、ギシッと古い金属が軋む音が頭の上の方から聞こえてきた。
ベンチに横たわったまま首を反らしてそっちの方を見ると、見覚えのある女子が錆びた鎖をまたいで屋上に入ってくるところだった。
「――あれ」
そいつはベンチの俺を見て首を傾げる。
「珍し。人いるじゃん」
少し青みがかったウルフカットに、細い首を飾る黒いチョーカー。
進冬千秋だった。
ついさっき認識したばかりの人間が、俺以外に誰も見たことのなかったサボり場に姿を現したことに、一瞬、夢でも見ているのかと錯覚する。
しかし考えてみれば、こいつもまた俺と同等以上のサボり魔だ――朝には見かけたはずなのに昼からはいない、ということが頻繁にある。
進冬は近くまで寄ってくると俺の顔を覗き込んで、意外そうに言った。
「誰かと思ったら……夏陽に席取られてた奴じゃん」
「その説はどうも」
俺はイヤホンのノイズキャンセリングを切ってそう言った。
進冬は首を傾げて、
「なんて名前だったっけ」
「別に思い出さなくていいんじゃねえの。元からその程度の認識だったんなら」
「ちょっと待って。覚えてるから……えーと……見た目に似合わず、スカした名前だった気がする……」
言ってくれるぜ。これでもそこそこ気に入ってるんだけどな。
進冬はしばらく眉根を寄せて考え込んでいたが、ほどなく諦めたようだった。
「場所空けてよ」
「ベンチなら他にもある」
「わざわざ遠ざかる必要ある? 気まずいじゃん。せっかくサボってんのに気まずいのは嫌」
一理ある。
授業をサボったときは、できる限り自由な気分でいるべきだ。
俺は上体を起こしてベンチを半分明け渡しながら、進冬の顔を見上げる。
「ひとりか? いつものふたりはどうした」
「たまには息抜きしないとでしょ」
「先光寺の相手は仕事かよ」
「あいつには内緒ね?」
かすかに笑いながら、進冬は俺の隣に腰掛ける。
それから、手に持っていた三ツ矢サイダーの蓋をひねった。
プシッと、炭酸が抜ける音がする。
「いいとこに目つけてんじゃん」
そう言って進冬は三ツ矢サイダーに軽く口をつけた。唇がかすかに濡れる。
「あたしもたまにここ使うんだよね。授業中誰も来ないし、簡単に忍び込めるし……ちょっと暑いのがあれだけど」
この屋上には庇なんていう気の利いたものは存在しない。
照りつける直射日光がベンチの座面とコンクリートの床を容赦なく熱し、その上にいる人間をジリジリと焼き焦がしている。
冬の名残もとっくに抜けた。あと1ヶ月もすれば、盆地特有のサウナみたいな蒸し暑さが本気を出すだろう。その頃にはここをサボり場にするのもきつくなっているかもしれない。
今のところは転落防止フェンスの向こうから吹いてくる風とで、まあトントンってところか。
「よく気付いたな、非常階段の抜け道」
「まあね。探検とか意外と好きだから、あたし」
進冬は三ツ矢サイダーをちびちびとゆっくり飲む。
炭酸を一気に飲んでゲップを出すことを気にしているのかもしれない。意外と。
「今日はなんでサボり? 夏陽に席取られて嫌になった?」
「そのくらいで嫌になるかよ。めんどくさくはなったけどな――突発的にあるんだよ。何もかも面倒になって、疲れちまうときが」
「あー……わからんでもない」
いつの頃からかそうなっていた。これは俺の性質だ。
めんどくせえという気持ちが全身に込み上げてきて、どうにもならなくなるときがある。
これが俺の怠惰さゆえなのか、そこのところはわからないが、俺にとってその感情はどうにもこらえがたいものなのだ。
医者にも『休みたいときには休んだ方がいい』と言われている……。今のところそれを免罪符として、俺はサボりを自分に許している。
「さっきは夏陽がごめん。あいつ、自分以外の感情に鈍感な奴だから」
「別に気にしてねえよ。どっちかと言うとお前が謝ってきたことの方が意外で印象に残ってた」
「友達が人に迷惑かけてたら謝るでしょ、普通」
「その普通ってやつは、案外普通の人間には難しいもんだと思うけどな」
ペットボトルの口に軽く唇をつけたまま、進冬はちらりと横目で俺の顔を見た。
「あんたって意外と、頭良さそうなこと言うんだね」
「本当に頭のいい奴は、頭良さそうなこと言わねえけどな」
「それそれ。そういうの」
そこで進冬は、何かに気付いたかのようにびくっとまぶたを震わせて、飲みかけの三ツ矢サイダーを唇から離し、それをじっと見つめた。
それから――
「これ、飲む?」
と言って、その飲み口を俺の方に向けてくる。
俺はそれを見つめた。
「……なんで?」
「さっきのお詫び。もう半分しかないけど」
日本円にして75円ってところか。妥当な値段ではある。
だけどしかし、ついさっきまで進冬自身が口をつけていたっていう事実が、さすがに気にはなってくる。
小学生やませた中学生でなくとも、それは衛生的に必然の感情である。
世界的なパンデミックによって全人類に植え付けられた、必然の――
「何?」
俺が黙って飲み口を見つめていると、進冬はにやっと口の端を片方だけ上げた。
「もしかして、間接キスとか気にしてんの?」
「違う。俺が気にしてるのは衛生面だ」
「ふーん?」
意味ありげにそう言うと、進冬はぐいっとペットボトルの飲み口を近づけてくる。
「おい……!」
俺は反射的に首を横にひねって、飲み口から唇を逃がした。
しかし進冬は手を止めず、そのまま飲み口を俺の頬に押し付ける。
「はい、間接ほっぺチュー」
俺が苦々しい顔をすると、進冬は勝ち誇るようににんまりと笑った。
それから進冬とは、しばしば屋上で遭遇するようになった。
顔を合わせたからって特に何をするわけでもない。
お互いにスマホをいじっているだけのときもあるし、気まぐれに趣味の話をすることもある。
俺がいつも聞いているのがSFやミステリーのオーディオブックだと知ったら、ずいぶん意外そうな顔をされた。
「文字だけの本とか、2ページくらいで寝ちゃいそうな顔じゃん」
とのことだ。まったくもって不本意である。
ちなみに俺がオーディオブックを愛用しているのは、文字を読むと眠くなるからではなく、直射日光の下では紙の本も電子書籍も読みにくいからだ。
趣味といえば、こんな会話もした。
「進冬ってバンドやってそうな見た目だよな」
「それめちゃくちゃ言われる。ちょっとチョーカーつけてピアスつけてるだけじゃん」
「いつもパチンコ屋にいるバンドマンの彼氏いそう」
「それもめちゃくちゃ言われる。みんなあたしのことなんだと思ってんの?」
進冬千秋は、一般に思われているほどアウトローではなく、ほどほどに漫画を読み、ほどほどに音楽を聴く、普通の女子高生に過ぎなかった。
ギャルの取り巻きとしか認識していなかった頃には考えもしなかったほどに。
だから知れば知るほど違和感がある。
「進冬ってさ……なんで先光寺の取り巻きなんかやってんの?」
何度目かに顔を合わせたとき、俺はついにその疑問を口にした。
進冬はもうひとりの取り巻きのように、先光寺に心酔してるって感じじゃない。
誰か人気者の威光を借りなければ学校生活に支障をきたすってタイプでもない。
むしろ、程よい孤独を好むタイプに見える。
こうしてクラスを離れて静かな時間を過ごしていることが、その証明だった。
「別に……取り巻きのつもりはないよ」
進冬は昼下がりの太陽を見上げながら言う。
「ただの幼馴染み。小学校の頃からの腐れ縁ってやつかな」
そりゃ親近感のある話だ。
実は俺にも、幼馴染みと言える奴がいる。
まああいつは、先光寺の対極に位置しているような奴だが……。
「先光寺って、小さい頃からあんな感じだったのか?」
「あんな感じって?」
「なんつーか……自然と空間の真ん中に収まっちまうタイプ」
「……そうだね……。昔からあんな感じだった。でもあたしはそういう柄じゃないから、取り巻きに見えてるだけ」
進冬はそう言って、かすかに目を細めた。
「ただ、あいつが……あたしよりも、眩しすぎるだけ」
太陽を直接見ると目が潰れる。
それを最初に注意されたのはいつのことだろう。
眩しすぎる光は凶器となることを――そばにいればいるほどその身を焼かれるということを――理解したのは、いつのことだったか。
俺はなんとなく、そんなことを考えたのだった。
「おーい」
暗く沈んだ意識の外から、かすかに進冬の声が聞こえてくる。
重いまぶたを上げると、青空の手前で進冬が俺を覗き込んでいた。
「よくこんな明るい空の下で昼寝できるね」
「ああ……得意技なんだ……」
しわがれた声で答えながら、場所を空けないと、と自然と思う。
上体を起こすと、進冬はいつものように俺の隣に座ってくる。
俺はベンチの肘掛けにもたれかかって、大きなあくびをした。
「そんなに眠いの?」
「昨日……ちょっとな」
別に夜更かししたわけじゃない。
なんとなくよく眠れない――そんな夜は、誰にだってある。
「保健室に行こうかとも、思ったんだが……目付けられてんだよな、俺……」
「仲間じゃん。あたしも同じ」
そう言うと、進冬は何かを考えるように目をそらし、それから、何かを思いついたようにニヤリと笑った。
「じゃあ、寝る?」
ポン、と。
進冬は軽く、自分の太ももを叩いた。
「は……?」
「健やかな睡眠には、枕が必要でしょ」
俺の目はどうしようもなく、スカートから伸びる白い太ももに引き寄せられた。
確かに、寝心地は良さそうだ……。太くて……肉付きが良さそうで……。
ああダメだ、眠くて頭が回らん。
俺は気付けば吸い込まれるように、頭を進冬の太ももに乗せていた。
「おお……」
ふんわりと後頭部を支える柔らかな感触に、俺は少し感動する。
胸の膨らみの向こう側から、進冬がくすぐったそうに笑いながら見下ろしてくる。
「どう? 寝心地は」
「安定感がすごい……」
「それ褒めてんの?」
進冬は咎めるように目を細めた。
「今日から枕はこれにする……」
「それじゃああたしが寝れないじゃん、夜」
「……………………」
「あ、ちょっと……」
俺は寝返りを打ち、進冬のお腹に顔を押し付けるようにした。
こっちの方が安定感がある……。
「それはさすがに……く、くすぐったいってば……」
「…………すう……」
「……もう……」
遠ざかっていく意識の中で、誰かが頭を、優しく撫でた気がした。
「今度はあんたが……してよね。その……腕枕、とか」
なんてね。
と、恥ずかしさを誤魔化すように付け加えられた声が、眠気の中に響いた。
俺は別に友達がいないわけではない。
クラスで話す相手だって何人かいる。
しかしながら、話すことよりも聞くことの方に重点を置いているのは確かかもしれない。
誰かと話をするとき、自分が何を話すかをまるで考えていない。
そうすることしか知らないかのように、ただ相手の話に耳を傾けている。
ともすると聞かないよりはマシなのかもしれないが、だからといって相手に親身に、あたかもカウンセラーのごとく傾聴しているかというと、別にそういうわけでもない――聞いているふりをしているだけ、理解しているふりをしているだけ、そんな風にも思える。
まあ、そんな俺の自己分析はどうだっていい。
つまり何が言いたいかと言うと、俺は意外と、教室にざわめく喧騒に聞き耳を立てているタイプだということだ。
だからこんな話も耳に入ってくる。
「千秋ってさー、好きな人とかいないの?」
顔を見るまでもない。先光寺夏陽の声である。
そしてその言葉を投げかけられたのは、これもやはり顔も見るまでもない。進冬千秋である。
進冬は退屈そうにスマホをいじりながら、ぶっきらぼうに答えた。
「いるように見える? 柄じゃないから、そういうの」
確かに柄じゃない。
見た目のスペックで言えばひとりやふたり――いや、3人や4人いたって不思議ではないものの、恋愛という柄ではないのは確かだった。
柄じゃないのと興味がないのとは、また別の話だが。
「いや、実はさ! この前、他校の男の子と知り合ったんだけどさ!」
投げかけられた話題に対して、進冬はバリアを張ったように俺には見えたが、先光寺はそんなこと気付かなかったかのように前のめりで続けた。
「これがまた絵に描いたようなイケメンでさー! ウチのタイプじゃなかったんだけど、でも、千秋のこと話したら興味ありそうな感じで――」
おっと。
話がちょっと不穏になってきたぞ。
「マジで好感触だったからさ! 今度ウチともうひとり男子混ぜて、ダブルデートとかできたらいいなって盛り上がって――」
「…………そういうの、一回でも頼んだことある?」
底冷えのするような。
もしかすると、一瞬吹雪が吹いたかもしれないと思うほどの、低くて冷たい声だった。
怒っている。
誰がどう聞いたって怒っている。
教室の全員がその会話を聞いていたわけではないはずなのに、一瞬クラス全体にピリッと緊張が走った。
授業中にスマホが鳴ったときみたいに空気が凍り付き、教室が静まり返る――
――なんてことはなく。
その寸前に、先光寺がケロリと笑って、こう言った。
「ごめんごめん! ちょっと話に出しただけだから! 心配すんなって! ウブだな~!」
その明るい声で、教室に走った緊張は一瞬で溶けてしまう。
太陽が雪を溶かすよりも早く。
あたかも、細い藁に火をつけたかのように。
とんでもない奴だと感心した。
千光寺夏陽はどうしようもなくデリカシーのない奴だが、しかしその一方で、空気を良くすることにかけては掛け値なしの天才だ。
空気清浄機よりも優秀である。きっとあいつのそばにいたら、花粉症も治ってしまうことだろう。
「……ごめん」
一方で。
先光寺が太陽のように照らした空気の真ん中で――
――進冬は縮こまって、小さな声で、そう呟いていた。
その後の授業が始まったとき、進冬の席は空白になっていた。
教師はそれを見て一瞬眉をひそめるも、何事もなかったかのように授業を開始する。
目をつけられてるし、諦められてもいるんだろうな。俺と一緒で。
ぼーっと話を聞いていればそれで済む授業だったし、俺はサボる気がなかったのだが、恥ずかしながら俺には、ぼーっと話を聞いている程度の能力もなかったらしい。
空白の席が気にかかる。
進冬は今頃、あの屋上のベンチに座っているのだろうか。
ひとりで空を見上げて、三ツ矢サイダーでも飲んでいるのだろうか。
ゲップをしないように、ちびちびとゆっくりと。
『……ごめん』
小さく、まるで恥じ入るように呟いたあの声が、耳の奥から蘇る。
人生には、逃げ出したくなるようなときがある。
それは面倒な問題と対面したときだけじゃない。
例えば、先生をお母さんって呼んだとき。
例えば、呼ばれたと思って振り返ったら知らない相手だったとき。
例えば、何気なく投稿したSNSの内容がクラスに出回っていたとき――
やらかしてしまった過去から遠ざかりたいとき、人は心の底から逃げ出したいと思うはずだ。
孤独を求めて――自由を求めて。
「……先生」
俺は手を上げて、教師にこう発言した。
「気分が悪いので、保健室に行ってもいいですか」
普通に仮病を疑われたが、強引に教室を出た。
行き先は、当然ながら保健室じゃない。
非常口から外に出て、錆びついた鉄の階段をカンカンと音を立てて登る。
高所恐怖症じゃなくてよかったと心底思う。もしそうだったら、下が透けて見えるこんな階段登ってられないし、ここが抜け道として機能していることなんて知る由もなかった。
申し訳程度に封鎖を主張している鎖をひょいとまたいで、俺は屋上の床に足をつける。
進冬の姿は、いつものベンチにはなかった。
そこから反対側の、転落防止用フェンスの手前にあった。
もしフェンスがなかったら飛び降り自殺を疑うところだが、彼女は吹き抜ける風に髪とスカートの裾を揺らしながら、体育の授業が行われている校庭を見下ろしている。
「よう」
軽く声をかけた。
いつも通りに。
進冬は顔だけ振り返り、なびく髪を手で押さえると、自嘲するように小さく笑った。
「どしたの?」
「別に。授業がつまんなかっただけだ」
「つまんないよね、あの先生の授業。昼寝した後でも眠くなる」
そう言って再び、進冬はフェンスの向こうの校庭に視線を戻す。
「……意外と目ざといね。それともこの場合は、耳ざといって言うのかな」
独り言のようにこぼされた声を、俺はそれこそ耳ざとく聞き取った。
「悪いな、盗み聞きみたいな真似して」
「言っとくけど、あたし、あのくらいのことで傷ついたりしないから」
「わかってるよ」
傷なんて大袈裟なものじゃない。
せいぜい小さなささくれが指に刺さった――そのくらいのもの。
だけど刺さる部位によっては、嫌になるくらいの痛みになる……。
「やっぱダメだわ、あたし……。あんなつまんないことで本気になっちゃってさ……。相手が夏陽じゃなかったら、やばい空気になってた」
「いや、あれは怒ってもしょうがねえよ。知らねえところで知らねえ奴に勝手に個人情報を渡されてたら俺だってキレるし、普通に絶交する。当然のセキュリティ意識だと思うぜ」
「そうじゃない……そうじゃないんだよ……」
ゆるゆると首を横に振って、進冬は自分の何かを掘り返すような声で続ける。
「あたし……ここであんたと話すの、ちょっと気に入ってたんだよね。めんどくさいことから解放されて、自由になった気分でさ……」
いきなり俺の話になって、少し戸惑った。
「だから……なのかは、わかんないけど……夏陽に男の話されたとき……その気分を、傷つけられた気がして……」
どこか言いにくそうに。
どこか恥ずかしそうに。
進冬はそう告白する。
「なんかさ……水を差された気がしたんだよね。夏陽は知らないんだから、仕方ないのに……」
進冬は振り返らない。
それはもしかすると、顔を見せたくないからじゃないかと思った。
俺に顔を見せると。
俺の顔を見ると。
さっきよりもよっぽど、やばい空気になるからじゃないかと思った。
だってそれは――
幼馴染みが紹介するイケメンなんかよりも、サボり場で会う俺の方が――
俺は目をそらす。
勘違いの可能性に怯えながら、しかしそうじゃないことを祈り。
「……俺も、気に入ってるよ」
とだけ、絞り出した。
するとようやく、進冬は振り向く。
その口元にどこか嬉しそうな、いたずらっぽい笑みをたたえて。
「両想いじゃん」
どうやらそのようだった。
少なくとも、サボり仲間としては。
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