五 久遠家の女中、フキの語れる(三)

 奥さまは木綿の着物にたすき掛け、そして手ぬぐいで姉さまかぶりをしていた。そのお姿に驚いた。てっきり、お戻りになったご実家で、悠々自適でお過ごしかと思ったのに……。

 奥さまも、びっくりなさってか、目を丸くしている。

「……元気そうね、フキ」

「はい。奥さまも。あのう、これ、つまらないものですが」

 ここへくる途中で買った塩大福の紙袋を差しだす。奥さまは、たすきと頭の手ぬぐいを外して、

「ありがとう。ま、まあ上がってちょうだいな」

「お邪魔いたします」

 下駄を脱ぎ、赤い鼻緒を持ってそろえる。

 奥さまのご実家は、こう申してはなんだけど、普通の日本家屋だった。年季の入った板張りの廊下、やや建てつけの悪い障子戸。お茶の間の黄ばんだ畳。いい具合に古びた感じが自分の実家を思い出させて、なんだかなつかしい。

「番茶がいいかしら。冷たい麦茶もあるけど」

 お茶を淹れてくださろうとする奥さまに、慌てて「そんな、どうかおかまいなく」と言うけれど、

「いいのよ。お客さまなんだから座ってて。今ちょうど誰もいないの。私だけ」

 奥さまは台所でお茶の支度をしてくださる。

「嬉しいわ。フキが訪ねにきてくれて。ここへはどうやって来たの? 市電?」

「あ、はい。喜久乃さんから、奥さまのご実家の住所を教えてもらって、それで」

 女中頭の名をだして説明すると、奥さまは「そう」とうなずく。


 番茶と塩大福を一緒にいただく。ひと口食べるなり、奥さまは「おいしい」と、にっこり。よかった。

「ここの大福、粒がごろごろしていて好きなんです。奥さまにはケーキやクッキーの方がよろしかったかもしれませんが」

 だけど洋菓子は、わたしの懐事情ではちょっぴり厳しかったのだ。

「ううん。私、餡子が大好きなの。特に皮がぷちぷちしてるくらいの粒あんが」

「わたしもです」

「そう。じゃあ次は、すっごくおいしいどらやきをフキにお返しするわ。きっと気に入ると思う」

「そ、そんな。どうかお気遣いなく」

 恐縮するわたしを、奥さまはなごやかなお顔で見つめる。

「元気だった?」

 もう一度、おっしゃる。はい、と、わたしももう一度答えると、しばらく間が空いて、

「久遠に言われて来たの?」

 奥さまの表情が、すっと変わる。どこか、さぐるような目をわたしに当てられる。とたん、緊張して声が裏返る。

「いいえ! わたしが勝手に来たのです! 今日はお休みの日でしたので。旦那さまは、わたしがこちらへ参ったことはご存じありません。ほんとうです。嘘ついてません!」

「そう」

 奥さまは、ふう、と息をつく。がっかりしているのか、それとも、ほっとしているのか。どちらともとれるご様子だ。うつむいて、再び黙り込んでから、

「久遠は……どうしてる?」

「お元気ありません」

 奥さまは、はっとしたように顔を上げる。

「お顔の色がすぐれなくって、気のせいか髪の色つやも悪くなったような。特にご病気というわけではないようですが、このところの旦那さま、とにかくお元気がないのです」

「……それは血を吸えないからでしょう」

「は、はい?」

 小声でぼそりとつぶやかれたので、よく聞こえなかった。

「ううん、なんでもないの」

 誇張でもなんでもなしに、旦那さまはこのところ、お元気がない。半月前に奥さまがご実家に戻られてから、ため息ばかりついている。そんな旦那さま、初めて見た。ご結婚されてから、ずいぶん若返られていただけに、いっそう、おかわいそうだった。

「奥さまがご実家へ戻られてから、旦那さま、しょんぼりなさっています」

「そう……」

「あ、あの」

 旦那さまとの間に、何かあったのですか? 

 ものすごく、そう尋ねたかったけれど、その問いはごくんと呑み込む。いけない。使用人風情が出しゃばってはいけない。奥さまのご実家を、こうしてお訪ねしているのだって、やってはいけないことなのだ。喜久乃さんに勘づかれていないといいのだけど。

 ほんとは奥さまに、こう申し上げたかった。

 旦那さまが何をしたかは存じませんが(妻が実家に帰るというのは、十中八九、夫の浮気だそうだが)、どうか許してあげてください! 旦那さまもきっときっと、反省なさっています! と。


 どうしてわたしがこんなに旦那さまに肩入れしているのかというと、旦那さまには恩義があるのだ。

 わたしの家は貧しくて、実はわたしは女郎屋に売られるはずだった。それが怖くて逃げだして、久遠邸のお屋敷に迷い込んだ。もちろんすぐに見つかった。使用人の人たちに追いだされようとしたところを、旦那さまが「うちに置いてやれ」とおっしゃってくださったのだ。

 十五歳の頃だった。女郎にならなくてすんで、ほんとにほんとに感謝している。

 旦那さまは一見、冷たそうな方だけど(実際、仕事を怠ける者は容赦なくクビにするけれど)、実はやさしい方だと思う。

 きっと奥さまだってそれはご存じのはず。なんたってご夫婦なのだから。だから奥さま、どうか早く戻ってきてください。

 そんな気持ちを込めた目で、奥さまを見つめると、

「心配かけちゃってごめんなさいね、フキ」

 奥さまは申し訳なさそうに、形のいい眉を八の字にする。

「でも、もうちょっと……ひとりで考えたいの」

「そう、ですか」

「久遠の様子を知らせてくれて、ありがとう。さ、大福、もっと食べて」

 奥さまは無理して微笑むようなお顔をされる。憂いをおびたその表情は、以前よりも大人びてらっしゃるように見えた。


 おしゃべりがすっかりはずんで、気づいたら、もう夕暮れになっている。窓の外を見て、はっとする。

「わたし、そろそろ失礼いたします」

「ねえ、よかったら晩ごはんも食べていかない? わたし、けっこう料理するのよ。といっても、ここ最近になって覚えたんだけど」

 なんでも、同居しているおじさんから習っているのだそう。

「私、剣術以外はほとんど何もできないから。遅ればせながら、いろいろ勉強しようと思って」

「いつか旦那さまに、手料理を振る舞ってさしあげてください」

 そう言うと、奥さまは微苦笑して「気をつけて帰ってね」とだけ、おっしゃった。それで、まだお戻りになる気にはなれないのだな、と察した。残念。それでも旦那さまのご様子をお伝えできて、よかった。奥さまともいろんなお話ができたし。


 秋の日暮れは早い。歩くうちにどんどん日が沈んでいく。

 はて、市電の停留所はどっち方向だったかしら。来た道を戻っていたはずが、細い路地に入り込んでしまっている。もしかして、わたし、迷った? とりあえず大通りの方へでよう。

――うん?

 不意に、後ろから甘酸っぱい香りがした。この匂い。旦那さまの使ってらっしゃるコロンと同じ匂いがする。そう思うや否や、わたしはその匂いに包まれる。

 首に熱いものが刺さる。

 自分の身体から、勢いよく何かが吸いだされる。全身の力がぐんにゃり抜けていく。やめて。怖い。放して。かんにんして。ああ。

 ぐらりと身体が傾いて、暗くなりかけの空が目に映る。あ、一番星だ。きれい。ああ、早く停留所を見つけて帰らないと、喜久乃さんに叱られ――。


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