三 出戻ってきた久遠明日子の語れる(一)
なぜかその日の夕食は尾頭つきの鯛だった。
なんの連絡も入れず、いきなり戻ってきた私をお祖父さまは叱るでも、
あれから実家では女中を雇ったそうなのだが、叔父の基に言わせると、「どうにも家事の仕方ががさつなので、結局ひまをだした」とのことだった。
「何を言う。お前が口やかましく指図するから、向こうから『お暇させてください』と言ってきたのではないか」
お祖父さまの言葉に、基叔父は「う……」と口ごもり、
「なあに、掃除洗濯に飯たきぐらい、今までどおり私がやりますよ」
ちなみにこの鯛の塩焼きは、お祖父さまが魚屋までひとっ走りして買ってきてくれ、手ずから炭火を熾して焼いてくださった。
「骨は捨てないで、明日の朝、鯛汁を作りましょう」と基叔父。
「食べきれなかった分は、ほぐして“そぼろ”にするのもいいですね」
そうつけ加えるものだから、
「ほらな、こんな具合だ。女中からすれば面倒くさくてかなわん」
お祖父さまが、おどけた横目を向けてくる。
ああ、いいなあ。やっぱり、うちはいい。祖父と叔父とともに食卓を囲みながら、久遠の屋敷で自分がどれだけ気持ちを張りつめていたのか改めて分かった。久遠とは共に食事をとるでもなければ、こんなふうにくつろいだ空気にもならない。やっぱり私のうちはここなのだ。
「当分、いられるんだろう?」
食事を終えて、基叔父と並んで食器を洗っていると、そう訊かれる。
「いても……よろしいでしょうか」
おずおず言うと、叔父は眼鏡の奥の目を細め、
「もちろん。好きなだけいればいい」
シャボンで泡だらけの手で、頭をわしわし撫でてくる。
「その代わり、道場の手伝いをしてもらうぞ。おっと、それとも家事の方がいいかな」
「道場の方にします。逃げてしまった女中さんみたいに、私も叔父さまに、やいやい言われたくありませんから。おおかた障子の桟を指でなぞって、『埃が残ってる』なんて注意したのではないですか」
「こいつめ」
この基叔父という人も、ふしぎな人だ。
もともとは森村家の分家すじに当たる家の出で、母の死後、祖父が養子に迎えたのだった。叔父といっても私とは十歳しか離れていない。剣の腕はもちろんのこと、大変な秀才で、なんと帝大にまで進学した。
卒業後は民間でも官吏でもエリートコースを歩めたろうに、その道を選ばなかった。そうして森村家当主である祖父の補佐役をずっと務めている。もしかしたら、それが養子に入った自分の務めと叔父は考えているのかもしれない。直接訊いたことはないけれど。
叔父は祖父と共に道場を共に営み、我が家の家政運営を担い、血魅の始末の采配もする。そして私にとっては親代わりとも、兄代わりともいえる存在だ。
そんな叔父も、もう三十歳だ。そろそろ身を固めてもいい頃だけど、そういう話はないのだろうか。眼鏡をかけているから一見そうは見えないけれど、顔立ち自体は整っている方だと思う。尤も、血魅を討つ家に嫁いでくれるような奇特な女性は、なかなかいないのかもしれない。
性格は穏やかで、冷静沈着。割と、かっとなりやすい祖父とは対照的に、この叔父は滅多なことで感情を表にださない。それだけに、いったん怒るとお祖父さまより怖いのだけど……。
まあ、それはともかくとして、祖父を大事に思うように、基叔父も私にはとても大切な人だ。この二人が自分にとっての家族なのだと、出戻ってきて、つくづく思う。
シャボンを飛ばしあって笑う私たちを、茶の間から祖父が、神妙な顔をして眺めている。
「足の幅は、肩より少し広く。重心は……腰のここ。ちがう、もっと内側」
私はしゃがみ込み、小柄な男の子の足もとに手を添える。その子は、「はい」と真剣な顔をしてうなずく。
竹刀を握った子どもたちが、板張りの道場に十人ほど並んでいる。みな額に汗を浮かべて、唇をきりっと引き結んでいる。
「では、構え」
私の声でいっせいに竹刀が上がる。と、前列の一人が身体をぐらつかせる。
「おっと」
私はさっと駆け寄って、背を支える。
「構えで大切なのは呼吸と、身体の軸。ゆっくり吸って、静かに吐くの。分かる?」
「……うん」
返事はか細いけれど、顔つきは真剣だ。その頭を軽く撫でて立ちあがり、改めて、
「構え――打て!」
「やーっ」「めーんっ」と口々にかけ声を発し、生徒たちは打ち込む。男子も女子もひたむきに。
かつての自分を見るようだ。よたつきながら竹刀を握り、構え、打つ。それを何度も何度も繰り返すうち、身体で型を覚えていく。武道に近道はない。ひたすら練習を重ねるしかない。つらくて苦しい練習に耐えること、それ自体にきっと、意味がある。
「よし、次は一本打ち、いくよ。最初は……陽太!」
「はい!」
列からぴょんと飛びだした少年、陽太の竹刀が、私に向かって勢いよく振り下ろされる。それを受けとめ、打ち返しながら声をかける。
「もう少し前に踏み込んで。そう、その調子」
後ろでは女子の生徒たちが、目をきらきらさせている。
「おなご先生、かっこいいー!」「つよーい。すごーい」
竹刀の打ち合う音が古びた梁に反響する。間もなく夕暮れどきだ。茜色の光が細長く差し込んで、埃が金の粒のように舞っている。五時になり、稽古を終了する。
「本日はここまで!」
「ありがとうございました!!」
帰っていく子どもたち、ひとりひとりに声をかける。「車に気をつけてね」「寄り道しちゃだめだよ」と、
先ほど指導をした陽太が、とととと……とやってきて「おなご先生、なんでおなごなのに、そんなに強いん?」 と訊いてくる。
「そうね、毎日剣を振っていたからかな。ちょうど陽太くらいの頃から」
「じゃあ俺も、毎日稽古してたら、おなご先生みたいに強くなれるかな」
「なれるよ。私よりずっと強くなるよ」
そう断言すると、陽太は顔をくしゃりとさせて笑う。
「おなご先生、また明日!」手をひらひらさせて道場をでてゆく。
「さて、と」
子どもたちを見送ってから、道場をざっと片づける。
「森村剣術道場」を手伝いはじめて、はや十日。つまり、実家に戻ってきて十日間が経っている。今日は祖父も基叔父も用事があるとのことなので、初めて私だけで生徒たちに稽古をつけた。
最初は私のことを「ええ~、女の先生~!?」と、若干なめた目で見ていた男子もいた(陽太など、まさにそうだった)。だけど手とり足とりして教えるうち、ちゃんと“先生”として認めてくれるようになり、それは素直に嬉しかった。
祖父が「大(おお)先生」、基叔父が「若先生」、そして私は「おなご先生」と呼ばれるようになっている。
掃除を終えると障子を開け放し、新鮮な風を入れる。昔から、稽古が終わったあとの静かな空気が好きだった。道場内には熱気がまだかすかに残っていて、木々のざわめきと虫の鳴く音がする。汗がじょじょに引いてくる。
「平和だなあ」
縁側に腰を下ろして、ぽつりとつぶやく。この十日、久遠の方からは、うんともすんとも言ってこない。一応、手紙は置いてきた。しばらく実家へ帰ります、といった内容で。
しばらく久遠と離れたかった。離れて、自分の気持ちを見つめ直したかった。
トリアー氏の晩餐会の晩は、かつてなく久遠との距離が縮んだ気がした。印について、久遠について今まで知らなかったことを知った。仕事に誘われて嬉しかった。ダンスは楽しかった。接吻まで交わしてしまった。まるで普通の夫婦のように。そして、久遠が母を愛していたことをも知った。
なぜあのとき、私は泣いてしまったのだろう。心がずきずきしたのだろう。
久遠はきっと私のなかに母を見ていたのだと思う。だから私に求婚し、印を分けてくれたのだ。母と瓜二つの私を自分のものにするために。
それが分かったからといって、なぜ泣く必要があるのだろう。
母の身代わり扱いされたのが、悔しかったから? それもある。でも、それだけじゃない。私の心は傷ついた。胸のなかに手を突っ込まれて、ぐじゃぐじゃに掻きまわされたみたいだ。
あんなに胸が痛んだのは初めてだった。どうしてだろう。分からない。ただ、あのまま久遠のそばにいたくなかった。いてはいけないと思った。自分の心を守るため、この人から離れなければ――と。
なのに私は毎日、久遠のことばかり考えている。
子どもたちを稽古している間はまだいい。だけど、お風呂を焚いているときや、食事の支度をしているとき、布団のなかでうつらうつら眠りかけているときなどに、ひょっこりと久遠が頭のなかにあらわれる。そして久遠の夢を見る。夢の久遠は実際の久遠よりも少し、やさしい。朝になって目覚めると、枕に涙の跡がある。
久遠と離れていて、よかった。久遠の夢を見ているなんて、久遠に感づかれたくないから。
そんな物思いにふけっていると、
「夕涼みか」
基叔父が庭先から現れる。
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